守田です(20180517 22:30)

すでにお知らせしたように5月19、20日に京都市で被爆2世3世の交流と連帯のつどいを行います。

第3回 被爆2世・3世 交流と連帯のつどい
2018年5月19日(土)~20日(日)
http://aogiri2-3.jp/indexbox/2018051920.pdf

この20日の午後の「京都と平和の歴史跡などのフィールドワーク」で、京都霊山護国神社を訪問します。
この神社こそは靖国神社の原型、明治以降のこの国の成り立ちと向かい合うのにとても良い場です。
誰でも参加可能ですが、キャンパスプラザ京都での午前中のセッションを終えて、昼食を採ってから市バスを使っていきます。
もしこれだけに参加したい方がおられたら、メールなどでご連絡の上、現場に直接お越しください。概ね午後1時半に到着です。

ここにもともとあったのは「霊明神社」。創建は1806年で幕末の動乱の中で長州藩とのゆかりを深めていきました。
その動乱は1853年ペリーの黒船来航に対して幕府が「開国」に踏み切ったことに対し、諸藩が「攘夷」を掲げ幕府を批判する中で深まっていきました。
とくに1858年4月に井伊直弼が幕府の大老に就任し、「安政の大獄」と呼ばれる一大弾圧で臨んだため、かえって攘夷派によるテロルが誘発され、井伊大老自身が60年3月に桜田門外で討たれてしまいました。

長州藩は尊王攘夷派の筆頭でしたが、安政の大獄で刑死した吉田松陰と親しかった陽明学者の船越清蔵が1862年9月に倒れた際に霊明神社に藩士50人が集まって「招魂祭」を行いました。
「魂を招き寄せる」儀式で、陰陽道で行われてきましたが、しかしその際に招くのは病で身体から遊離してしまった魂などであって、死者の魂を呼び寄せることは厳しく戒められていました。
ところが霊明神社で禁を破って死者が招き寄せられ、12月には安政の大獄で「殉難」した魂も招かれて、命を賭した攘夷決行が誓われたのでした。

1863年になると長州は、京都での勢力争いの末、会津・薩摩連合に京都から追い落とされてしまいました。
これに地元の藩士たちが激怒。「天子様に直訴しよう!」と武装して京に登ってしまい、幕府軍の警戒網を破って御所に殺到。
すると通称「蛤御門」を背に会津藩が登場。長州は矢玉をいかけましたが、これで御所を攻撃したこと=「朝敵」にされてしまいました。

会津軍と長州軍は互角で戦況は膠着しましたが、西郷隆盛率いる薩摩軍が登場したことで均衡が破れ、長州は撤退を開始。会津、薩摩両軍が追撃しましたが、双方が相手を攪乱せんとそこら中に火を放ったため京都は大火に包まれました。
後に「どんどん焼け」と呼ばれた大火事で、たくさんの老舗や祇園祭の山鉾のほとんどが灰燼に帰しました。これを「蛤御門の変」あるいは「禁門の変」と呼びます。この時、敗れた長州藩士の亡骸が霊明神社に運びこまれました。

やがて朝廷は「長州征伐」を発令。これに対し長州は恭順派が主力となり、主戦派の重役が切腹あるいは斬首になって全面降伏。この時、新政府樹立も考えていた西郷隆盛が「謝罪と責任者の処断」だけで長州の存命を図りました。
ところが長州内では高杉晋作ら奇兵隊がクーデターを起こし主戦派が実権を奪還。これに対して幕府は「第二次長州征伐」を発動しましたが、この間に坂本龍馬の暗躍で「薩長同盟」が成立し、薩摩軍が「討伐」をサボタージュ。
なおも攻め込んだ幕府軍を高杉晋作の奇兵隊が諸所で打ち破りました。ちなみに山口県には今も「長州征伐」という言葉はありません。長州のすべての入り口を攻められたが打ち破ったという意味を込めて「四境戦争」と呼んでいます。

これで時勢は大きく転換。一気に薩長連合による討幕の流れができて、幕府による大政奉還がなされ、明治天皇を担いだ明治維新政府が発足しました。
しかしその直前の1867年に坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されてしまいました。このときも二人の遺骸は霊明神社に運びこまれ「神葬祭」が行われました。

「維新」を成し遂げた明治政府は直ちに大規模に招魂祭を行うことを命じ、この地に長州藩招魂社を建てさせ、続いて維新に参加した諸藩のものも建てさせました。しかし薩摩は入っていません。あくまで長州が主体なのです。
慶応4年(1868年)、明治元年(同)と繰り返し招魂祭が行われ、新首都にも東京招魂社が建てられましたが、これが明治12年に「靖国神社」と改名させられました。このとき各藩‐県の招魂社も「護国神社」に名を改めました。
霊明神社に至っては境内の多くを政府に召し上げられてしまい、そこに新たに京都霊山護国神社が建てられたのでした。(霊明神社は規模を縮小していまも隣に存在しています)。

このように明治維新は、黒船に象徴される西洋の暴力に刺激された「志士」たちのテロルの連続と、内戦の中で成立しました。そのエッセンスが招魂社にこもっています。
特徴は「天皇の為に戦死したものを祀る」ことにあり天皇の「朝敵」は絶対に招かないことですが、実はこれは日本史の伝統からも著しく切り離されています。この国では戦乱の双方を祀ることが多かったからです。そこには自らが倒した政敵が怨念となって復讐にくることを拝み倒して許してもらう意も含んでいたのですが・・・。

ところが靖国神社は「天皇の敵は許さない」思想で凝り固まって建てられました。根っこにあるのは「我らこそが天皇の真の家臣。我らを朝敵としたものを絶対許さない」という長州の怨念でした。
このなんとも言えない不寛容な思想が、明治、大正、昭和を貫くこの国の原型になってしまい、アジア侵略によって激しく爆発していきました。

その流れは、第二次世界大戦の敗戦でひとたび断ち切られてもいますが、いま、長州の末裔の安倍首相をトップにいただいた政権が進めている改憲策動を見ていると、亡霊たちがまたうごめいているようにも思えます。
相手の言っていることをまともに受け入れず、論敵を嘲笑したり侮蔑したりする安倍首相の態度をみるにつけ、幕末以来のテロルの応酬の歴史が彷彿としてきます。
平和の道を歩むためには、この国の近代の根っこにある不寛容性、そしてテロル性、暴力性と向き合わなくてはいけない。そのためにこそ20日にみなさんと京都霊山護国神社を訪れ、平和への思いを逞しくしたいと思うのです。