守田です(20210117 23:30)

昨年より始めた連載「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の考察の5回目をお送りします。
前回、資本主義を確立していった市民革命に孕む強烈な暴力の肯定について問題にしました。今回ももう少しこの考察を続けたいと思います。

● 中世社会末期の暴力性と抵抗の暴力を考える

市民革命をいちはやく展開したイングランドにおいて、カルヴァン主義が大きな力を発揮したこと、それがピューリタンの苛烈な暴力を支えるものとなっていたことをおさえました。
それでは他の国ではどうだったのでしょうか。今回、問題にしたいのはドイツです。チェコのヤン・フスなどの運動がドイツに広まり、マルティン・ルターによるカトリック批判がなされたことが、「宗教改革」と言われる一連の動きの大きなトピックだからです。
このプロテスト運動は各地でさまざまな戦争を生み出しました。とくにルターに影響を受けた人々は「ドイツ農民戦争」という広範な農民一揆を起こしました。1520年代のことです。

後年、カール・マルクスとともに「マルクス主義」を編み上げていったフリードリッヒ・エンゲルスが、『ドイツ農民戦争』(1850年)という書で詳しい分析を行っています。
これを紐解いてみると、中世社会が教会と領主を中心に農民をひどく圧迫しており、それへの抵抗がプロテスト運動と結びついたことが紹介されていますが、ここで考えおきたいのはこの時代に民衆の側の抵抗でもちいられた暴力をいかに捉えるかです。
僕はやむにやまれぬ正義の抵抗だったと思います。中世社会全体が暴力的であったとは思いはしないのですが(この点は不勉強ですが)、少なくとも神聖ローマ帝国の崩壊時、権力者は苛烈な暴力で圧制を敷いていました。

それまでもたびたび抵抗に起ちあがったドイツの庶民、農民は、残酷な処刑をされたり、手や指を切り落とされたり、鼻をそがれたりを繰り返していました。これに当時の人々が武力で抵抗したことを、今の人権に守られた立場から批判などできません。
それでも問題にしたいのは、苛烈な支配を苦難の末に打ち破った面が市民革命にあったがゆえに、そこで発せられた暴力がその後も美化され、強化されてしまったのではないかということです。それが現代まで受け継がれているのではないか。
そして実は、全世界を市場化していった資本主義は、まさにこのものすごい暴力性があったからこそ、世界の市場への巻き込みを可能にしたのではなかったか。にも関わらずこれまでの資本主義論ではこの重要な点の考察が抜けていると思うのです。


農民たちが騎士を取り囲む 左上に描かれているのは農民を象徴するブントシュー(紐が長い靴)をあしらった旗 ウッドカット作 1539年

● 宗教的支配層へのルターの苛烈な批判

話を戻しましょう。先にも見たようにドイツにおける「宗教改革」はルターの宗教的支配層への激しい怒りの表明によって始まりました。ルターの声に様々な社会層、とくに農民が共感して起ちあがり始めました。
エンゲルスは著書『ドイツ農民戦争』の中で、ルターの激烈な檄を紹介しています。

「彼ら(ローマの坊主ども)のたけりくるう乱行ざたがこれ以上つづくなら、私は思うのだ、それをおさえるには、王たちと諸侯たちがそのための暴力にうったえ、武装し、全世界を毒するこれら有害のものどもを攻撃し、ことばをもってでなく武器をもって一挙にかたをつけよというにまさる忠告もなく薬もまずあるまい。われらは、盗賊を剣で、人殺しを首しめなわで、異端者を火で罰するのに、なぜかえって法王、枢機卿、司祭、ローマのソマドの有象無象のいったいのごとき有害な堕落の教師どもを、ありとあらゆる武器をもって攻撃し、われらの手を彼らの血であらわないのか?」(『ドイツ農民戦争』エンゲルス 国民文庫p53)

ルターの訴えは、王たちや諸侯を大きく刺激し、さらにはそれを飛び越えて農民の中に深く浸透していきました。とくに20代になったばかりのトマス・ミュンツアーという若き神学者が感化され、彼のもとに武装した農民が集まりだしました。
「ローマ教会を倒せ」というルターの檄に感化された農民が起ちあがり始めたことを、当初はルターは支持しましたが、のちに批判に転じ、やがて王や諸侯に武力による鎮圧すら求めるに至ります。
エンゲルスはルターが、勃興してきたのちのブルジョアジーに依拠し、農民や庶民に対しては抑圧者でしかなかった点を批判しています。


ヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の論題を貼り出すマルティン・ルター。(1517年10月17日) フェルディナンド・パウヴェルス作 1872年

● トマス・ミュンツアーの叫び

他方、トマス・ミュンツアーはますます先鋭的にローマ教会への批判を重ね、武装闘争への決起を呼びかけました。エンゲルスはミュンツアーの叫びをこう紹介しています。
「キリストは言いたまわずや、われは平和をきたさんためにあらず、剣をきたさんためにきたれりと(マタイ伝10の34)。諸君(ザクセンの諸侯)は、この剣をもってなにをなすべきか?ほかでもない、もし諸君がこれら悪党どもとちがって神のしもべたらんとするなら、福音をさまたげる悪党どもをとりのぞくことあるのみ。キリストはおごそかに命じたもうた、ルカ伝第19章の27節、「わが敵をここにとらえきたりて、わが目のまえにてころせ」と。」(『同書』p60)

かくしてミュンツアーに鼓舞された農民たちが、南ドイツを中心に各地で蜂起し、ローマ帝国の兵士たちや王たち、諸侯たちと相乱れて闘いました。1524年のことでした。
ミュンツアーは、教会の財産の没収とすべての人による共有化をも掲げていました。その点で私有財産制を共有制置き換えようとする共産主義思想の萌芽も展開していました。その主張は圧倒的な数の農民に支えられていました。
しかしルターが完全に抑圧の側にまわったことから、農民たちはローマ帝国だけでなく、王たち、諸侯にも攻撃され、やがて力つき、ミュンツアーも捉えられて処刑されてしまいました。農民の抵抗は敗北に終わりました。

エンゲルスはこの戦争を宗教戦争の形をとっていても、現実的な物質的利害が争われた階級闘争だったと分析しています。この戦いで利をえたのは後のブルジョアジーでしたが、エンゲルスは当時の農民たちの抵抗を讃えています。
このように「ドイツ農民戦争」は、貴族やあらたな市民階級など、のちのブルジョアジーの社会的地位を向上させましたが、しかしドイツはそのまま資本主義的発展を遂げたのではありませんでした。
1618年から1648年まで戦われた30年戦争で社会が荒廃したからでした。これまた宗教戦争でしたが、フランス・ブルボン王朝とスペイン・ハプスブルグ家の勢力争いが加わり過酷化し、ドイツ住民の20パーセントが死亡してしまいました。

このように中世に支配的位置にあったローマ教会へのプロテストが、やがて庶民・農民の抵抗をも引き出しつつ、ヨーロッパはあちこちで戦乱の渦の中に入っていきました。
繰り返しますがその中で資本主義は起ちあがりました。戦乱の中で市民革命もまたありました。この点に私たちはもっと大きな関心を払う必要があると思うのです。


トマス・ミュンツアーの肖像を載せた5マルク紙幣 旧東ドイツ 1975年

続く

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