守田です(20210607 23:00)

● 「原爆と沈黙」をお届けします

この間、ナガサキからフクシマにつながる「核との共存」に向けた注意すべき流れについて山口研一郎さんの小論を掲載させていただき、学んできました。
しかしまだそれだけでは、ナガサキの「沈黙」の奥底にある痛み、悲しみに十分に迫れていないのではと考え、前々から掲載したいと思っていたNHK制作のすぐれたドキュメントを文字起こしでご紹介することにしました。
 
「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」というタイトルで2017年8月12日に放映されたものですが、初めてこの番組を見たときのショックはとても深かったです。
ナガサキの爆心地は浦上。たくさんのクリスチャンの住まう町でしたが、その中に被差別部落もあったのでした。
この複雑な歴史が、ナガサキの痛み、悲しみをより深いものにしてきたことをぜひみなさんとシェアし、この痛みと悲しみを平和の力に転じていく過程を共にしたいです。

以下、同番組を3回にわたってご紹介します。
ぜひおよみ下さい。

******

ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」
2017年8月12日放送 デイリーモーションの動画より
https://onl.tw/ySqWD77

ナレーション
8月9日長崎に原子爆弾が投下されて72年がたちました。

テロップ
長崎市長田上富久さん
「私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾が炸裂し15万にもの人々が死傷した事実を」

式典が行われた長崎浦上は、原爆の被害が最も大きかった地域でした。多くの人々は戦後長く、被爆体験を語りませんでした。
祈りの場、浦上天主堂は爆心地からおよそ500メートル。浦上では8500人のカトリック信者が亡くなりました。

西村勇夫(いさお)さん(83歳)。
戦後、地元長崎で被爆者への差別があったといいます。

「浦上のピカドンと言われよった。差別があったと。原爆というのは隠す、隠し通した、必死に。世代を乗り越えてきた」

浦上にはカトリック信者が住む地域の近くに被差別部落がありました。およそ300人が原爆で亡くなりました。生き残った住人の多くがこの地を離れました。共同墓地だけが残されています。
被爆者、そして被差別部落。差別の歴史をなかったことにしてはいけない。中村由一(よしかず)さんは、近年になり自らの体験を語り始めました。

「長崎の浦上という所に、浦上町という被差別部落があったんです。その浦上町という被差別部落が私のルーツになりますから。
学校に入ったときに『原爆』という名前が私の中村由一の代わりです。被爆者を見て差別をする。長崎の被爆も差別があったんです」

長崎浦上のカトリック信者と被差別部落の被爆者たち。人々はなぜ沈黙を強いられたのか?そしてなぜ語り始めたのか?
差別の中を生き抜いた浦上の人々を見つめます。

タイトル
原発と沈黙~長崎 浦上の受難~

マリアナ諸島テニアン島。
1945年8月9日未明、プルトニウム型の原子爆弾がアメリカ軍のB29爆撃機に積み込まれました。

第一目標、北九州の小倉に向かいます。しかし小倉上空は厚い雲に覆われていました。B29は何度も上空を旋回した後、第二の目標、長崎に向かいます。
長崎中心部の上空も雲に覆われていました。雲の切れ間ができたのは浦上でした。午前11時2分、浦上上空から原子爆弾は投下されました。
(注 このNHKのナレーションは間違いです。投下は11時1分、炸裂が2分でした)

爆心地の浦上は、長崎の中心部から北西に3.3キロ離れていました。
浦上は古くからキリシタンが集中して暮らしていた地域でした。1万2000人のカトリック信者の内、8500人が原爆で亡くなりました。
西村勇夫さんは当時小学校6年生。爆心地からおよそ1.8キロの自宅で被爆しました。

