守田です。(20140402 08:00)
ベラルーシ訪問の続きです。
4日目はミンスク市からゴメリ市への旅でした。この旅もとても印象深かった。バスで4時間ほど揺られてゴメリに向かったのですが、その車中で、ベラルーシにもう20年近く毎年通い続けているIPPNWドイツ支部のシーデントップさんが、この国の概要を教えて下さいました。
僕にとってとてもショックだったのは、この国がソ連時代の対ナチス戦のもっとも激しい攻防地点であり、町々がナチスによって壊滅的な被害を受けたということでした。
ナチスは1941年6月に、それまでの「独ソ不可侵条約」を破り、一斉にソ連領土への侵攻を開始しました。「バルバロッサ作戦」と命名された侵略でしたが、そのとき侵攻は大きく三つにわけて行われました。
北方軍集団が、バルト三国を経てレニングラード攻略を目指したのに対し、最も大規模だった中央軍集団が、ベラルーシを横断して西にある首都のモスクワ攻略を目指しました。南方軍集団は、ソ連の穀倉地帯だったウクライナの制圧を目指しました。
当初、ソ連赤軍はドイツ軍の侵攻の可能性を過小評価していたため、多大な犠牲を出しつつ攻め込まれてしまいましたが、それこそミンスク付近で反撃に転じ、壮絶な戦闘を繰り返します。これに対してドイツは占領地で激しい略奪や殺戮を行い、撤退する時には焦土作戦を敢行しました。
まさにベラルーシは、モスクワを守るための盾となり、ナチスの攻撃を一身に受けてたくさんの血を流したのでした。多くの街が壊滅し、蹂躙されてしまいました。
ウクライナも同じです。現在の首都のキエフでの攻防が最も激しく、業を煮やしたヒトラーはモスクワに進撃する中央軍集団を途中からキエフに振り向けさせました。結局、ドイツ軍はキエフを落せず、この町は後にソ連政府から「英雄都市」の称号をもらったのだそうです。
ナチスによってさんざんに攻撃され、蹂躙され、たくさんの血を流したベラルーシとウクライナ。その戦争の傷跡から町を作り直し、戦後40年かけてもう一度、豊かさを取り戻しつつあったときに、この地域はチェルノブイリ事故に襲われたのでした。何ということでしょうか。
特にゴメリの町は汚染が激しく、舗装などされていなかった道路を通じて、どんどん汚染が拡大したため、当時のソ連政府がリクビダートルや住民を動員して、真っ先に道路の舗装化を行ったのだそうです。そのための工事のときに、土の中からナチスのヘルメットやたくさんの遺体が次々と出てきたそうです。
さて、そのゴメリでも病院に案内されました。ここは子どもだけでなく、リクビダートルの方たちも専門的にみている病院でした。病院の中を案内されて、幾人かの医師に質問をすることができました。
しかし何とも言えなかったのは、子どもたちの白血病を含めて、明らかに放射線障害ではないかと思われる多くの症例に対して、医師たちが決まったように放射能との因果関係は分からない。証明されていないと答えたことでした。
前掲の書物を紐解いても同じような見解が載せられています。「今日までの調査研究では、甲状腺がん以外の悪性腫瘍の発生頻度の増加と原発事故による放射線の因果関係は証明されていない」(同書p54)
小児白血病への対策などは手厚いものがあるものの、この国の政府も医師たちも、放射能と健康被害との関係では、ICRP(国際放射線防護委員会)など、非常に被害を過小評価する国際機関と変わらない見解を述べているのです。
どうしてこうなるのでしょうか。まだまだ多くのことを分析しなければなりませんが、それでもシーデントップさんの解説等も通じて見えてきたのは、まずはソ連のもとで「社会主義体制」をとってきたこの国が、今、プライバタイゼーション(私有化)の劇的な進行過程にあるということです。
社会主義から資本主義に変わりつつあるわけですが、しかしその場合の資本主義とは、社会保障制度などを手厚くしようとした、第二次世界大戦後の自由主義各国が採用したケインズ主義的資本主義ではなく、弱肉強食の論理にもとづいた新自由主義の資本主義です。
しかも社会資本の多くが国有財産だったこの国の新自由主義化とは、公共財のもぎ取り合戦を意味しています。旧来の社会主義的官僚制の下で力を持っていた人々が、真っ先に新自由主義化し、公共財の私物化を始めたのです。
ではどのような人々が力を持っているのか。この国の体制がしばしば「独裁」と呼ばれるように、もともと旧体制の高官だった一部の人たちが実権を握っているわけですが、実は国外にも大きな勢力がある。ロシアで「資本家化」した人々です。これらの人々が「投資」を名目に、ベラルーシの公共財もどんどん私物化している。
