守田です。(20140401 21:30)

旅の報告の続編を書きたいと思います。

先にも述べましたが、今回の旅は大きく二つの企画に呼ばれてのものでした。前半はドイツを中心とする国際医師協議会。後半はやはりドイツを中心とするヨーロッパ・アクション・ウィークで、僕がおもむいたのはトルコでした。
前半の企画は、ドイツ・日本・ベラルーシの医師たちを中心としたもので、まずはドイツに集合したのちに、ベラルーシへと向かいました。今日はこの点をクローズアップしたいと思います。

ご存知のようにベラルーシは、チェルノブイリの北側に位置する国です。首都はミンスク。そこから南に下っていくとゴメリと言う町がありますが、チェルノブイリ原発事故で激しく汚染されたところです。
チェルノブイリ自身はベラルーシの南側に位置するウクライナの北の端に位置しています。国境まではわずか12キロですが、事故で飛び出した放射能はより多くベラルーシを汚染しました。ウクライナとの比は7対3ぐらいでしょうか。ベラルーシは最も激しい汚染を受けた国であるわけです。
もちろん他の国々と比べるならば、ウクライナも非常に大きな汚染を被りました。首都のキエフまでは130キロ。事故当初、ソ連政府は日本政府と同じように情報を隠蔽しました。そのため事故5日後の5月1日には、放射能の降る中、メーデーの行進が行われてしまった。そうしたことも含めてウクライナの人々も大きな被曝を被ったのでした。
さらに今、ウクライナはご存知のように南部のクリミア半島をロシアに制圧され、編入を宣言されてしまっています。僕がベラルーシを訪問したのは、ロシア軍によるクリミアへの進撃が始まるまさにその時でした。

2月26日、フランクフルト空港にベラルーシを訪問する一行が集まりました。日本からは関西医療研究会の高松医師、入江医師、山本医師、山本医師のお連れ合いの由子さん、東京から来られたおしどりマコさんケンさん。週刊MSD記者の豊田さん、そして僕が参加しました。
ドイツからの参加は、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)ドイツ支部からデルテ・シーデントップさん、アンゲリカ・クラウセンさん、バーバラ・ホエベンナーさん他数名。ほとんどが女性の医師たちです。その他、物理学者のアルフレッド・ケルブレインさん。ドイツプロテスタント教会の方などでした。
まずはミンスクのIBBという組織のホテルに宿泊。IBBとはドイツ語の頭文字をとった名ですが、英語で表現するとAssociation for International Education and Exchangeとなります。国際的な教育と交流の場とでもなるでしょうか。
IBBはヨーロッパ・アクション・ウィークの企画母体の団体でもあります。核のない世の中、平和な世の中を求めて、1970年代に学生たち6人が集まって立ち上げ、大きくなってきた社会的組織です。

初めて訪れたミンスクの町はとても美しく思えました。夕方について夜の街並みをバスに揺られて移動しましたが、メインストリートはどこもきれいにライトアップされています。
まるで統一した企画のもとに作ったように、きれいに照らされた町並みがどこまでも続いていくのです。暫く見とれていましたが、しかしここまで美観が統一されているのが何か奇妙な感じもしてきました。世界のどの町にいっても見受けられる都市特有の雑然とした感じがない。人々の生活感があまり伝わってこない。
いったん宿舎についてから夜の町を食事に出かけました。地下鉄に乗りましたが、ここで驚いたのはものすごく美しい若い男女が歩いていること。まるでファッション雑誌の中からそのまま飛び出てきたような感じのハイセンスな若者が多いのです。これまで訪れたどの国でも感じることのなかったことです。
一方で地下鉄は古びていて、鉄の焼けるような強い匂いがする。列車の揺れも激しい。町のあまりにも統一された美しさ。町を歩く若者の一群があまの美しさ。そしていかにも古びた地下鉄。これらを統一して捉えることができず、なんとも混沌とした印象が僕の中に残りました。

