守田です。(20151202 15:00)

すでにお知らせしたように、11月13日から19日にかけて台湾を訪問してきました。旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちを訪ね、同時に台湾の反核運動に参加してくるのが目的でした。
このうちのおばあさんたちへの訪問についてご報告したいと思います。

今回は2人のおばあさんを訪ねました。台湾ではカムアウトしたおばあさんたちのうち、今も生き残っておられるのはたったの4人になってしまいましたから、そのうちのお二方への訪問です。
初めに訪ねたのは陳桃アマ。小桃アマと呼ばれているアマです。高雄よりももっと南の屏東(ピントン)に住んでいて、長く青果市場でヤシの実を売って生計を立ててこられました。
今は随分と身体が弱くなり、施設に入所していてそこから病院に入られていました。

台北に到着してアマたちを支え続けてきた呉慧玲(ウーホエリンさん)に会うと、アマはだいぶ調子が悪いと言う。「秀妹(シュウメイ)アマの最期の時みたい」とも。
呉秀妹アマは、台湾のおばあさんたちの中でも、特に私たち夫妻が仲よくしていただいたおばあさんで、2012年秋に亡くなられた方です。
ドキッとしました。悲しい思いになりました。覚悟を固めてアマのもとに行くことにしました。

台北から小桃アマにお会いするにはまず新幹線にのって高雄まで行かなくてはなりません。正確には終着駅の一つ前の左営という駅までいきます。
新幹線の乗車時間は1時間半。日本と同じ車両を使っていて快適です。そこから在来線に乗り換えて屏東(ピントン)駅へ。全部で2時間ぐらいの旅だったでしょうか。
駅前からは歩き。今回は翌日、高雄空港から金門島に行く旅を予定していたので、重い荷物を背負っての旅となりました。

病院についてアマの病室にいくと、ちょうど清掃時間にあたっていて、アマがベッドに横たわったまま廊下に出ていました。
そこに私たちが一行ががやがやと辿りつきました。台北のホエリンを先頭に、長らく台湾のおばあさん達をささえてきた東京の柴洋子さん、同じく東京で各国のおばあさんたちを支えてきたWAM(女たちの戦争と平和資料館)の渡辺美奈さん。
同じく東京で長らくおばあさんたちを支えるなど、さまざまな戦後補償問題に関わり続け、今は台北に移住して暮らしている田崎敏孝さん、京都で運動をしてきた僕の連れ合いの浅井桐子さんと僕という一行でした。

今回の訪問目的はアマの92回目の誕生日を祝うことでしたが、アマは最初、私たちをいぶかしげに見上げました。みんなで声をかけても反応が薄い。
それでもしばらくして「日本から来たの?」としっかりした日本語で聞いてくれました。「アマ、お誕生日のお祝いで来たよ」と語りかけますが、アマは「今日は違うよ」という。旧暦なのでしょうか、違う日を示します。
意識がはっきりしていないのではとも考えて、みんなが一番アマのところに通い続けてきた柴さんを指さして「アマ、誰だか分かる?」と聞くと、「柴さん。忘れるわけないよ」と答えてくれました。みんなの顔がほころびました。

「アマ、誕生日のお祝いをしよう」と、屏東駅前で買ってきたケーキを取り出しました。病院の廊下でしかも部屋で清掃作業を行っているあわただしい場ですが、そんなことおかまいなしに自分たちの場を作ってしまうのが台湾流です。
ケーキをアマの前に出して、プラスチック製のナイフを渡して「ケーキカット、ケーキカット」と言うと、アマはベッドに横たわったまま、ケーキにナイフを入れてくれる。
こういう時、台湾のおばあさんたちはみんなサービス精神旺盛で、必ず応えてくれる。それでカットしたケーキをみんなで頬張りました。と言ってもアマは食事制限があって食べられないのですが。一つのセレモニーみたいなものということで。

みんなが用意してきたプレゼントを渡しました。WAMの美奈さんが何時間もかけて作ったと言う手製のアルバムをプレゼント。蛇腹のように開く仕掛けになっていて、アマたちがたくさんで東京に訪ねてきた時の写真が貼られていました。
写っていたのは呉秀妹アマ、多呂語族のイアン・アパイアマ、陳アマ、アマ、そして小桃アマと、今回訪ねたもう一人の陳蓮華(チンレンファ)アマでした。すでに4人がお亡くなりになっています。
アマは興味深そうに何度もアルバムをひっくり返し、蛇腹を開けたり閉じたりしては写真を見つめていました。亡くなったアマたちの名前を呼んでいました。素敵なプレゼントでした。

浅井さんからはミッフィーちゃんという白いウサギの縫いぐるみが渡されました。アマには食べ物を渡しても食べられない。それならば身近において慰めになるものをと思ってのことでしたが、嬉しそうにギュッと抱えてくれました。
この縫いぐるみ、抱き心地もいい。淋しい病室の中ではそういうものの価値が高いんだなと思わせる一瞬でした。
この頃にはアマの意識ももっとしっかりしてきて、みんなの声掛けにいろいろと答えてくれます。いつもながらアマの日本語はとても流暢です。

やがて清掃も終わって病室に戻れましたが、アマが少しずつ疲れてきたのが察せられたので、そろそろお暇することにしました。
「アマ、また来るよ。元気でね」とみんなが来ると、アマは「うん、うん」とうなづいてくれました。死を前にした秀妹アマの時は、柴さんが「アマ、また来るからね。」と言っても「その時は私はもういないよ」と言ったのでなんだかホッとしました。
アマのまだこの世の中にいようという意志が伝わってきた気がしたからです。実際、病状を尋ねると、肺に水が溜まって入院したものの、その後がよく、もう少しで退院して施設に戻れるとのことでした。
戦後70年。あの戦争で犠牲になった方たちは今、70~90代となっています。その中でも年配のアマたちは次々と亡くなってしまっています。韓国のハルモニたちもそう。フィリピンのロラたち、中国のダーニャンモたちもそうです。
日本帝国主義がかつて行った非人道的な戦争犯罪を毅然と告発してきたおばあさんたち。そのおばあさんたちがどの国の方でも必ず語ったのは「もう二度と若い人たちがあんな思いをしてはならない・・・」でした。
このおばあさんたちの思い、切実な願いを日本政府は踏みにじり続けています。中でも最も悪質な対応を繰り返してきたのが現首相の安倍晋三議員です。何度もおばあさんたちの訴えを踏みにじる蛮行が繰り返されてきました。なんたることでしょうか。

そしてその安倍首相のもとで、この国はかつての侵略戦争への反省を忘れたかのように、戦争への道を再度辿りだしています。これこそがおばあさんたちが食い止めようとした流れです。
なんとしても止めなければと僕は思います。その中でこそおばあさんたちの尊厳を取り戻さなくてはいけない。おばあさんたちの姿、被害だけでなくそれと立ち向かい、毅然と生きた姿を歴史にきちんと刻印しなくてはなりません。
・・・ベッドの上で小さな手を一生懸命振って私たちを見送ってくれたアマの顔を思い出しつつ、そんな思いを新たにしました・・・。

続く