例えば、私たちが泊まったIBBミンスクの宿舎の周りは、開発地域で、どんどんと高層マンションが建てられている最中でした。そのうちの一室に住む方が、会議のアテンドにきてくださったのですが、彼女が住まうその高層マンションのオーナーは、なんと現ロシア市長婦人なのだそうです。
そのように多くのロシア資本がこの国に入り込んできている。政府もロシア資本と密接な関係を保っていて、例えばロシアの車を買うと税が安く、ヨーロッパの他の国の車を買うと100%もの税がかけられてしまうのだそうです。中古になると免税されるそうですが、中古という規定は10年以上経たないと得られないのだとか。
放射線障害に関する評価がどのような仕組みの下で、決められているかまでは分かりませんが、ロシアの「資本家」に強い影響を受けているこの国の公的医療機関で、なるほど、放射線障害をきちんと表に出すことなどとてもできないことは容易に理解できました。
そもそもこの国は、ゴメリ大学で放射線障害を積極的に明らかにしようとしたバンダジェフスキー博士も、でっち上げの罪によって投獄しています。ロシアとの連携のもとに、放射線障害の実相を隠そうとしてきたのがこの国のあり方なのだと思われます。
そうした国の、公共機関を訪ねて、それでこちらが思うような答えがすんなり帰ってくることなど当然、あり得ません。ではどうして私たちはここに訪ねたのか。この企画を練り上げたドイツの方たちは何を実現したかったのか。
そこで見えてきたのは、ベラルーシの国家体制がどうあろうとも、チェルノブイリ事故の犠牲者を助けたいと願うヨーロッパの人々の思いでした。中でも一番、深みを持っているのはドイツの方たちであるように僕には思えました。
この理由も単純ではありません。二つの視座があります。なぜか。ドイツ自身が1989年まで東西に分断された国家だったからです。このうち西ドイツの側は、ナチスの侵略への深い反省を社会的に深めてきていて、その思いからも、かつてのナチスとの激戦区だった地域の人々を救わねばと思っている。
実際、旧西ドイツやオーストリアはベラルーシの病院などに多大な寄付もしてきています。
一方で、東ドイツの側は、社会主義時代に、さまざまな形でロシアとの協力関係もありました。とくに科学者たちは、博士になるにはロシア語が使えなければなりませんでした。そのため旧東ドイツ側のインテリは、ロシア語を話せる人が多いのです。
その典型の1人がドイツ放射線防護協会のセバスチャン・プフルークバイル博士です。彼はロシアへのアンビバレントな感情を教えてくれて、次のように語っていました。
「まず第一にロシアはわれわれにとって占領国だ。ロシア語を学ばなければならないのは悔しいことだった。」「しかしわれわれは社会主義建設で協力もしあった。社会主義は確かに矛盾に満ちていたが、しかし弱肉強食のアメリカなんかに文句を言われたくはない。それよりはまだロシアの人々の方にシンパシイを感じるのだ」と。
そのため、チェルノブイリ原発事故があったとき、東ドイツ市民は、チェルノブイリの子どもたちの救済に乗り出した博士たちの事業に、いくらでもカンパをしてくれたと言います。
この旧東ドイツの人々にロシア語を話せる人がとても多く、もともとさまざまな人的交流の素地があったこと。ここに旧西ドイツの人々が合流し、ドイツからチェルノブイリの被害を手助けしようとする深いパイプが作られてきたこと。
そしてまたベラルーシが独裁的であろうとも、このような人道的援助の連なりは否定できなかったこと。そのためにIPPNWドイツ支部の医師たちなどが、頻繁にベラルーシを訪れ、現地との協力体制を積み上げてきたものがあるのだと思えます。
そうして今回、ドイツの人々は、ベラルーシのたくさんの医師や研究者も招き、福島事故後の日本の私たちも招いて下さって、大きな医師協議会を開催してくれた。人的な交流が深まる中でこそ、さまざまな国の事情を越えて、放射線防護の厚みのある広がりが作られていくことを期待したのだと思います。
その意味で、今回の国際医師協議会は、歴史の厚みに支えられた企画でした。ヨーロッパにおける長い交流の蓄積無くして、日本人である僕が、ベラルーシの病院を訪れることなどできるはずがなかった。その点で僕は深い感謝の念を抱いています。
続く