守田です。(20131107 23:00)

このところ忙しさにかまけて、「明日に向けて」の更新が滞ってしまいました。すみません。
さて、今回は、被爆医師、肥田舜太郎先生と、ドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイル博士とのビック対談を取り上げたいと思います。

プフルークバイル博士は、日本の医師たちとの対話などのために10月半ばから日本に来られています。10月25日、26日には京都にも来られ、そのときもお会いしました。
京都では、関西の医師たちとの会談を目的にされたのですが、同時に、これまで何度も日本に来られていながら、観光をしたことがないとのことで、ささやかでしたが京都観光の案内もさせていただきました。
25日の夜は、岩倉のNONベクレル食堂にいって、集まったたくさんの方と歓談。同時にとても貴重なインタビューもさせていただきました。
それやこれやの報告も今後、させていただきますが、今宵は、スペシャルな対談である、肥田先生への訪問のお話です。

この訪問は、内部被曝問題に一貫した取り組みをされてきた、医師で岐阜環境医学研究所長の松井英介さんのプロモートで実現されました。
当日は、プフルークバイル博士と、今回一緒に訪日されているお連れ合いのクリスチーナさん、松井先生と、お連れ合いの松井和子さん、ドイツ語通訳の山本知佳子さん、それに守田がお訪ねしました。
肥田先生の秘書役を務めてくださっている辻仁美さんが私たちをピックアップしてくださいました。

ちなみに肥田先生は現在96歳。来年のお正月で97歳になられます。プフルークバイル博士は67歳ですが、肥田先生の息子さんが同い年なのだそうです。
お二人は一世代違いますが、放射線防護、そして内部被曝問題への関わりの熱さは共通のことです。この素晴らしい会合に同席させていただいてとても幸せでした。
お話はプフルークバイル博士が、肥田先生に質問し、お話を聞く形で進みました。記録を書き起こしますので、どうかその場に一緒にいたつもりになってお読みください!

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肥田・プフルークバイル対談
2013年11月3日

プフルークバイル
今日はお時間をとってくれてありがとうございます。
肥田
ドイツには8回行きました。当時は東には行けませんでした。

プフルークバイル
広島のことについて、いろいろなされてきたことを本でも読んだのですが、幾つか質問させていただいてもいいでしょうか。
原爆が広島・長崎に投下されてから、およそ5年間の間、情報が隠されていたと聞きましたが、どうしてそういうことが可能だったのでしょうか。アメリカがやったのでしょうか。
肥田
アメリカは戦争が終わるときに上陸してきた、軍事占領をやりました。占領という形ですから、われわれは無力で、こちらから何を言っても通じませんでした。アメリカが一方的に占領軍として振る舞ってきた。それが原因ですね。

プフルークバイル
公式の命令という形で秘密にしなければいけないと言われたのか、事実上、秘密になっていて、誰も口を開かなかったのか、どっちなのでしょうか。
肥田
文章には残ってないのですけれども、マッカーサーが占領軍司令官という形で命令を出しました。絶対権力者でしたから。日本の政治家も軍人も、誰も一言も応答ができない。頭からこうしなさいといういい方です。
国民には、原爆の被害については、一切、軍事機密である。だから自分の症状についてもしゃべってはいけないというような厳重なものでした。文章としては残ってないけれども、命令としてなされました。

プフルークバイル
マッカーサー将軍が権力を握っていたのですね。
肥田
彼はアメリカ軍の司令官であるだけではなくて、連合軍の総司令官でした。だから日本と戦ったすべての国の司令官として占領を行ったのです。
マッカーサーが中心にいるわけだけれども、日本を細かく行政区に分けて、全部に彼の部下を配置しました。広島には広島の軍の司令官がいて、上からの命令が下りてきて細かく占領されました。
僕らの周りには、アメリカの憲兵がいて、町の中を細かく支配していた。
とくに占領直後は、日本の軍隊が管理されて、軍隊の抵抗はほとんどできなかったし、しなかったのだと思います。

