守田です。(20150923 23:30)

昨日、9月22日に京都市の国際会館で、No war & Peace Music Fes in 左京があり、参加しました。以下、京都新聞の23日の記事をご紹介します。

「戦争NO」音楽に乗せ 京都・左京で交流会、平和憲法堅持訴え
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20150923000032

13組のアーティストが出演する合間に、4人が戦争法反対のトークを行うと言う企画で、僕は夕刻に、元「五つの赤い風船」メンバーの長野たかしさんらの歌の後で発言させてもらいました。
それを文字起こししたのでご紹介します。「平和力」という僕の考えについてお話しました。なお長いので2回に分けます。

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みなさんこんにちは。

僕の前に演奏された長野たかしさんの演奏を聴いて、かなり心が持っていかれてしまって実は今、どう話すか動揺しています。
僕は今、56歳で、中学校に入ったのが1972年なのですね。そのころフォークソングというものにあこがれて、ギターを買って、たくさんの楽譜を取り寄せて、コピーしようと練習しました。
その中で結構大きなウエイトを占めていたのが「五つの赤い風船」なのですね。

その頃って、ちょうど大きな学生運動が終わっていく時代だったのですけれども、でも中学生のフォークソングを始めようとする子どもの前には、たくさんの戦争のことを歌った唄があったのです。
その唄を僕は何曲も、何曲も、あまり意味も分からずに、経緯も知らずに、歌ったのを覚えています。
その頃から今まで長野さんが、心を込めて、「二度と戦争をしてはいけない」とずっと歌い続けてきてくださったのだなあとさきほど曲を聴きながら考えてとても胸を打たれました。
僕はそれは日本の文化の中に根付いている「平和力」だと思うのですね。

ご存知のように安倍さんが、戦争法案を強行採決で通してしまったわけですが、僕は強行採決された時に、まったくと言っていいほど悲壮な思いを感じませんでした。
なぜかというと安倍さんは巨大な地雷を踏んだからです。この国の人々の中に浸透している平和力にはものすごく深いものがあると思います。
今まで自民党がけして手をつけようとしなかったものです。なぜかというとそこに手をつけてしまうと政権が維持できないからです。そう考えられてきたのがここ50年ぐらいの流れでした。
だからこそ今、日本中で本当に大きな覚醒が起こって、戦争をさせない、人を殺させないという動きが強まっていると思います。僕はこれはけして消えないと思います。
けして消えないだけではなくて、これまで自民党が騙してごまかしてきたものが、僕はむしろこれでよく見えるようになったと思うのですね。

僕は今、平和力というお話をしましたけれども、8月6日に長野県に翌日の講演で招かれていて、新幹線などを乗って向かっていたのですけれども、そのときに読売新聞を買いました。
「安倍政権断固支持。戦争推進」の読売新聞です。その読売新聞が8月6日に何を言っているのか。僕自身、ファイトを燃やすために「読売新聞、そこまで言うか」とかいう感じで対決しようという思いで買ったのですね。
そうしたらまったく予想外でした。8月6日に読売新聞が載せたのは張本勲さんのインタビューでした。ご存知でしょうか。プロ野球で東映フライヤーズから巨人軍に移って、大活躍を続けた選手です。
その張本選手は被爆者です。広島で被爆しています。同時に彼は在日朝鮮人です。両方の苦しみを背負った方です。

彼は小さい時(4歳の時)、たき火に倒れ込んでしまって大やけどを負いました。バックしてきたトラックにはねられたのです。お母さんが抱いて病院に駆けつけましたが、警察は「なんだ、朝鮮人か」と言ってとりあってくれなかったそうです。
そんな中で右手の薬指と小指が癒着しているのですね。そのために彼は左利きになる練習をしてやがてプロ野球の選手になったのです。さらに5歳の時に原爆を落とされて被爆したのですが、お姉さんはその時に亡くなっているのだそうです。
張本さん自身はお母さんが覆いかぶさってくれて助かった。しかし人間の肉の焼ける匂いや、夜通し続くうめき声が忘れられないと言います。
その張本さんが原爆資料館の話をされています。「自分は原爆資料館には入ることができなかった。何故なのかと言うと入ったら怒りと恨みが込み上げてくるから」というのです。

ところがそのことをこの8月6日ではなくて、もっと前に新聞のインタビューで「8月6日は思い出したくない」と語ったら、小さな女の子から「自分は長崎の原爆資料館を怖かったけれども見てきた」という手紙をもらったのです。
張本さんはそれを見て、「自分も行かなければ行けない」と思って、原爆資料館にようやく行ったそうです。2006年のことだそうです。
そういう記事が読売新聞に3面をも割いて載っていたのですね。あの読売新聞であろうとも8月6日にはそういう話を載せないと成り立たないことを分かっているのです。
なおかつそれを書いた記者さんは心から原爆の悲劇に怒り、嘆きながら書いていたと思います。だから読売新聞を見てファイトを燃やそうと思ったのですけれども、むしろ感動させられてしまいました。
それがこの国の中にある平和力だと思うのですよ。そういうことが何度も語られてきた。さまざまな戦争体験が話されてきた。さきほども米澤さんが被爆体験を語って下さいました。見たものにしか分からない地獄の様子を何度も語り続けてくれたのです。

僕の母もそうです。母は東京大空襲の爆心地にいました。ほぼ奇跡的な生き残りです。だから僕は東京大空襲のサバイバーです。
その母が1980年代になって、中曽根政権というのが出てきて、この方もちょっと安倍さんに似たこわもて派の軍事に向かう傾向が強い方で、僕は戦争になるのではないかと思って、一生懸命に反戦の学生運動をしていたのですね。
すると母は「反戦運動はやる必要がない」と言うのですよ。なぜなのかというと母の理屈はこうでした。
「前の戦争で国民は本当にひどい思いをした。だからもう一度戦争をやろうとしたら国民は絶対に黙ってない。幾らなんでも政府はバカではないからそれを分かっている。だから絶対に戦争をしない」。
「そんな風に思っているのか」と何だか感心もしましたが、でも一方で懸命に「日本は直接は戦争をしなくてもアメリカと結んでベトナムへの爆撃とかを支援して戦争に加担してきたんだよ」と語ったのですが、ぜんぜん耳を傾けてくれませんでした。

ところがある時に「ベトちゃん、ドクちゃん」が映像に写りました。アメリカ軍が撒いた枯葉剤の影響で、二人が結合して生まれてしまった方たちです。その頃は赤ちゃんでした。
それを見たときに母が爆発的に泣き出したのですね。僕はびっくりしました。タジタジとしました。母は号泣しながら「なんで?なんで?ひどい!ひどい!ひどい!」と叫び続けました。
それで「僕はこういうことに反対してずっと運動をしているんだよ」と言ったら、突然、泣きながら起ちあがって財布を取りに行って、1万円札を3枚取り出して、涙でぐちゃぐちゃにしながら僕の手に押し込むのです。「運動に使いなさい」と言って。
その母も随分前に病気で亡くなりました。母は理路整然と戦争のことを話すことはできませんでしたし、断片的な形でしか戦争への思いを伝えてくれませんでしたけれども、でも母の中には戦争で傷いた人々への悲しみと愛が溢れていたのだと思うのです。
戦争で本当に辛い思いをして、二度と戦争でそんな思いを人にさせてはいけない、戦争で人が傷ついてはいけない、そんな思いが育ち、伝えられてきた。それがこの国の中に、本当に空気のように沁みこんできたのだと思うのです。

続く