守田です(20190402 08:00)

統一地方選に向けたインタビューシリーズの続きとして、日本共産党京都市議団幹事長の井坂博文さんにお話を聞きました。井坂さんは北区の候補として奮戦中です。その井坂さんと僕は京都「被爆2世3世の会」の世話人をともに務めている仲間でもあります。 インタビューは井坂さんを熱烈に支持して下さっている「魚善」さんで行い、井坂さんのパートナーの井坂洋子さん同席で行いました。魚善の大将にも少し意見をお聞きしました。すべてをご報告するのは無理なので博文さんと僕の討論にしぼり、少しく大将のご意見を挿入する形でまとめました。

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守田
統一地方選に向けていろいろとお話をうかがいたいと思います。まずは井坂さんが活動を始められた経緯から聞かせて下さい。

選挙戦の最中に井坂・守田でツーショット(井坂さんFacebookページより)

● 学生運動・専従を経て逆風のときに市議に挑戦

井坂
僕は広島の出身なんやけどその世羅高校で先生から影響を受けました。共産党ではない方やったね。広島やから平和運動のこと、そして同和問題などを聴きましたね。 大学で京都に出てきました。1974年です。立命館の経営学部に入りましたが、たまたまそこに受かったと言うだけ。とにかく広島を出たかったのです。入学してから民青に誘われて、高校で学んだ知恵を話したら次々と論破されてしまった。それで民青になりました。 僕は父が被爆していて自分自身が被爆二世やからね、原爆と戦争を許さない思い、平和を求めてやまない思いがいつも心の中にある。それが僕の原点で、それで学生運動に飛び込んでいきました。

守田
それで大学では経営学も勉強したのですか?

井坂
ぜんぜん(笑) 勉強したのは運動論や資本主義批判でした。学生運動を積極的に担い、府学連の委員長になりました。

守田
そうだとするといわゆる「新左翼」と民青のぶつかり合いなどは経験していないのですね。

井坂
そうですね。あの東大闘争があったのは僕が中学校2年生の時でした。

守田
そうかあ。僕は中学生の時に「連合赤軍」の「あさま山荘事件」があったなあ。なんというかお互いにあの時代にいなくてすんだことは幸せなことですよね。あの時代はあの時代でみんなそれぞれの考える正義を真剣に求めはったんやと思うしそこを 生きた人々を強くリスペクトするんやけれど、でも正義を掲げたもの同士が互いに殴り合うのはしんどいことやったと思うんよね。

井坂
それはほんまにそうやね。やはり僕もそうやし多くの人がたまたまた知り合った組織 やグループに親近感を得て活動を始めたんやと思う。その点では年代の問題もあるよ ね。僕らはそんなに激しいぶつかりの時代の後に活動を始めたから。

守田
それでどんな風に活動を展開していったのですか?

井坂
大学を出てからは民青の専従になり、7年間やってさらに共産党の専従になったんよ。それで「このまま生涯、共産党の専従で生きていくのだろうな」と思っていたのだけれど4年後に選挙に出ることになって。 当時、衆議院選挙京都1区で二人の候補が共倒れしてね。北区の市会議員だった穀田恵二さんが衆議院選挙にまわったのでその後の候補として僕が市会に立つことになったわけ。1991年4月の選挙やったな。

守田
わあ。逆風のときやん。東欧社会主義が崩壊して。

井坂
あのころの共産党の選挙はほんまに逆風の選挙ばっかりやったね。共産党の宣伝カーが来たら「ソ連の戦車がきたぞ」なんて叫ばれて。街頭でも露骨にやられたからね。

守田
どこに?

井坂
謀党(笑)

守田
なるほど(笑)いまこそ追い落とすチャンスだと。そのときどんな風に思いました?

井坂
ソ連や中国をそんなに信奉していたわけではないし「日本は日本やん」という思いが強くあったからね。理論的にもソ連と中国の社会主義の限界の学習会をきちんとやってきていたからそれ自身で動揺することはなかったね。 でもヨーロッパの共産党も苦しくなっていって。とくにイタリアやフランスの共産党とは日本共産党はそれなりに統一戦線で連携をもっていたから、それらが次々と選挙で負けていくのはショックやったね。

守田
そんな逆風の中で「議員に」と言われたときにどう思いました?

井坂
「生涯専従活動家で生きる」と思っていて、議員になるなど考えていなかったけれども、「部署が専従なのか議員なのかの違いだ」と思って議員になろうと思ったわけね。だから僕は自分から議員になりたくて手を上げたタイプではなかったな。

守田
最初の選挙はどうだったのですか?地盤はあったわけね?