その次にアメリカが恐れたのは、被爆者の実情が世界に知られることでした。だから広島・長崎の管理はとくに厳重だった。
当時、広島は建物は何もない。生き残ったものががれきの中に寝転がっていた。そこを僕が歩き回って相談したりしていた。僕らがやけどの治療などをしていると、必ず米軍の憲兵がそこにくるのですよ。何をしているのかを見ている。
私は医者ですから、重症が寝てれば回ってきてそこに来るわけですね。他に医者がいないわけですから。そうすると、特定の被害者のところにいって、何か画策しているのではと疑いをもたれる。だから絶えず私が行って治療するところは、憲兵が来てずっと見ていました。

松井 
その頃、先生を含めて生き残った医師は何人だったのですか。
肥田
僕の周りでは5人ぐらい。もともといた市内の開業医はほとんど自分もやられていますから、生きていてもやっと寝ているぐらいでしょう。活発に動ける人はぜんぜんいませんでした。

クリスチーナ・プフルークバイル
医師の数が少しずつ増えていって、状態が改善されていったのはいつごろからですか。
肥田
6日に爆弾が落ちて、9日から九州や四国の軍隊の軍医が、衛生兵や看護婦と薬品などを持って応援にきましたから、9日からは少し手が増えた。
広島はだいたい、直径が4キロぐらいの町です。爆心地に近い辺りはほとんど即死しています。助かったのはその周辺にいたのに住民にしても兵隊にしても生き残ったものがでた。
私たちは6キロ離れた戸坂村にて、そこに3万人も逃げてきましたから、それを診ていて、結局そのままその村にくぎ付けになって、その人たちを専門に診ていました。
広島市内に、患者が、日赤病院とか逓信病院とか、もともと病院のあったところに医者も患者も集まった。焼けたボロボロの中で一つセンターができる。結局4つセンターができました。僕のところは大きくて3万人いた。もうひとつ可部という西の方に大きな塊ができた。
市内に2つ、全部で4つ、医者がいて治療のできる塊ができた。

僕のいた村は人口が1300人でした。そこに3万人もきたのですから、いるところがない。建物もみんな崩れている。結局、学校の校庭や道路にみんな寝た。
最初の3日間、ほとんど寝ずに患者をみました。死んで行くのをみるだけだった。治療をして助かるなんて状態ではなくて、上半身がみな、やけどですからね。
当時はやけどの治療法が間違っていました。軟膏を塗りつけました。ホウ酸軟膏という白いものをべたべた塗った。今考えると間違いです。今は水をかけて冷やして洗うのが基本です。当時はホウ酸を塗りつける。ところが薬がぜんぜんない。
仕方がないので、農家から菜種油をだしてもらいました。大事な、食べている油ですが、それを出してもらって、バケツの底に入れて、ぼろきれを入れてべちゃべちゃにしました。それを小学生の男の子に持たして、女の子がぼろきれに油をつけて、寝転がっている患者に塗って歩くというのが唯一の治療だった。

松井
小さい子供がだいじな手伝いをしたのですね。
肥田
村の中には壮年はみんないませんでした。男も女もみんな動員されて、戦争の準備として建物を壊したりしていました。いたのは年寄り夫婦と小学生でした。中学生以上はみんな動員されていた。だから僕の相手をしてくれたのは、おじいさんやおばあさんと小学生で、それがいろいろな手伝いをしてくれました。
患者が死ぬと、担架にのせて、どこかに運んでいくのですね。林の中に死骸を集める。それはおじいさんしかできない。大きな竹の棒を切ってきて、荒縄を渡すと臨時の担架になる。それに死んだ人を乗せて、みんなから見えない遠くの林の中へおいてくるのです。
それを60、70くらいのおじいさんが二人で持つのだけれど、重たいのは上がらないのです。担架をずるずるひきずっていきました。死んでいるからいいようなものだけれど、そんな具合でした。