「その光がさ、土間にピューと、稲妻の青い光ったようなあの閃光がダーッときたとよ。もー目の玉がピューっと、もうその瞬間じゃ、下敷きになった。あの光、それから音もなにーもわからん。母親が狂ったような声で助けを求めとる、もう世界の終わりだ。ほんと、わしはただ太陽が異常に接近して、そして燃えてしまった。そんな状況になったたいな~って」

西村さんは3人の姉を亡くしました。軍需工場や病院で働いていた2人はこの日亡くなりました。
「『ユキ 昭和二十年八月九日』。『(ナツエ) 昭和二十年八月九日』、これが当日原爆で亡くなった。遺骨はわからん。だからどこで亡くなったか」

長崎市の原爆の被害です。建物の全壊全焼は、長崎駅より北部、浦上に集中していました。
長崎の中心部は、浦上とは山で遮られていたために浦上ほどの被害は被りませんでした。市の中心部の防空壕にいた長崎県知事は被爆直後報告しています。
「被害の程度、極めて軽微にして死者並びに家屋の倒壊は僅少なり」
知事は浦上の被害の実態を把握していなかったのです。

浦上にはカトリック信者が多く暮らしていました。その南の外れに被差別部落がありました。浦上町です。
人々の多くは靴の製造に携わっていました。家屋は全て倒壊し、全焼しました。1000人の住民の内、およそ300人が亡くなり300人が行方不明になりました。

浦上町の自宅で被爆。意識不明の重体になったものの命を取り留めた人がいます。
取材者「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
中村由一さん(74歳)です。
自宅は倒壊しましたが、近所の人が3歳の由一さんを助けました。
「体にはやけどがないっていうのは、おじさんが私の前に覆うかたちで、原爆の時の光は覆うかたちで、結局私の前にいたから、私は結局、やけどっていうのは体全体にはないんですけど、足にだけ今でもやけどが分かります。みせましょうか?」
「この部分が、体は守られてやけどはないんですけども、ただあるというのは、この部分だけがやけどで。これから先の部分、この指自身も全く機能がないんです」

由一さんの母、イネさん。
原爆が投下されたとき、子どもたちの食糧を手に入れるために長崎市の中心部にいました。

被差別部落浦上町の被爆体験を記録しようと、30年前に録音された証言があります。
30時間に及ぶ録音にイネさんの声がありました。由一さんたち3人の子どもを浦上に残していたことを案じていました。

「ピカッと光ったときは『あれっ、今のおかしかったね』って。私は子どもを浦上町に置いてね、出たけんね。子どもが待っているからって言ってね、火の中ばずーっと(歩いて)、もうここに来たときには、靴はいとっても、靴は破れてしもうてね、着とるモンペはびりびり。もう、燃えてひどかったですよ。
子どもがね、『うちの子どもがどこにおっとか知らん?』探しよっと探しよっとしたら、2、3人おうてですね・・・。」

長男の常己さんは重症を負っていました。由一さんは意識不明の重体。生後間もない勝利(まさとし)さんは焼死しました。
長男の常己さんは一ヶ月後病院で亡くなりました。

「入院させとってもさ、とにかくな?んも食べられんけんね。死ぬ前、息の切れる前にね、『もう母ちゃんね、もう来んでいい』って。『助からんとやったら、勝利(三男)と一緒に焼け死んどったらよかった』って言うでしょ。もう、そいがかわいそうで。それからそれこそ親子で泣き暮らししよった。原爆にさえ遭うとらんば、原爆にさえ遭うとらんば。二の口にはそれだけば言いよったですね」

涙ながらにイネさんの録音を聞く中村由一さん

3人兄弟の中、由一さんただ一人が生き残りました。靴職人だった父も亡くなります。イネさんは女手一つで由一さんを育てました。

由一さん
「もう結局土方、それしかできなかったからですね。仕事をもらわないと結局その日はあぶれたら、お金は一銭も入ってこないって言うことですね。だからどんな仕事でもしなければいけないということで、ちょうどその頃『ヨイトマケの唄』がはやっていたと思うんですけども、そんな仕事ですね。で、夜は近所のバケツ屋さんに近所にバケツをつくる、ブリキで。そのバケツを作るのに行ってたんですね。だからもう一緒にご飯を食べるということは、ほとんどなかったですね」