翌日、IBBのホテルにある会議室で、ベラルーシの医師たち、医学生たちを交えて会議が始まりました。それぞれの医師たちが、放射線障害に関する報告を持ち寄り、次々とプレゼンしていきます。
日本から参加した医師たちは、福島原発事故後に福島の子どもたちに広がりつつある甲状腺がんについて発表し、大きな注目を集めました。とくにドイツの物理学者のケルブレインさんが興味を示してくれて、以降、日本の医師たちとケルブレインさんは何度も意見交換をしていくことになります。
僕もミンスクでの会議の一番最後に発言の機会を与えてもらいました。僕は福島の暮らしの現状の一端と、福島後に日本各地で起こっているデモについての紹介を行いましたが、大きな共感を得ることができました。みなさん、日本の民衆の今を知りたがっているのです。
ここでの発表は、そののちのゴメリ市に移っての会議、そしてドイツに戻りフランクフルト郊外で行われた会議へと連なっていくのですが、発表数が多く内容も多岐にわたっていて、まだ消化ができていません。今後、時間をかけてご紹介させていただきたいと思います。

3日目にミンスクの放射線防護の研究機関と、小児白血病を扱っている病院を訪問しました。非常に深い印象を受けたのは、病院への訪問でした。端的に言って、素晴らしい治療体制が作られていた。
まずは病院の作り自身が子どもへの配慮に満ちていました。同行した関西の医師たちに小児科の医師が多く、病院の作り方を羨んでいました。また病院だけでなく、その周りに各地から診察を受けにきた親子が、そのまま寝泊りできる瀟洒な家が建っている。
場合によってはそこで一月ぐらい暮らしながら、ゆっくりと診察を受け、判断を聞き、治療方針を相談することなどができるのです。子どもが入院した後も、親が来た時に寝泊りができます。これらが無料で補償されています。
どうして財政的にこのようなことが可能なのか。国が手厚い補償を行っているうえに、ヨーロッパ各国からの大きな支援があるからだそうです。

帰国後になりますが、この点を『チェルノブイリ事故・ベラルーシ政府報告書』(産学社)で調べてみると次のような記述がありました。
「(汚染地域に暮らす子どもの)健康増進の観点から重要な役割を担っているのは、サナトリウム・保養施設における被災者の療養である。17万人以上が治療や療養を無料で受ける権利を持ち、そのうち16万5000人が子どもや未成年者となっている」(同書p40)
実際、ここで供与されている権利は素晴らしい。子どもが白血病にかかってしまうこと自身は大きな悲劇ですが、しかしここには悲劇に遭遇した子どもたち、親たちを助けようとする仕組みがしっかりと存在している。凄いものだと思いました。
さらに驚いたのは、親子が診察を受けるために宿泊できる家の周りに、孤児たちを集め、仮のお母さんをおいて育てている家もあることでした。

この家に近づくと、子どもたちが飛んできました。かわいい子たちですが、「オー、フレンズ、カモーン」と英語で話しかけてくる。そして私たちを自分たちの家にひっぱっていくのです。
家に入ると、仮のお母さんが出迎えてくれました。家の中に入ると温かさと優しさが沸き立っているように感じました。子どもたちがここで手厚く保護されながら育っているのが分かります。
ところが同行した通訳(ベラルーシ語―英語)の若い女性の顔が、家の中で説明を受けている間、だんだんに曇っていきました。「これは何かある」と感じて、家を出てから質問すると彼女はこう言うのです。「かわいいこどもたちですよね。でもあの子たちはここを出たらほとんど確実に刑務所に行くんです!」
なぜ?答えはアルコール中毒とドラックだそうです。もともとここに来る子どもたちは、親たちがアルコールやドラックにはまり、DVをふるい、親と住めなくなった子たちが多い。そうしてその子たちもかなりの確率で同じ道を歩んでしまうのだとか。

そもそもベラルーシ社会にはドラックが蔓延していて、子どもでも12歳を過ぎるぐらいから容易に手に入れることができるそうなのです。通訳者の彼女自身、小さいころから近寄ってくる麻薬への拒絶を貫かねばならなかったそうです。
一方での子どもや親への無償の医療や保養の提供。他方でのアルコール中毒やドラックの蔓延。僕は、ベラルーシという国をどうとらえていいのか分からなくなりました。
もとよりわずか数日の訪問で、しかも事前の調査もほとんどできていない僕に、この国の概要をつかむことすら難しいのは承知で、そのためこの報告もまだまだ僕がみたベラルーシのごく一部を切り取ったものでしかないことをお断りしておく必要があります。
それでも感じたのは、僕が理解できないだけでなく、社会そのものに巨大な混沌があるのではないかということでした。放射線障害と闘うのと同時に、いやある意味ではその前にアルコール中毒やドラックとも闘う必要がある。それをもたらしている社会的要因を正すべき必然性にこの国は置かれている・・・そのことを強く感じました。

続く