守田です。(20131109 08:00)
肥田先生とプフルークバイル博士の会話の3回目です。
今回は、肥田先生が、放射線治療の方法をアメリカ軍から聞き出そうとして、交渉に臨んだことなどが出てきます。こうしたことには、肥田先生の、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた闘士としての片鱗がのぞいています。
僕はこの点は、あまりみなさんが気づいてないところであるように思えます。肥田先生は見るからに柔和で優しい老紳士ですが・・・実際にそうですが・・・本当にいろいろな経験を経てこられています。
そのため人を見る眼もとても鋭く、数回会っただけで、相手のかなり深いところを見抜いてしまわれるようなところがあります。ヒバクシャを守るため、そして人々の権利を守るため、GHQや政府と長年渡り合って培われてきた鋭い眼力があるのです。
僕は先生の、ある意味ではよく知られてもいる被ばく体験、被ばく医療体験だけでなく、ここにも示されたような人生の様々な断片、なかでも戦後医療の理想的な改革をめざして、さまざまに重ねられた創意工夫のすべてに学ぶ必要性を感じています。
そこにこそ、現代を生きる私たちにとって珠玉の知恵が詰まっていると感じるのです。
・・・そんなことも頭の片隅に置きながら、対談の最後の一幕をお読みいただけると嬉しいです。
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肥田・プフルークバイル対談(下)
2013年11月3日
松井
福島原発事故のあと、福島県民健康管理調査がやられていて、子どもの乳歯を調べようと言う提案があったけれど、止められてしまいました。
肥田
福島では山下という男がいて、福島医大の副学長になってしまいました。長崎の原爆についてあることないこと吹聴して、彼はでたらめな人間です。嘘ばっかりついて。
それが福島県の医師会と医学界を政治的におさえて、発言させないし、研究をさせないのです。
松井
福島では山下だけではなくて、他にもいろいろなものが、被ばくを研究させなかったのですね。山下だけではなくて、他にも山下のような人物がいた。
セバスチャンは、この間の市民国際会議のときに、山下をグリム童話の悪い小人になぞらえて、「小人はかれだけではない」と最後の方の司会としてのまとめとして言われたのです。
肥田
要するに保身から立身出世したいのが、そういうことをどんどん思いついてしまうから。
守田
岩波新書で暴露本が出ました。『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』というとてもよく書かれた本です。
ここで福島県の県民調査では、一般に公開する会議の前に、あらかじめ全部裏会議をやっていて、これに関してはこう発表するとか細かく決めていたことなどが書かれていました。
肥田
そういうやり方はみんなアメリカから来ているのです。安保条約の中で。今でも放射線は軍事機密になっている。だから今でも強烈なアメリカの指導がある。
僕は今でも不思議で仕方がないのは19万3千人の子どもの中で43人も甲状腺が出た。100万人に数人のものが出たのに、日本の放射線学会も、甲状腺学会も何も言わない。
何年か経ってもっと明らかになったら、世界中からもの凄く批判されますよ。世界に隠したのだから。
松井
世界の良心的な人たちから今でも批判は出ています。ただ困ったことは、国連の安保理のすぐ下に、IAEAとUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)があることです。
IAEAが福島に早い時期から乗り込んできて、彼らが福島県立医大、福島県、外務省との間に協定を結んで、福島に健康被害は起こってないと言っている。
そういう意味では国連そのものが、日本政府にも圧力をかけているという構造的なものがあります。これをなんとかしないといけない。
被爆者の骨の中にストロンチウム90があって、骨髄が被曝しているということを書いた研究者を抑圧した占領軍のやり方が、そのまま今、福島に引き継がれているわけです。それが深刻なところです。
肥田
GHQ、マッカーサー司令部に直接にいって、最高の軍医に会って、日本の良心的な医師が困っていることを訴えにいった経験が私にはあります。初めは厚生大臣にアメリカに交渉して欲しいと言いました。
良心的な医者がいろいろと被爆者を診た資料まで全部没収して、治療を妨害している。人道的な問題だから、人を助けることだけはちゃんとやらしてくれと渡り合ってくれと、団体交渉でやりあったのです。
でもなんぼいってもいかないのです。「天皇でもいけないのにいけるわけはない」という。それで喧嘩になって、「そんな生意気なことを言うならお前が代理と名乗っていいからお前がいけ」といわれました。
それで、「俺が行く」と言いましたが、行くといったって、マッカーサー司令部には中にすら入れない。でも私は軍人だったので、自分の病院に傷病兵が帰ってきて、その部隊が秘密の部隊だったら、なんぼ家族が面会に来ても入れないことを知っていました。
そのときにどういうことになるかと言うと、毎日家族が来るのです。そうすると衛兵が顔なじみになって同情するわけだ。「あんたは何をしたいのか」というと「子どもが生まれたので一目見せたい」と言う。
「それなら俺が兵隊を連れてきて門の外に出さずに中に立たしておく。お前は外から赤ん坊を見せろ。それならできる」ということになる。
そういうことを知っていたから、衛兵と仲良くなればあてができると思ったのです。3回も5回も行けば、何とかなる。それでとうとう中に入ったのですよ。