壊滅的な被害を受けた浦上。
変わり果てた姿をさらしていたのが、カトリック信者たちが30年の歳月をかけてつくった浦上天主堂でした。
原爆投下から3ヶ月後の11月、犠牲者の慰霊祭が行われました。

被爆した医師の永井隆は、信者を代表して弔辞を述べます。

「浦上のカトリック信者は天罰を受けたのだ」という一部の声に反論したものでした。
「世界大戦争という人類の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ(ほふられ)、燃やされるべき潔き(きよき)羊(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか」


永井は「浦上は神に捧げられた犠牲」と言ったのです。
しかしその事は「憎しみを口にすべきではない」という考えにもつながり、被爆者たちの沈黙を招いたといいます。

カトリック長崎大司教区 下窄(しもさこ)英知神父
「原爆を落としたアメリカが憎いとかそういった感情が、被爆者の中に当然あるんだけれども、それを発すると、何でしょうかね、『永井隆の考え方と違うんじゃないか』みたいなね。そういうことになって、まあ—。彼が被爆者の声を、沈黙していた被爆者の声を代弁したんだけれども、一方で彼の言葉が被爆者たちの『つらい思いを発したい』という、その思いを押さえつけてしまったという。だからよく『怒りの広島、祈りの長崎』とこう言いますけどね。まあ確かに長崎は、被爆への怒りを表すのが広島と比べるとずいぶん遅かったですもんね。それはもう、永井隆の影響はあると思います」

浦上は神に捧げられた羊(こひつじ)という永井隆の言葉。しかし少年だった西村さんは大きな疑問を抱きます。なぜ神は助けてくれず、浦上をこんな目に遭わせたのか?
「浦上天主堂。東洋一と言われた素晴らしい教会が無残にやられとる。なんでキリストは奇跡を起こさんかったか?本当に神も仏もおらん。捨てっぱちになった時期があったな?。」『これからもう日曜日のミサには絶対行かん。なんで俺ばっかりこんな信仰して何になるか?。教会には行かん。絶対行かん。』 やけのやんぱち、やけくそになって、性根グレて、学校ではケンカばかり、グレる。高校には行けんかった」

中学を出た西村さんは、長崎市内で家具職人になります。しかし、浦上出身とわかると周囲の目は変わったと言います。
「浦上のピカドンと言われよった。ピカッ、ドン。これがはやり言葉になった。『お前ピカドンな』。こげんこと飲み屋でも言われたらぴえーと腹が立ってね。ピカドンと言われると若い頃は本当ねえ、ショックだったな。『この野郎?、ピカドンってなんか?』ってケンカしたこともあるよ。そんなことをね、本当に売り言葉に買い言葉。差別があったと」

西村さんは、「原爆は長崎に落とされたのではない。浦上に落とされたのだ」。度々耳にします。それから30年余り、西村さんは自身の被爆体験を語らず、沈黙を守りました。

続く

#原爆と沈黙 #長崎浦上の受難 #ナガサキ #被差別部落 #浦上のピカドン #長崎原爆 #永井隆 #西村勇夫 #中村由一 #浦上天主堂

*****

連載2000回越えに際してカンパを訴えます。「よく2000回まで頑張った。さらに頑張れ」との思いでカンパして下さるととても嬉しいです。振込先など記しておきます。

振込先 ゆうちょ銀行 なまえ モリタトシヤ 記号14490 番号22666151
他の金融機関からのお振り込みの場合は 
店名 四四八(ヨンヨンハチ) 店番 448 預金種目 普通預金 口座番号 2266615

Paypalからもカンパができます。自由に金額設定できます。
https://www.paypal.me/toshikyoto/500