守田です。(20120514 22:00)
これまで僕は、東日本・西日本の多くの方々と連携しながら、人々を少しでも被曝から守ろうとして奔走してきました。その際、やはり最も守りたいと思うのは子どもたちであり、未来世代です。昨年3月以降に立ち上がった多くの団体が「子どもたちを放射能から守る・・・」という言葉を選んでいるように、そうした思いは多くの方に共通したものであると思います。
ところがつい先日、それは、ある意味では一方通行なものだったのかもしれない、子どもたちも大人を支えて、放射能とたたかっているんだと、そう強く思わさせられ、感動することがありました。そうなのです。私たち大人だけががんばっているのではない。そうした大人たちをみて、こどもたちもたたかっているのです。しかもたたかう中で成長している。なんだか人間の可能性の素晴らしさをみせてもらった気がしました。
これはぜひともみなさんにお伝えしないといけない。そう思ってこの記事を書いています。このことを伝えてくださったのは、福島から昨年、京都に母子避難し、この4月からお連れ合いを合流して、兵庫県篠山市で新しい生活をスタートさせたAさんです。彼女と二人のお子さんと僕との出会いは、昨年6月10日のこと。「おむすびマーケット実行委員会」のみなさんに京都府の京北・和知にお招きいただき、お話をする会に参加したたおきのことでした。
http://omusubi.keihoku.jp/info/kyoto-np_110614.html
このとき、Aさんが、お子さんたちと一緒に参加して下さいました。京都市内から一緒に車で京北まで向かったのですが、会場で素晴らしい発言をしてくださいました。以下からその内容が読めます。
明日に向けて(166)子どもたちとともに、福島から逃れてきて(避難されてきたAさんのお話から)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/9f3f81b787242a00d986d3cd3e496ab2
以降、僕はAさんと親しくなり、たびたび、メールなどでのやりとりを重ねてきました。京都市のある保育園にお子さんを通わせている友人の依頼で、この保育園の保護者会に来ていただき、発言していただいたこともありました。そんなときに、避難生活の中でのいろいろな苦労も耳にしてきました。
とくに何とも胸が痛く、腹が立ってしかたがなかったのが、こうして避難している彼女のところまで、福島から公報が送りつけられ、「避難した母親が、子どもにいらぬストレスを与える」だのなんだのと、彼女たちをバッシングする言葉が書き連ねてあることでした。お父さんと会えない淋しさを背負った子どもたちのことに胸を痛めているだけに、Aさんはその言葉に深く傷つけられていました。
僕はとにかく彼女を励まして差し上げなければと感じ、「Aさん。あなたはお子さんたちに素晴らしいプレゼントをしましたよ。間違いないです。胸をはってください。どうか、ひどい言葉で傷ついた心を癒してくださいね」と語りました。語ることで、必死で、この暴言を吐いた人々と闘いました。今も僕は同じように感じているし、同じ立場にいるすべての方たちにこの言葉を送りたいと思います。
ところが、先日、篠山市を訪れ、全体としてとても素敵な企画に参加させていただいたときに、ようやく一家が合流できた彼女が訪れ、再び発言を聞くことができたのですが、そこで、避難当時5歳だった娘さんが、それ以降、ママとパパにあてたたくさんの手紙の一部を読んでくださり、その言葉にとても驚き、深い感銘を受けたのでした。というのは、娘さんは、その小さい胸で、ものすごくたくさんのことを吸収し、受け止め、ママとパパが今、なぜ、何と闘っているのかを悟り、そうして自分はそれに感謝し、精一杯支えるのだと決意。一貫してお二人を励ましてきていたのです。
それが述べられた文面を、Aさんが次々に披露してくださいましたが、これが5歳、6歳の文面なのか。いや、5歳、6歳の人間とはこんなにも素晴らしい力を持っているのかと胸を揺り動かされずにはおれない内容でした。思わず、その言葉に泣かされてしまいましたが、僕だけでなく、会場につめかけたみなさんが、同じ思いだったように思います。子どもの力は凄い。いや人間の力はここまでも凄いのです。
その意味で、確かにAさんはお子さんたちに素晴らしいプレゼントをしましたが、そのプレゼントを受けて、お子さんたちも本当に驚異的に前向きに歩みだし、大人たちを支えぬいてきたのです。だから彼女たちは、この素晴らしいプレゼントをそのまま返してくれていたのです。そうした彼女に、Aさんが支えられ、そうしてそのAさんの奮闘に、僕もまた支えられてきました。私たちはそうやってみんなで歩んできたのです。