最初に行ったら衛兵が立っている。「約束がないなら帰れ」という。そいつが次にでるのが3日目なのですよ。「また来たか」という顔をしている。さらに3日経っていくと、「お前何の用があるんだ」という。
「若い軍医と会いたい」と言ったら「そんなの中に入る必要はない。俺がここに連れてくるから」というので、若い軍医と初めて会いました。
アメリカの若い、僕と同じ軍医中尉が出てきました。それに医者として人道的に困っている問題を訴えて、こういうことを中で頼みたいといったら、「俺が軍医部の一番偉いやつに会わせてやる」ということになって、結局、偉いのに会ったのです。
決められた日に呼ばれて、中に入ることができて、軍医大佐に会いました。かなり偉い人です。その人に日本の医者が困っていることを話したわけだ。
患者を診て助けたいのだけれど、何をどうしていいかわからない。アメリカは原爆を作った方だから、いろんなことを知っているだろうから、「人道上の立場で治療上に必要なことだけを教えてくれ」と言いました。原爆の作り方とかはどうでもいい。
英語を書いて持っていって、読まなくても言えるようにずいぶん練習もしていきました。
それに対して向こうがこう言いました。「お前の言っていることはよく分かった。しかしその問題を左右する力をマッカーサー司令官は持っていない。すべて本国政府が決める。アメリカの大統領でなければ決められない。
原爆に関することは、被害であろうと何であろうと全部、軍事機密で、すべて大統領決済になる。」
私は「では自分がここで頼んでいることを、大統領に伝えてもらえるか」と言いました。でもちょうど、そのころアメリカは朝鮮戦争をはじまる直前で、対日占領軍のメンバーがすべて変わっていたのですね。
初めは日本の民主化を助ける桃色の連中が来ていたのだけれど、ぎりぎりの戦争屋に変わったところだったのです。だから「そんなことは絶対にできない」といってえばっているのです。
最後に帰る前に、「お前にひとこと言うことがある」と向こうが言うのですよ。
「お前の国は戦争に負けた。普段でもお前は軍医中尉で、俺は軍医大佐だ。だからまともに会ってやるような状態ではない。しかもお前の国は負けたのだから、俺はお前に会ってやる必要などない人間だ。でも部下が言うから会ってやったのだ。」
「お前は人道的に正しいことだから、どこでもそのことは通ると思ってきたのだろうと思う。しかし戦争の中では人道的に正しいとか正しくないとか、そんなことは全然、無意味だ。決定するのはパワーだ。”Power is almighty”(力こそ全能だ)」と言ったのです。
聞いて腹が立ってね。人間の命のことで相談に来ているのに、”Power is almighty”と説教までしたので、この連中に日本から帰ってもらわなければ、日本人はいつまで経っても人間になれないと思ったから、今日から俺は、この連中を追い出す立場で働くと決心したのです。
ひとりではどうしようもないから、かねがね、日本の政党の中で、日本の独立を論じていたのは共産党しかなかったのですね。だから帰りに渋谷まで行って、共産党の本部まで行って、「私を共産党に入れてください」と言ったのです。
―プフルークバイル夫妻、大いに喜ぶ!
松井
アメリカ軍の大佐とあったのはどこだったのですか。
肥田
マッカーサー司令部です。今の日比谷公園の日本生命の本社があるところです。
プフルークバイル
少し質問しても良いでしょうか。
肥田
どうぞどうぞ。少し私ばかり話過ぎましたね。
プフルークバイル
日本の医者の中には、原発と核兵器が違うものだと思っている人がかなりいるように思うのですがその点はどうお考えでしょうか。
肥田
そうだと思います。彼らは原爆についても正しい知識を持っていない。ただ大きな爆弾で町が一つ吹き飛んだ。何十万も殺されたというだけで。急性放射線症でまずたくさん殺されました。
それから内部被曝が長い時間かけて体を蝕んできました。こういうことは何にも知らない。内部被曝をまったく知らないのです。あのときだけだと思っている。だから原発は別のものだと思っているのです。
プフルークバイル
ご自身はどうでしたでしょうか。原発と核兵器の関係に気づいていましたか?
肥田
そうです。原発が入ってくるときに、一番、反対して運動した方だから。原発は事故のないときも、日常的に放射線をずっともらしているわけです。
それを無害だと言っているだけで、われわれはそれを吸い込んだり、畑の作物についたものを食べたりして病気になることを僕らは研究して知っていたから。
カナダの医者のペトカウが、放射線の害について、体内に入ったものについて量が少ないほど危険だという論文を書きました。アメリカは彼を「狂人」だといって阻害した。僕はその人の論文を翻訳しました。
アメリカでペトカウの理論を大事にするスターングラスという教授に会って、いろいろと教えられました。内部に入った放射線がどういう風に体を侵すのかというところまで一応、勉強したのです。
私はアメリカの研究者が内部被曝を詳しく研究して書いた本を5冊、読んで翻訳したのです。世界の最高レベルの内部被曝の知識を個人的には勉強しました。
守田
先生は70歳ぐらいから、臨床のお医者さんをしながら、次々と本を翻訳されたのです。
プフルークバイル
先生に比べたら私たちはまだ大変若いわけです。自分は1970年代に放射線のことを調べ始めて、そのときにもう、先生の書かれたものを読んだ記憶があります。
そのあとでウラン鉱山の問題ですとか、原発の問題をずっと研究してきたわけですけれども、今日、こうしてお話をうかがったことで、これからもこの分野で仕事をしなければならない、していきたいという思いを新たにしました。
ありがとうございました。
終わり
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