守田です(20210609 17:30 0613 01:00訂正)

● 被差別部落浦上から

前回に続いて、ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」の文字起こしをお送りします。
2回目の今回、中心に扱われているのは被差別部落浦上の人々のことです。
原爆で焼け野原となった浦上、仕事も住む場の失った人々はその多くが県内外に移住し、散り散りになって苦難の生活を送りました。

しかし1970年代、それまで長崎県が認めていなかった被差別部落の存在が、ある新聞記者の追求から公的に明らかになり、やがて1976年に部落解放同盟長崎支部が結成され、長崎県も誤りを認めて同和対策事業担当を設置しました。
さらに1979年、その同和対策事業として浦上に5階建てのアパートが建てられ、県内外に散っていた人々が戻ってきたのです。
その中で初めて、浦上の人々が原爆と差別の中を生き抜いてきた苦難を語りだしました。

人々は差別の歴史を後世に伝えようと、共同墓地の中に協力して碑を建てました。
その名は「涙痕之碑(るいこんのひ)」
涙で怒りをあらわし、伝えられているのです。

以下、文字起こしをお読み下さい。

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ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」
2017年8月12日放送 デイリーモーションの動画より
https://onl.tw/ySqWD77

文字起こし第二回 18分55秒あたりから

敗戦後、焼け野原となった被差別部落浦上町。靴の製造は途絶え、多くの人々が浦上を後にし県内外に移住しました。
中村由一さんとイネさん親子は、浦上を離れ、長崎の中心部で暮らします。由一さんは小学校に通い始めます。

中村さん
「このグラウンドは、私の机が雨が降っていたときに、このグラウンドにポツンと椅子と机が出されていたんですけどね、その椅子をみんなが指さしながら通るんですけども。私はすぐわかりました。私の机と椅子なんだということで。
一年生二年生は原爆によって髪の毛がないということがあって、河童という、そして最後には、原爆という名前が、結局、私の名前になっていく。
私の学校に提出した戸籍謄本。そこの中にみんな書いてあった。だから被爆者と被差別。二つの差別ですよね。被爆者でありながら浦上町という被差別部落だけが、差別が一番キツかったです。
どこに行ってもやっぱり二つの差別がついてくるんあだなあって」

その後、郵便局員になった由一さん。自身の被爆体験は語りませんでした。

中村さん
「浦上町の住人ということもあって差別をする。その差別の中に私は自分のことも語れないような状況に、だんだんだんだん落とされていくっていうか。だからもう結局、誰も聞いてくれる人がいなかったからですね、語らなくてもいいんだという。一言も語るまいと言うような形で私は心に決めておりました」
被爆者と被差別部落。二つの差別を背負いながら由一さんは生きていきます。

長崎市は急速に復興を遂げていきます。開港400年を迎え(1970年)、町は祝賀ムードに包まれました。

浦上町には幹線道路が作られ外からの住民が移り住みます。町名も変更になりました。
1973年、政府が被差別部落について全国調査した「同和対策の現況」です。長崎県の情報がありません。
長崎県は「長崎市内には被差別部落がない」と報告していました。

取材者「今日は」
宮田さん「よう探しあてたなあ、どうぞどうぞ」
「長崎市に被差別部落がない」とされていたことに疑問を抱いた人がいます。当時、朝日新聞社の記者だった宮田昭さんです。
宮田さんは、長崎市内で土産物として売られている古地図を見つけました。そこには、昔の町名や地名が記されていました。

宮田さん
「見たら浦上地区の所に『エタ』という古地図が出とったわけですよ。『えっ』と思って。今頃の時代に差別の『エタ』を刻んである。

黒塗りの箇所に差別的表現がありました。
宮田さんは長崎の労働組合のリーダーだった磯本恒信に相談します。磯本はもともと浦上町の出身でした。宮田さんは古地図を見せ、翌日、磯本と共に長崎市役所に足を運びます。