どうかみなさん。Aさんの発言を最後までお読みください。とくに後半に出てくる娘さんの言葉にご注目ください。そうして同じような思いで、今を生きているのであろう、多くの子どもたちに感謝し、それでこそなお一層、子どもたちを守るのだという思いを強めましょう。以下、Aさんの発言を贈ります。
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子どもたちとともに過ごした1年(福島市からの1年間の京都市母子避難生活を経て一家で篠山市に移住したAさん。なおタイトルは守田がつけました)
私は地震があったときに福島市に住んでいました。
地震にであったときには大変怖い思いをしましたが、福島市は内陸の方だったので、地震や津波の被害は少なかったです。そのあと原発事故があり、それによって私たちの生活は本当に一変してしまいました。本当に3月11日から今日までのことをすべて話したら長い話になってしまいますし、今日、講師をしてくださった守田さんは、私の話を何でも聞いてくださっているので、あまり長く話すのはどうかと思うので、簡単にお話します。
私は地震があったときに県の職員をしていました。そのすぐあとに原発事故があって、そのときに、そのまま福島県にとどまって仕事を続けるのか、それとも子どもを連れて避難するのかということで、地震のあった翌日の日にすぐに選択を迫られる形になって、そのときは本当に危機的な状況でしたし、とても子どもをそこにおいておくことはできないという判断をして、やはり県の職員として、ああいう非常事態の最中、自分だけが避難するということについては、本当にものすごい葛藤がありました。
この仕事を失うということももちろん考えましたし、やはりどうしても逃げるということに対して強い葛藤があったのですけれども、本当に一人の母親として、うちに子どもがふたりいるのですが、そのとき5歳と3歳の子どもでしたが、一人の母親として、どうしてもあのまま子どもをあの場においておくことはできなかった。仕事を失っても、何を失っても、全てを失っても、とにかく子どもたちだけは守りたい。それがそのときの正直な気持ちでした。
結局、仕事を退職して避難してくることになったのですけれども、仕事を退職したことについては、公務員だったのですから、公僕として、最後まで福島県に残るべきだったのではなかったのではないかと、こちらに避難してきてから言われたこともありました。それについては、私自身も未だに痛みは消えません。そのときに仕事をまっとうできずに県職員をやめた心の痛みは、おそらくこれからもずっと続いていくのかなと思います。それでもやはり後悔をしたことはなくて、一人の母親として子どもを守りたいという一心で行動したことを後悔したことはありません。
福島から避難してきて一年間、京都で過ごしました。その間、主人はどうしても生活を支えなければならないこと、またすぐに仕事を退職する決心がつかなかったこともあって、1年間、福島に残って仕事を続けました。その間、私が京都で子どもたちと母子3人で主人と離れて避難生活を送りました。
その間は本当に子どもに淋しい思いをさせましたし、辛い思い、精神的な負担がたくさんあったと思います。さきほど講演で言われた福島の山下俊一さんや、行政関係者の話は、避難することによって、子どもが精神的ストレスをかかえることが一番良くないんだ、だから親が冷静に対応しなさいということで、それがさんざん、福島の市政だよりだとか、そういうものに書かれていました。そういうものを読むたびに、自分のしていることは本当に正しいことなのか、何もかも捨てて大きな代償を払って避難してきたけれども、本当は福島に残っていても、大丈夫だったんじゃないか。ふとわれに返ると、とんでもないことをしてしまったのかなと、何度も思わされることがありました。
京都にきて、親戚も友達もいないなかで、最初の数ヶ月間は本当に孤独で、今日一日、誰とも話をしなかったなあ、子どもとしか話をしなかったという日が何ヶ月間か続いて、毎日、とにかく孤独な状況でしたが、パソコンをあけると、守田さんからの「明日に向けて」というメールが入っていて、それをみて本当に支えられる、慰められるという日が続きました。
そんな生活を1年間続けて、夫もそれから私もこの生活に限界を感じて、この4月からは夫も仕事を辞めて、篠山市で家族一緒の生活をはじめています。夫も私も同じ公務員という立場で向こうで働いていたわけなのですけれども、二人ともその仕事を辞めて、こちらの方に避難してきているという状況です。
本当に夫婦ふたりそろって仕事を失ったこと、向こうに新築したばかりの家もありました。その家も置いてこざるをえなかったこと、本当に経済的な損失を考えたら、大人一人8万円、子ども一人60万円では、ひとけたもふたけたも違うだろうと怒りを覚えるぐらい、大きな損失があったなと思っています。ただそれをいくら嘆いても時間が元に戻るわけではないし、それから私たち家族は、なんといっても全員、命が無事でまた家族がそろって生活できたということに、ものすごく感謝しているところもあります。
