守田です。(20130702 11:00)

前号(698)に続いて、後藤さんの講演の続きをお送りします。ぜひ後藤さんの説かれる「安全思想」の根幹をつかみとってください。この発想は原発事故にとどまらずあらゆる技術にも通じるものです。
世界の技術者のみなさんが培ってきたものであり、こうした思想性に裏付けられた技術の体系こそを私たちは継承すべきなのだと思います。
そのためには、安全思想を踏みにじっている原発の存在、そこから幾ばくも出てはいない原子力規制委員会の新基準のあやまりをしっかりとつかみとり、広く国民・住民の間に、いや世界に広げていく必要があります。

以下、お読みください。

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原子力発電所の真実を語る・・・2
後藤政志 2013年3月30日 

福井から原発を止める裁判の会主催講演会より

安全の問題を考える上で、継続的な事故の原因究明と抜本的な対策が必要です。「我が国では、従来も、そして今回のような大事故を経ても対症療法的な対策が行われているにすぎない。このような小手先の対策を集積しても、今回のような事故の根本的な問題は解決しない」と事故調もはっきりうたいました。
ですから事故分析が一番大事だということになります。

判断の基本はどこにおくかですが、私は安全目標だと思っています。それなりに安全を確保したとする目標が安全目標です。
それにこれまでの考え方には確率の考え方が入っています。部品一つ一つが1000年に一度壊れる。それらを総合していって壊れる確率を出すわけですが、私が一番主張したいのはそうした考え方が福島で破綻したのだということです。
なぜかと言えば、福島で事故が起こる確率をとても小さく見積もっていたのです。しかも防げなかった。運転していたプラントは全滅なのです。ということは、確率が小さいとかそんなことが言える状況ではないのです。
そんな確率で判断するのはなくて、最悪の被害を想定する。それで「みなさんどうする」と問うて、「我慢しようと」となったらそれが安全目標なのです。それを確率で考えることがもはや問題なのです。
これまでも100万年に1回とかいうものが、すでにスリーマイル、チェルノブイリ、福島と起こっています。それならば次が確実に起こってくる。世界のどこで起こってもおかしくない。
この間、スイスに呼ばれました。スイスは面積が四国と同じ程度です。あそこで事故がおきると国がなくなります。日本でもそうです。本当にひどい事故が起こったら日本のほどんどが住めなくなります。

福島以前の事故の考え方は、たとえ予想される事故が大規模でも、発生頻度を1000000分の1以下に抑えれば、確率が小さいのだからいいではないかというものでした。被害の大きさを確率で考えるというのですが、こんな考え方はもう成立しないのです。こんなものは非常に幅があって、判断のしようがないのです。
先ほど、部品ごとに判断すると言いましたが、ネズミが配線をかじる可能性はどうするのでしょう。東電が失敗して、ごまかして、騙していました。これは確率に入っていますか?というふうに考えると、そんなものはある理想的な状態において、発生頻度を考えているだけなのです。
この考え方が間違っているのが明らかです。したがって私はこう主張しています。「大規模事故は、発生頻度が極小さくても被害の程度が大きい場合には許容できないとすべきだ」ということです。あるいはそうした事態を許容すべきかを論議すべきなのです。
これは私は絶対基準だと思います。このことに立たずして安全性の議論はできないと私は思います。

さらに失敗から学ぶという考えがあります。政府事故調の委員長をやった畑村洋太郎という方が「失敗学」をやっていて、実は私はとても重なるのです。私も失敗学をずっとやってきました。技術において失敗の問題は非常に重要なのです。
失敗はどうして起こるのか、どうやって超えるのかという点では非常に一致します。しかし次の点では食い違う。あらゆる技術は失敗によって成長すると畑村さん言っているようにみえます。それは間違っている。何が間違っているかというと、許容できる失敗かどうかという点です。
確かにどんな技術も失敗を乗り越えて発展していきます。しかし原発ではどうか。まったくナンセンスです。炉心溶融事故は確かに滅多には起こりませんが、起こってしまった。失敗を乗り越えるために、技術的工夫をする。しかしまた起こってしまう。それで工夫を重ねる。
それを何百回も重ねれば、比較的安全なプラントができるかもしれません。しかしそのころは地球上は放射能の海で住めるところはなくなります。
原発の炉心溶融のような事故は失敗したら終わりなのです。失敗から学ぶことなどできないのです。そこは矛盾しているのです。技術は失敗の上に成り立つからです。失敗を許さない技術は技術ではないのです。だから原発の技術を他の技術と一緒にしてはいけないのです。そこが畑村さんと私の違うところです。

これまで東電は何度も制御棒の脱落事故を起こしながら20年以上隠してきました。これらは停まっているときに起こった、対策をすると言っていますが、そこが信用ならない。なぜならそれでは動いてないときは安全装置を働かせて止めていることになるわけです。運転するときはそれを外して運転します。
そのときに落ちてしまうことはありえるわけです。落ちないようにするものを、運転するときに外すことになる。それにトラブルを重ねて考えると原理的には落ちうるのです。そうなると運転中に制御棒が落ちることがありうることになる。実際に1978年に5本も落ちて臨界に達しているのです。
先日、大飯原発の訴訟の話で美浜の会の方が記者発表をしていましたが、加圧水型であっても、上から入りにくくなる問題があります。沸騰水型ではもっと危険が高いのです。