宮田さん
「『その地図はやっぱり差別の地図だ』って抗議してね。で、磯本さんが本人は部落というのはこれまで隠してきたんだけど、『浦上に部落はないのか』と。そしたらやっぱり市としては、『いやー、原爆でもうなくなった』という言い方をしてね。『ない、ない』で市としては突っぱねていくわけですけど。『実際ないのか?』って。『ない』と言うことで。そしたら磯本さんが立ち上がるんですね。『俺が部落だ』と。そこで初めて宣言して。
そん時、僕はそばにいたんだけど、磯本さんがブルブル震え上げてね。僕まで震え上がるぐらいの形で」
宮田さんは翌日の新聞で、差別の古地図を取りあげました。行政の被差別部落に対する対応の甘さを指摘したのです。

宮田さん
「磯本さんが宣言した、その事が非常に、私にとっても大きな位置づけというか、やっぱり人間宣言というかそういう意味で捉えたですね。だから磯本さんも覚悟しとるし。相当な、やっぱり覚悟がないと、この部落民宣言っていうのは誰が見ても難しい。命をかけたような言葉ですよね。当時としては。だからやっぱり、その気持ちが自分にも伝わってきて『よし、覚悟だな』って」

以来、磯本は市内各所に散っていた浦上待ち出身者と連絡を取り、部落解放運動を展開していきます。
1976年に部落解放同盟長崎支部が結成。長崎県も同和対策事業担当を設置。正式に長崎市内の被差別部落の存在を認めました。
このころ、浦上の被差別部落の歴史を見つめ直そうという動きが生まれます。長崎県部落史研究所がつくられます。被差別部落の人々は被爆体験を語り始めます。録音は30時間に及びました。

阿南重幸さん(当時 長崎県部落史研究所)  
「ほんとに、『これまでしゃべった事がない』いうふうに言われて、『当時のこと思い出すだけで、背筋が冷たくなる』というふうな事もお話しされながら。戦後初めて被爆体験を他人に話したというか。身内にも話してない人もいましたからね。それを明らかにしたと言うことですよね」

中村イネさんが証言を残したのもこのときでした。二時間にわたる録音には戦後の苦労が語られていました。

イネさん
「もう着るもんも無し、布団も無し。布団でもなんでも干してあるのを見たらね。本当ね。あの布団欲しかね。その時は何でも欲しかったですね。本当に焼けてさえおらんば、こげんして寒か目に遭わんでよかと思ってね。泥棒して、持っていって子どもに着せたかね、って思いよったですね」

残された録音には、浦上に暮らすことができなくなり、ふるさとを遠く離れた人の声もありました。
岩戸静枝さん。原爆で家族全員を失いました。戦後、大阪で靴づくりで生計を立てていました。

岩戸さん
「風呂敷包み一つ持って出た、私は。本当、『死にたいと思ったこと、叔母さんあるんですか』って書いてある。あったよ、私は。薬局に行って睡眠剤を一軒の薬局では (たくさん)売ってくれないからね。一軒の薬局でこれ位の睡眠薬。もう一件の薬局に行って睡眠薬。二瓶飲んだ。生きていても差別にあうんでしょ。『帰りたか』と言っても、帰る家はないし親はおらんし張り合いないし。だけど、やっぱり死ねなかった。
私が部落出身だっていうこと、私自身が隠しているものだから、いつもびくびくびくびく。歩いてても上見て歩かれんわ。下ばっかり。自分自身が卑屈になって。本当におばちゃん卑屈になってたよ。
なんもかもね、どんなことしてても何の希望もないわ。それまではまだ親兄弟がいてた。どんなことあっても張り合いがあったのね、私に。だけどそれが原爆によって、その張りもなにも何にも無いようになって、本当に世の中が嫌になった」

大阪市西成区。この町に岩戸さんをはじめ、浦上町の被爆者の多くが移り住みました。今になって重い口を開くようになった人もいます。
靴職人だった博多屋政春さん(84歳)。浦上町で被爆した時は中学1年生でした。

博多屋さん
「狭いところで」

母と弟、そして妹を原爆で亡くしました。
博多屋さん
「この場所は1.2キロになります。被爆1号(直接被爆者)になってるからね」
被爆者、そして被差別部落出身という二重の差別。それを逃れてきた大阪でしたが、そこにも差別がありました。