クリスチーナ・プフルークバイル
痛み止めなどはもちろんなかったのですよね。
肥田
ぜんぜん。そんなものは。

内科的に症状を訴えるなどということはまったくなくて、死ぬか生きるかだけだった。初めの3日ぐらいはね。
僕が呼ばれるのは死人がでてきたときでした。死んだことを医者が認めなければ、死人にならないのです。焼き場に持っていけない。村長からも「生き死にだけをみてください」と最初から言われているから、死んだところに飛んでいって、証明するだけでした。
最初に、放射線ということはわかりません。原爆ということも分からないわけだ。ただ火傷で人が死んでいく中で、内科的な症状が初めて出てきたのは3日目なのです。8月9日の朝でした。

そのときはね、前の日の夜に看護婦さんがたくさんきてくれたのです。九州と四国からたくさん来ていた。その連中が、道路に寝ているものたちのところに出て行って、みんな診てくれたのですね。
そうしたら、「軍医殿、40度の熱が出ています」という。内科の患者で40度の熱がでることはまずない。マラリアとチフスぐらいです。だから40度出るというと、看護婦も自分で判断できないから医者を呼ぶのですね。大きな声で「軍医殿、軍医殿」と呼ぶから近くにいるものが飛んでくる。
体温計をみると確かに40度出ている。でもなぜ出ているか分からないのです。そのとき、一番びっくりしたのは出血です。鼻と口から血を吐く。それは普段から見ているから驚かないのだけれど、目尻から出てきて、それはみたことがなかった。「あっかんべー」をする白いところから、たらたら、たらたら、血が出てくる。
それで、全部焼けているから聴診器があてられないのです。脈をとろうと思っても、手も焼けている人が多い。聴診器をあてるのが苦労でしたけれども、そのうちに鼻や口や目尻から血がでるだけでなくて、吐くようになった。
下から、肛門からと女性の前の方から下血が起こった。みんな、地べたに筵をひいて寝ているのですが、それがたちまち血の海になっていく。
僕ら、膝をついてみているわけでしょう。するともう腰から下が、出てきた血でべたべたになってしまう。次から次にそれがあるわけ。

医者ですから、高い熱が出ているから、夜も地べたに寝ているわけだから、扁桃腺が腫れているに違いないと思う。それで無理やり口の中を開けてみてみた。
すると普通、口の中は桃色で赤いでしょう。真っ黒なのですよ。腐敗していてネフローゼを起こしている。無理やり開けると臭いんですよ。腐敗臭ですからね。それが特徴でした。
それともう一つ、あのときの特徴は、焼けていない肌に紫色の斑点がでるのです。紫斑といいます。ちょうど鉛筆のお尻に紫色のインクをつけてポンポンポンとやったような感じで。紫斑です。それがいっぱいでる。

最後に特徴的なのは、みんな苦しいからなんとなく頭に手をやる。そうすると男も女も手が触れたところの毛がみんなとれてしまう。脱毛という感じではないのですね。あれはなんと言ったらいいのでしょうね。
教科書をみると、今は「脱毛が起きた」と書いていますが、脱毛とは思えないのです。触ったところがすっととれるのです。頭が真っ白になる。
男性は、当時はみんな散髪して短いので、男はあまり気がつかないのです。女の人はやるうと手にごっそりついてくる。間違いなく女性はそれをみて泣きだすのですよ。

たくさん毛がついてくる。私も女性が自分の髪の毛がなくなったときに、死にそうな体でいながら、あんなに大きな声で泣きだすのは初めてみました。女性はみんな泣きましたね。頭の毛が無くなって、それがみんな手についてきますから。そうすると大声で泣き出す。よくこんな声が今頃でるなと思いました。
強い放射線にやられた急性症状は、まず出血と脱毛、紫斑、口のなかのネフローゼですね。真っ黒になって。そういう症状がでると1時間も経たずにみんな死にます。
私たちは学問的に教わったわけではないけれど、初めて診る症状で、アメリカの放送で原子爆弾だということは聞いたのですが、聞いてもそれがどういうものか分かりませんから、今度の爆弾ではこういう症状が出るなということを、実際に診ている中で覚えたのです。

続く