守田です。(20131108 12:00)
昨日の肥田先生とプフルークバイル博士の語らいの続きです。
今回収録部分で肥田先生が語られているのは、内部被曝についてです。原爆投下後の数日間、人々は熱線と原爆から飛び出した放射線にやられて、バタバタと悲惨に亡くなっていきました。
この放射線は「初期放射線」と言われているもので、中性子線とガンマ線がその正体です。原爆が破裂して1分以内に地上に到達したものと定義されています。激しい外部被曝を及ぼしました。
ところが1週間ぐらい経ってから、原爆投下時に広島市内におらず、熱線も初期放射線も浴びてない人が倒れだしました。放射能が蔓延する広島市内に入ってしまい、放射性の塵をたくさん吸い込んで内部被曝した方たちでした。
肥田先生は、初期にバタバタと亡くなっていった人々に続いて、内部被曝で倒れた人たちを診ていくことになります。そのまま生涯を内部被曝との格闘に費やされていくことになりました。なぜか。アメリカがそれを隠そうとしたからです。
今回は、肥田先生が初めて内部被曝に倒れたヒバクシャと出会った話から始まります。
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肥田・プフルークバイル対談(中)
2013年11月3日
肥田
それから、1週間ぐらい経ってから、患者自身が、「先生、自分は爆弾にあっていません」いうのが寝ているのですね。診るとなるほど焼けてない。
「どうしたんだ」と聞いたら、「自分は広島から何十キロも離れた別の部隊にいて、翌日、救援のために広島に入った兵隊なのです。
それで焼けている火の中で、人を助けたりしているうちに、労働が激しくて、脱水症状で意識を失って倒れた。仲間にかつがれて、医者のいるところに連れてこられた。
寝ているから私がそこにいったら、本人が訴えるのです。「軍医殿、自分は原爆にあっておりません。」
来たのは翌日のお昼です。人を助けているうちに、倒れて、僕らがみているところに連れてこられたので、寝ていて、医師がきたらみてもらおうと思った。
本人は周りが火傷して死んでいく中に寝ていてみているから、どうなると死んでいるか分かっている。目や鼻や口から血が出て、頭の毛がとれて、紫斑が出ると死んでいく。
すると自分が寝ていたら紫斑がでてきた。それが出ると死ぬのをみているから、私の腰をひっぱって、「軍医殿、自分はピカにあっておりまへん」というのです。
被爆者は原爆のことをピカというのですよ。それでどうしたと言ったら、今の話だった。原爆に会ってないのに、後から町に入って、気分が悪くなったという。
4、5日経って、またその場所で死人が出て呼ばれたのでいきました。30人ぐらいが寝ている。「ここに、自分は原爆にあってないといって寝ていた兵隊がいた。
あれはどうした?帰ったか?」と聞いたら、「死にました」と周りの人はいう。
「えーっ」と思いました。原爆にあってないのが死んだというのだから。それでどんな風だったと聞いたら、みんなと同じだったという。
一番典型的な例は、ある若い夫婦の話しです。もともと日本海の側(松江)の人だけれども、旦那が広島の県庁に勤めて広島に越してきた。
ちょうど1年経って、奥さんがお腹が大きくなった。原爆の落ち1週間ぐらい前に、おっかさんのところで子どもを産むということで。日本海の町に帰った。旦那1人残って県庁で働いていた。
そうしたら爆弾が落ちて、生まれた子どもを抱えていたら、ラジオや新聞で広島が大変だということを見た。しばらくは原子爆弾という新型爆弾が落ちて、相当な被害がでた模様というだけでよく分からない。
やがて松江の人で、広島に親戚がいるので見に行った人がいた。それが帰ってきてあることないこと話す。広島は焼け野原で誰も生きていないという。
人がみんな死んだと聞いて、びっくりして、子どもをお母さんに預けて、ちょうど1週間目に広島にでてきた。
町のかなり遠くから歩いて広島に入った。一面の焼け野原で何が何だか分からない。
近くの村の人が親切に「心配だからうちに泊まりなさい」と言ってくれて、郊外の農家に泊まって、そこから毎日、自分が住んでいた辺りの焼跡を歩いた。近所を探したけれど、訳が分からない。
