守田です。(20120612 23:30)

日曜日に肥田さんと一緒に京丹波町に訪問しました。素敵な企画が実現されました。その報告をしたいところですが、先に、前回お知らせした、福島の映画館「フォーラム福島」支配人の阿部康宏さんの、カライモブックスでの発言をご紹介したいと思います。

阿部さんの発言は、参加者との質疑応答、感想討論の中で行われたので、完結したものとはなっていませんし、福島の現状を踏まえて、どこに向かうのかを明示したものとは必ずしもなっていません。しかし前回も書いたように、僕はここから何かを一緒に生み出せると確信しているし、ぜひみなさんにもその展望をシェアしていただきたいと思います。

そしてそのためには、福島市民の多くが置かれている現状、阿部さんが発言の中で「究極のジレンマ」と言いなした事態、なかなか答えの出てこない現実をぜひ自らのものとして捉えて欲しいと思います。
今日は、解説はこれぐらいにしておきます。みなさん、それぞれで阿部さんの言葉に耳を傾けられ、その奥底から、福島市に住まう多くの方たちの息遣いを感じ取ってください。

なお、タイトルは阿部さんの発言の中から僕が抽出しました。またやりとりの中での発言のため、幾つか他の方の発言も補いました。

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中通りの人間は、自分で自分を抑圧して生きている
フォーラム福島支配人 阿部康宏

―みなさんの話を聞いていて思うのは、本当になんだか申し訳ないなということです。自分の県からこういうことになってしまって、今日、ここに来ているお母さんや、妊婦さんに対して、こういう悩みを京都の人たちに与えているんだなと思うと、本当に申し訳ないと思います。

守田「申し訳ないなんてことないですよ。」
参加者(杏さん) 「県民のせいではないですよ」

吉野「僕らは佐藤雄平(元福島県知事)に投票したりしているんですよ。」

守田「ああ・・・・」

吉野「あの時は、共産党か雄平かしかいなくて、しょうがないから、棄権するわけにもいかないからということで投票したりもしているんです。最初、雄平は原発に慎重な姿勢だったのです。ところがころっと変わって、プルサーマルを受け入れるといって、装てんしたのが1月で、それで3月だから、これが飛び散っているのは、福島県の有権者に責任があるんです。そう考えるんです」

守田「はい・・・」

―震災が起こったあとに、世界の映画人からのメッセージということで、劇場のネットワークを利用して、世界中の映画監督からメッセージをもらった中で仙台出身の岩井 俊二という監督のメールが非常に印象的だったのですよ。
彼は原発事故当時にアメリカにいたのですけれども、地震と津波に関しては本当にお気の毒だと、心からの哀悼の意を述べますということで、友だちから慰めの言葉をもらえるのだけれども、原発事故に対しては、海外の人たちのトーンが違う。何か複雑な感じがあって、彼自身も罪悪感を感じた。日本人として世界の人たちに迷惑をかけてしまったと感じだそうです。
だから日本の人たちは、もっと海外の人たちがどういう反応をしているのか、海外からどのような目で見られているのか、もうちょっと時間が経って落ちついたら、そういうことも考えて欲しいということを言ってきたのです。

僕らは最初から疎外感を感じていて、3・11という言葉に疎外感があります。というのは3・11は少なくとも僕ら中通りの人間にとってはリアリティがないんです。(注 福島県中通りは、福島市・二本松市・郡山市などのこと)津波と地震に対しては、内陸部にいるわれわれは、直接にひどい目にはあってないです。むしろワンセグとかで映像を見せられて、沿岸部の北から南にどんどん被害が南下してどんてもないことになっていて、「大変だね」ということで、他人事だったのです。

ところが半日もしないうちに、まったく津波や地震とは関係ないことがおきて、それが原発事故で、まさか自分たちの住んでいるところがこんなことになるなんて、自分たちにとっては「えっ」という感じだったわけです。
そして3月12日に1号機が水素爆発し、14日に爆発。そしてまた、2、4と続いていって、だからわれわれにとっては、3・12なんですよ。そこからもう福島県の中通りは疎外感があるのです。

3・11の宮城や岩手とかとはニュアンスが違う。他の県は、津波にあって家や家族をなくし、あの人たちは本当に可哀想だと。でもまだ納得いくときが来ると思うのですよ、自然災害なので。何十年も経てば、総括できるかもしれません。でも僕が確信しているのは、われわれは、何十年経っても、悩みを繰り返すというか。このジレンマから逃れられないなと思うのです。

僕は1年経った今でも、朝起きると、どうやって生きていったらよいかと思うのです。それで1日中悩んで、夕方ぐらいになって、悩み疲れるのです。それで寝るじゃないですか。翌朝起きると同じ悩みが繰り返すのです。このメンタリティって、会津の人たちともまた違います。また原発に近い、浜通りの人たちともまた違うのです。

福島県といっても、カタカナの「フクシマ」はイメージであって、現実の福島は、昔、10藩あったのです。京都も僕にとっては「キョウト」ですけれども、みなさんにとっての京都って、非常に複雑で、人情も地域性も場所によって違うのだと思うのです。ここに来て、自分の家族がお世話になっているので、よくよく聞いてみるとみんな違う。いかに人間がイメージで見ているかを、今回本当に痛感しました。