やはり失ったものも多くて、なかには家族一緒の生活であったり、取り戻せるものもあれば、もう取り戻せないものもあるわけですが、やはり今、手元に残されている大事なもの、家族の健康であったり、家族が一緒に生活することであったり、そうした大切なものが、今、私たちの手元には残されているんだということに、感謝して、これから生活していけたらなと思っています。
これが簡単に言うと、これまでの私たちの一年間の生活なのですけれども、今日は娘がこの一年間にいろいろと手紙を書いてくれまして、それをちょっとご紹介できたらなと思って、たくさん書き溜めたうちのほんの一部になるのですけれども、ご紹介したいと思います。
原発事故があって本当に数日、二、三日後の手紙なのですけれども、読んでみます。
じぶんのかぞくへ いま、いちばんのばくはつや、にばんのばくはつや、さんばんのばくはつがなりそうだから、みんな、ばくはつからわたしたちをまもるために、みんなまもろうとしてくれて、ありがとう。
これが当時5歳の娘が書いた手紙です。
パパをふくしまにのこし、ママとこどもでひなんしている。わたしはパパがいないとさみしいです。でもわたしはやっぱりびょうきになるのはいやだ。しんちくしたばかりのおうちをたてて、しあわせにくらしていたのに、げんぱつがわりこんできたから、いままでみたいなせいかつができなくなって、わたしはとてもかなしい。
パパへ。わたし、ママがいるけど、パパもいないとさみしいよ。だからきょうとでじぶんがいいとおもうしごとをみつけてほしいよ。みんなパパがいないとさみしいからほんとうにこっちにきてほしいなあ。パパだいすきだよ。だってパパってとってもかっこいいからだいすきなんだよ。パパはやくあそびにきてねー。
夫が一ヶ月か二ヶ月に一度ぐらい、京都に遊びにきてくれましたけれど、会うときは子ども本当に大喜びで、待ち遠しくて、何日も前から楽しみにしているけれども、一日、二日を過ごして夫が帰るときには、涙、涙の別れです。「どうしてそばにいてくれないの。どうしてかえっちゃうの。」本当に子どもたちには一年間、淋しい思いをさせたなと思います。
パパへ。いつもたべもの、きをつけてますか。あそびにきてくれるときは、きれいなたべものをたべようね。ママもげんきだよ。パパはどうすればいいのかわからないよね。もしそういうときは、ねえねにきいて、きをつけてたべてね。
福島に残っている私の姉に相談して食べるようにと気遣った手紙ですね。
ママへ。いつもきらきらかがやいているママがかわいいよ。ママだいすき。ママいつもありがとう。たのしく、パパがかえってもたのしくいきようね。ママだいだいだいすき。
ママへ。みんなのこころをひとつにしてがんばろうね。かぞくがばらばらになったのはわたしもかなしいけど、これからもいっしょにすすんでゆこうね。
パパへ。パパはさみしいよね。わたしもおんなじきもちだよ。だからパパのきもちをよーくわかるよ。だってパパがかえるとき、なくぐらいだもん。もちろんいえもこいしいよ。パパがんばってね。
ママへ。いつもママにかんしゃしているよ。ママだいすき。ママよりすきなものはなにもないよ。だってママがだいだいだいすきだから。ママいつもいっしょうけんめいがんばってくれてありがとう。
ママへ。ママもうすこしだからがんばって。わたしもママのことおうえんしているよ。ママがしんだりしないでね。がんばれえ。ママもわたしみたいにあかるくまえむきにあるいていくんだよ。
娘が私に書いてくれる手紙はいつも「がんばろうね。おうえんしているよ」そういう手紙が本当にたくさんありました。
そんな娘からこの4月に無事に家族一緒に暮らせるようになったときに、こんな紙をもらいました。
「がんばったで賞。(ハートマーク)あなたはわたしのいのちのおんじんです。よくがんばりましたね」
最後ですが、昨年の6月、京都の保育園に通い始めたばかりの娘が、保育園でひとり自由帳に書いていた文章です。
いまはわたしのゆめは、パパといっしょにくらしていきることだけがゆめです。どうぞそのとおりにしてください。おねがいします。わたしをおたすけください。
これらは娘が書いた手紙のほんの一部なのですけれど、今も父親と離れて母子だけで避難している家族が本当にたくさんいます。その子どもたちは同じような気持ちで今なおまだこの毎日を過ごしているんだなあと、私も考えるたびに胸が締め付けられます。どうか本当にみなさんに、福島に愛を送ってほしいです。それとこういう子どもたちが、これから二度と原発事故による苦しみを味わうことのないように、本当に原発を止めてもらいたいです。そしてせっかくここまで避難してきたのに、放射能が追いかけてくることがないように、がれきを受け入れないでほしいです。どうかよろしくお願いします。