そのうちに、「焼け跡を幾ら探しても分からない。もし旦那が生きているならば、周りの村に逃げているかもしれないから、生きている旦那に会いたければ、周りの村を歩けと言われて、あちこちの村を歩いて、僕のいる村にもやってきた。
そこでぴったりと旦那と会うことができたのですよ。珍しい例でした。
旦那は広島の県庁の地下室で被ばくをして、上から天井が落ちてきて、大腿骨折で折れた骨が外に出ていた。そのまま担架に乗せられて、火の中を逃げて、私のいた村に親戚があったものだから、やってきて、そこで寝ていた。
土蔵があって、重傷の人が何人か寝ていた。その中に彼も寝ていた。衛生兵が回ってきて、「俺が治してやる」と柱につかまらせて、足をぎゅっとひっぱった。そうしたら折れて飛び出していた骨が中に入った。
包帯も何もないから、ぼろきれを拾ってきて撒いて、竹の棒を荒縄で縛って、一応、理屈にある治療を受けて寝ていた。そこに松江から出てきて、村を回った奥さんがやってきて、会った。それで奥さんは旦那の看病を始めたわけだ。
そうしたら、その奥さんに熱が出て、いろんな症状がでてきて、旦那より重症になってしまった。15日ぐらい広島に入って、一週間、市内を歩いて、それから来たわけですが、熱が出始めて、血を吐いて、9月15日に死んだのです。
アメリカは、原爆を落とす前から、内部被ばくで、あとあと症状がでることを知っていたのですね。そのことを隠すことが目的でした。
後から市内に入って、原爆をあびてないのに死ぬというのは不思議だから、それをみた私たちが話題にしてしゃべるじゃないですか。それがすぐにアメリカにばれるのです。
それを聞いたアメリカはすぐに放送をしてね、「原爆の被爆者の中で、原爆を浴びていないのに、後から町に入って、症状が出て、具合が悪くなることがかなり騒ぎになっているようだけれども、それはまったく原爆とは関係ない」という放送です。それをもうやっているのですよ。
アメリカが占領したのは9月2日だった。ちょうど3週間ぐらい。その前の日から、日本のラジオを通じて、アメリカの占領軍司令官の命令という形でそのことがでてくるのです。
僕らはめったにラジオを聞けないのだけれど、聞いていたやつがこういうことを言っていたと教えてくれた。しかしよく分からないのですね。
要するに、焼跡に後から入ってものからたくさん病気がでていると日本で言っているけれども、マッカーサーの方では「それは放射線とは関係ない」という放送を最初から始めたのです。
アメリカは落とす前から、放射線による被害の中で、内部被曝が一番問題だという意識を持っていたのです。それさえ隠せば、爆弾の大きさは、橋が落ちたとか建物が焼けたとか、そんなものは時間が経てば消えていく。
いつまで経っても残るのは放射線の害なのです。これだけは隠すというのが向こうの方針だったのです。
ずっと後になって、10月ごろに、11月ごろかな。日本の学者が焼跡に入って、血液を採ったり、死因などを調べているのです。
その中でストロンチウムが骨に沈着して、造血機能がやられている。骨の中の骨髄で血液を作っているのだけれど、骨が被曝するから、中の血液がやられるということを、研究した学者がいるのです。それを印刷して、僕らにも配ってくれた。
すぐに占領軍が動き出して、それを止めて、本人を逮捕して、研究が止められた。向こうがそうやって必死に隠すことに本質があるのだとこっちも思うから、そこを一生懸命、勉強したわけですね。
プフルークバイル
名前は分かりますか?
肥田
分かります。東京大学教授です。後で名前を教えます。論文もあります。
そのときは逮捕されて没収されたのですが、みんなで運動をしたのです。こういうときはマッカーサーといくら交渉してもだめなのですよ。厚生省を通じて本国政府とやったのです。
そうしたら没収されたものは返さなかったけれど、本人は釈放はされました。
ただあのころの日本の学界の偉い方たちは、自分の保身のために向こうにつくのがいっぱいましたから、その先生をみんなが支持しなければいけないのに、似たような有名なのがむこうについてしまって悪口言うのが出てきました。あのときは情けなかったですね。
当時の日本の放射線学者とか、臨床の方でも放射線についての専門家はたくさんいましたが、ほとんど向こうにくっついてしまった。
続く
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