だから僕は中通りの人間として言うけれども、中通りというのは、いわゆる避難区域には指定されず、かといって、線量は、相馬などよりぜんぜん高い。いわゆる放射線管理区域に入るところばかりです。さきほど、守田さんがスライドを見せてくれて、あそこは僕の地元なので本当によく分かるのですけれども、ちょっと努力すれば、100マイクロシーベルト(毎時)なんて、幾らでも探せる。本当に感覚が麻痺している。完全に異常な状況の中で生きていくためには、忘れなくちゃいけないし、慣れなくちゃいけないのです。無理やり自分で自分を抑圧するのですよね。

これは、どんなに偉い学者さんが、どんなに実績のある知識人が、「心配することはないんだ。原水爆の実験とときよりも、今回の方が線量が低かった。
チェルノブイリの10分の1に過ぎない。低線量内部被曝の危険性は、科学的に確かめられていないから大丈夫だ」と幾ら言われたって、心の中に芽生えた不安は、やはり消せないです。

そして最も呪うべきというか、情けないなと思うのは、人と言うのは、100マイクロシーベルトだって生きるのです。くよくよしながら生きるのです。でもやはり無理だと、家財も仕事も何もかも捨てて、逃げなくてはいけないのではないかと思っても、そういうことができた人たちは、子どもを持っている人たちです。それと自然をいじくっている人たちです。農業とか、水産業や、土をいじくって焼き物を作っている陶芸家の人とか。この2種類の人だけで、いわゆるサラリーマンや、都市生活者は、言われことは耳に痛いし、理屈としては分かるのですけれども、でも捨てられないのです。

それが今の現実の福島だから、なんだ、福島に来たら普通に人が暮らしているし、みんな、普通の市民生活をしているじゃないか。福島は大丈夫だよと思うのだけれど、でも一週間でもいて欲しい・・・というか、人間の住める場所ではないですから、そこが言いづらいところなのですけれども、1週間か10日いないと見えてこないことがあります。

本当にわれわれは抑圧されているし、だから僕が言いたいのは、原発事故は起こしたらおしまいだということです。もう復帰は無理です。起こしたらおしまいなんだということを、とにかく言いたい。だから自分はどうでもいいけれども、自分の子どもだけにはそんな十字架を背負わせたくないので、何か申し訳ないと思いつつも疎開という道を選んでいったのです。

でも本当に逃げてきたら逃げてきたで後ろめたいし、福島から京都に来る道すがらは、遠ざかれば遠ざかるほど、深呼吸ができる。ストレスから解放される感じになる反面、ものすごく罪悪感を持ってしまう。そんな状況にここがなって欲しくない。でもそんな反面教師的な日本国民が現れたということを、絶対に国だって、自治体だって、認めたがらないです。でもそれをやはり伝えていかなくてはいけない。

福島の人たちはみんな今、ビクビクしているのです。何か、お互いに探りあっているような状態で、あの家の人が、洗濯物を外に干しているか、中に干しているかによって、自分の仲間なのかそうではないのかということを見ている状態で、だから本当に原発事故は、百害あって一利なしという感じで、話にもならないような状況を今、生んでいるし、守田さんがおっしゃられた状態、その通りです。誇張でもなんでもないです。

むしろ僕は、守田さんは、福島市の人間ではないのに、本当によく、短期間にここまで本質をつかんでくれているなと思いますけれど、でももっと言えない話があるし、だから僕はゲットーだと言っているのですよ。だから原発事故は起きたらもうおしまい。本当におしまいなのです。やはり心がやられるのですよ。経済とか健康とかも、もちろん大変なことですけれども、もっとやっかいなのは、人間の心を悩ますことです。

みんな自信が持てない状態にいます。福島の人は。何か言ったら、攻撃されるのではないか。自分の言っていることが、正しいのか、間違っているのか、わからないから、口をつぐんでいるという感じで、イメージで言うなら、みんなでどーんと、プールの中に飛び込んで、鼻をつまんで、お互いににらみ合っているのです。どこまで長く潜っていられるか、我慢しているようなものです。これこそ抑圧。

だから究極のジレンマというものを、今回、僕は味合わされて、そこから抜け出すのにどうしらよいか分からなくて、京都に逃げてきたときに、水俣というのが頭に浮かんできたのです。何かこう、今まで、水俣というのは、自分にとってよそ事だったけれども、昔知った何かが、自分の中にひっかかってきて、水俣について知りたいなと思ったときに、こちらのカライモブックスさんが、石牟礼道子さんと深い間柄で、石牟礼さんの本を集中的に扱っている古本屋さんだということで、訪ねてきたのですよ。それからお付き合いをさせてもらっているのです。

奥田「前回の、守田さんのカライモ学校のときに見えられたのです」
守田「え、そ、そうだったんですか」
阿部「あのときが守田さんだったのですか」
奥田「そうなんです」

続く