井坂
それはもう穀田さんが北区市会議員として培ってきた地盤があったのだけれど、そもそも1991年4月の選挙の前年に準備をはじめたときは、市会議員としての穀田さんの再選をめざしていたわけね。それが突然に穀田さんが衆議院にまわることになり、僕が出ることになった。穀田当選のために裏方として動いていた自分がいきなり表に出ちゃった。

守田
戸惑った?

井坂
新日本婦人の会の専従をしていたパートナーに言ったら「あなたの人生だから好きなように決めたらいい。私の活動の邪魔をしないのだったらいい」と言われたのね。 そうは言いつつもとても支えてくれたのだけれど。でもちょうどそのときに二人目の子どもが生まれてやっぱり大変やった。
そうしたら周りの人がものすごく頑張ってくれはって。新婦人の人も「井坂夫妻を支えなあかん」となり、地域の人もものすごく頑張ってくれはった。だから当選した時にはみんなと抱き合いました。確か定数7で5位当選やったと思う。 そのときに本当に共産党が凄いなと思ったのは、「穀田恵二」と書いた票は一つもなかったこと。わずか4か月で「井坂博文」の名を浸透させてくれた。

守田
おそらくソ連や東欧社会主義の崩壊の影響もあってやはり動揺もある中で、とりあえずはこの選挙を頑張ろうとみなさん思いはったのではないかな。だから井坂さんの当選は多くの人にとって救いになったのかも。

井坂
それで希望を持ってくれたのだったら本当に良かった。

京都市議選で奮闘する井坂さん。でもどこか楽し気(井坂さんFacebookページより)

● 学生運動ののりではダメ!いかに他者に言葉を届けるのか

守田
その時の選挙では何を心がけました?

井坂
自分は共産党の専従で政治家となるとは思っていなかった。ふさわしいかどうかも分からなかった。しかし議員を目指すものとして、一番大事にしなくてはいけないのはそこに住んでいる区民のみなさんの声をしっかりと議会に届けることだと思ってね。当時34歳やった。今から思うと自分が議員であることの原点がこの時に作られたね。

守田
その時の苦労とかしんどさは?

井坂
苦労ねえ・・・。わりと演説は好きやってん。学生自治会などをやってアジる(守田注 「アジテーションをする」こと。演説などで人々の気持ちを高揚させ行動を喚起していくこと)のが仕事やったしね。府学連の時は京都だけで5000人の学生を集めていたからね。そこで基調報告をするのが府学連委員長の役目やってん。

守田
大きな場での演説をなんどもやってきたわけね。

井坂
自分の演説に酔いしれたことなどなかったけれど、でもそういう中での演説をすることは好きやったんやけど、学生運動のアジと選挙演説はぜんぜん違うと思い知らされた。

守田
どう思い知らされたの?

井坂
学生運動のアジテーションは自分の思いをぶつけていけばいい。

守田
基本的には集まっているのは支持者やしね。

井坂
そうそう。街の中で支持者ではない人にも演説しなければならない。自分の熱情だけで話していてはダメだということがわかってきてん。聴いている人が何を求めているのかを考えて話さないといけない。それが分かったのがしんどかったけれど良かったことやね。あれがあったから、やはりいまでも、興味のない人とか聞いてない人とか反感を持っている人とか、どうやったら本当の思い、政策が伝わるのかを考えるわけね。そのためには相手をリスペクトしないと。

守田
ああ。良いですねえ。

井坂
リスペクトという言葉が僕は好きでね。

守田
僕もそれを学びましたよ。本当に。

井坂
そういうふうに思わないで「自分は正しいのだから聞け」ではもう絶対にダメなのだよね。それでは議員としては通用しないと思ったわけ。 そのころ保育園の送り迎えをやったのも良かった。普通のお母さんたちと会って話をする。洗濯物して干しに行った時も近所のおばちゃんたちとよく話をするようになって。パートナーには「おばちゃんののりになった」と言われているんやけど。我が家は彼女のリードで家事を平等負担していたのでそういう機会がたくさんあってそれが良かった。

守田
なるほどなあ。それは良く分かる。結婚はいつだったのですか?

井坂
1985年

パートナーの井坂洋子さんとともにキンカン行動立つ井坂さん。この二人は本当に仲良し(井坂さんFacebookページより)次回は二人がどのようにパートナーシップを築いてきたのかに続きます。必読です!!

続く