その沸騰水型ですが、炉内で核反応が進むとお湯が沸騰してタービンにいって、発電をします。復水器で冷やされて水になって炉内に戻ります。
加圧水型は、原子炉の外に加圧機があって、水に圧力をかけます。そうなると炉内で蒸気にならずにお湯のまま回ります。それが蒸気発生器で配管を隔てて水と接触し、それが沸騰して蒸気を発生させます。
何がメリットかというと、美浜で事故があったときに、タービンで配管が切れ、熱湯で人がなくなりましたが、加圧水型では二次系には放射能がありませんので、被害はそこで止まるということがあります。

さて加圧水型は上から制御棒が入ります。沸騰水型は下から入ります。沸騰水型は炉内で蒸気が出てくることに対応した装置が原子炉の上部にあるので、上からは入れられない。加圧水型はそれがないので上から入れられるのです。
加圧水型の弱点は、圧力容器が圧力が高いので厚いのです。その方が、脆性破壊に弱いのです。金属がガラスのように割る状態が脆性破壊です。
炉内が加熱したときに、緊急冷却装置で水が大量に入ります。そのときに熱が高いと、脆性破壊が起こりやすいのです。炉内の鉄板には中性子があたってどんどん弱くなっているので危険性が高まります。
毎年、検査をしていますが、危険が実際に高まっています。

電力会社はまだ余裕があるという言い方をしています。ところがこの脆性破壊について、金属の専門家が評価をしています。プラントでは幅があるはずです。私は厳しい条件を考えてないと思います。
原子炉が脆性破壊を起こしたら、瞬時に終わりです。5キロ以内はすぐに逃げてくださいなどという時間はまったくありません。制御どころではありません。福島並の事故などとはとても言えません。即死する人がたくさん出ます。規制委員会はまじめにこのこおとを考えているのでしょうか。

私は海底石油の掘削船を設計しました。100年に1回の波が来ても大丈夫なように設計しました。しかしその船が太平洋を曳航されている間に、嵐で沈没しました。海の藻屑です。もし人が死んでいたら最悪でした。
私はそこで無謬性にたってはいけないことを学びました。あらゆるところにミスは入り込むのです。自分の考えているような理想的なもので済んだら事故など起こらないのです。そうではないことがあったときに事故が起こるのです。
福島の事故で氷を入れようとなった。そうしたら氷をいれる計算などしていたのか。してなどいないのです。それが事故なのです。
だから設計では一応、いろいろな状態を考えます。しかし事故では想定を越えてしまう。だから炉心溶融のあとの状態はあくまで推測にすぎないのです。だから新基準で言われている新たな対策とはすべてが仮定の上で言われていることなのです。
設計した条件があって、配管が切れたときにどうなるかを想定します。それはそんなに外れません。しかし炉心が溶融したらどうなるか、もうわからないわけです。神のみぞ知る世界です。それへの対策をやると言っている。そんなのは間違っています。

3月11日の地震がきました。このときは実は他のプラントも危なかったのです。女川原発は津波に対してあと1メートルか2メートルで助かった。しかし女川のようにすれば安全だというのは間違いです。たまたまた2メートル前で止まったのです。
浜岡で18メートルとか言う津波で設計したら、東南海地震で20メートルを超えるとなった。それで設計をあわてて変えたそうですが、しかしその想定も超えることはありうる。ありえないなどとは絶対に言えないのです。
それを考えると、だいたいそれぐらいのものがきそうだという想定はできるかもしれない。しかし最大がどれぐらいかとはとても言えないわけです。最大の津波や地震は設定できないのです。学会の動向を見ていてもそう思います。
一説には湾の形と山の崩壊のかさなりで500メートルにもなったことがあったとすら言われています。インドネシアでも40メートルという津波も何度も来ているのです。

さて規制で論じているのは外部電源の確保の問題です。長い電線があって、機械があって、ものすごい数があります。完璧に切れないようにするとあまりに難しくなるのです。そうなると外部電源が切れなくなることは追求はしても現実性はありません。
事故のときには冷却ができなくなり、非常用のディーゼルが立ち上がりますが、それが動かなかったりする。そのとき、1号機では復水器(アイソレーションコンデンサー)が電源がなくても動くはずだったのに動かなかった。田中三彦さんは水素が原因したのではと推測しています。

このとき政府事故調はバルブが開かなかったという見解を出しました。国会事故調は真っ向から反対していますが、そのバルブの考え方にも問題があります。
というのは格納容器は事故が起きた時に放射能を閉じ込める装置です。そのときに配管があります。そこから放射能が漏れてはいけないので、事故が起きた時にすべてのバルブが閉まります。それで格納容器の中に放射能を閉じ込めるのです。
しかし配管は冷却する装置です。どうするんですか。「危ないから放射能を外に出さないでください」という命令を出します。ですけれど、一方で冷却をするのにバルブを開いて水を入れなくてはいけない。もともと矛盾しているのです。
水で冷やすということと、放射能を閉じ込めるというのは矛盾しているのです。いっぺんに両方はできないのです。ではどうするのか。半か丁ですよ。冷却を重視したら、そこから放射能が出てしまうのです。
なぜそうなってしまうのか。放射能を外に出してはいけないという要求が技術に比して厳しすぎるのです。隔離することが冷却を阻害します。そうなっているのが一番の矛盾なのです。

続く