博多屋さん
「長崎からこっちに来て、結構いじめられましたよ。差別も受けました。こんちくしょうと思ってるやつ何人もおる。まだ生きてる」
「長崎出身言うたら、職場の連中もみんな知っとたもん。原爆のこともね。被爆してるから、チフスとかあんな考えしてます。伝染病、チフス。近寄るなとかしゃべるなとか。今でもその人たちを憎んでいます」

敗戦直後に西成に移り住んだ男性はこう語っていました。
男性の声
「原爆の日が近づいたらね、夏の太陽を見た途端に原爆の悲しみがわいてくるんです。梅雨が明けて大地に太陽が照りつけて、ね、そうする頃から寂しい何かが心の中に襲ってくるんですよね。だからこれが30年経とうが40年経とうが、 やっぱりわしらの心には、原爆の風化ちゅうのはないんですよ。全ての今の生活というものが、あの日から始まっているんですからね。そのために肉親も何も全国に散在してしまうて。一緒に暮らせるものが絆も全部引き裂かれて。それも原爆のおかげなんです」

被爆から30年あまり。人々が離散して消えてしまった浦上町。ふるさとを取り戻すことはできないか。
1979年、同和対策事業として浦上に建てられたのが5階建てのアパートでした。各地に散っていた人々が、再び浦上に戻れるようになったのです。中村イネさんと由一さん親子も戻ってきました。

由一さん
「ふるさとは一瞬に消えたんじゃなくしてですね、消えてなかったんですね。戻る場所があったんです。最後にまた浦上に戻れたっていう。やっぱりこの建物があったから、そして結局みんなと同じ場所に帰れるっていう、はい、それが結局母親は一番嬉しかったんではないかなと思います。そのためには結局、母がそこで語ろうという気持ちに変わっていったんではないかなと思います」

以来、浦上町出身の被爆者たちは、積極的に中学生などに被爆体験を語るようになります。
大阪西成で、自らの命を絶とうとしていた岩戸さん。晩年、浦上に戻ってからその人生は大きく変わりました。

岩戸さん
「正直な話ね、おばちゃん原爆の話はしとうなかった、今までは。だけどね、やっぱり原爆の怖さ、それをね、次の世代の人にね、話しとかなんだらね。
差別が、部落がどうしてできたか学んで。だから、私はこないして語り部で来るようになってから。うちは位牌がぜんぶ一つにまとめてありますけど。『ねー、お父さん、お母さん、あんたたちのこと、今日は話してくるよ。今日は話してくるからね』って。
だから、今日、死にかけた私がね、今日までこないして生かしてもらっているのも、やっぱりね、みんな原爆で亡くなられた多くの犠牲者の人をね、犬死にさせたくない、させてはいけないという。私にはやっぱり責務があるんじゃないかなとね。それが残されたもののね、責務、いうふうに変わりました。でね、おばちゃんが、皆さんに最後にお願いしたいの。とにかくやっぱり知る事ね。知らんということほど怖いもんないよ。ね。差別がどうして生まれたか。部落がどうして生まれたかということをまず知って。それでね、勉強して」
原爆と差別に向き合った岩戸静枝さん。88歳で亡くなるまで若い人々に語り続けました。

浦上町の被爆者の多くが既にこの世を去り、共同墓地に眠っています。
由一さんの母イネさんも、晩年被爆体験を語り続けて83歳で亡くなりました。差別の歴史を後世に伝えようと全国に散った浦上町の人たちは、協力して石碑を建てました。「涙痕之碑(るいこんのひ)」です。

由一さん
「『涙痕』。涙で私たちの怒りを表している。浦上っていうのは、本当に結局、人間として見られてなかった人たちがこの浦上をつくって来たんです。だから浦上というそのものの怒りと、そこに原爆を投下された怒り。沢山の差別がそこに渦巻いているっていうか。私たちはここでその怒りを語るっていう。つないでいく」

続く

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