守田です。(20130203 22:30)
みなさま
大変、悲しいお知らせです。
「沖縄県生活と健康を守る会連合会」事務局次長で、「つなごう命の会ー沖縄と被災地をむすぶ会」の共同代表の沖本八重美さんが、1月27日未明に逝去されてしまいました。沖本さんは、琉球大学名誉教授で、内部被曝問題のエキスパート、矢ヶ﨑克馬さんのお連れ合いかつ同志でもありました。
ご遺体は自宅に戻った後、沖縄県那覇葬祭会館に運ばれ、29日に600名の参加の下に、告別式が執り行われました。翌日、30日に同会館を出棺し、昼前に火葬が行われました。
僕も訃報を27日に受け取り、29日、関空からの早朝便で沖縄に飛び、告別式と火葬に立ち会わせていただきました。沖本さんのお骨も拾わせていただきました。この一連のことから、告別式の様子をみなさまにご報告したいと思います。
まず初めに、沖本さんの生前の写真をご覧下さい。日本共産党沖縄県委員会のサイトに載せられたものです。普天間基地包囲行動の一コマです。彼女の人となりがにじみ出ている写真です。なおここからは彼女のことを八重美さんと呼ばさせていただきます。
http://ojcp.itigo.jp/pg588.html
八重美さんは、広島県の瀬戸内の島の出身。胎内被爆者でした。広島大学に入学後、社会矛盾に目覚め、やがて学生運動に参加。当時はまだまだ声をあげることが困難だった被爆者からの聞き取り調査を行うなどして、平和への確信を深めていかれました。
やがて広島大学大学院に進まれた矢ヶ﨑さんと出会い結婚。大学を卒業して、「広島民報」の記者として活躍を始めました。
ちょうどその頃、沖縄県民の熱き運動により、沖縄の本土復帰が果たされると、ご夫婦で沖縄の人々に何かの貢献したいと考えられ始め、矢ヶ﨑さんが沖縄大学に職を得るや、ともに沖縄に移住されました。
物性物理学を専攻されていた矢ヶ﨑さんが、物理学研究の基盤すら整っていなかった琉球大学に赴いたのは、沖縄の教育の基盤を自ら作り出すためでした。当時の琉球大学の給与は、広島での八重美さんの給与と、矢ヶ﨑さんのアルバイト代を足し合わせた額の3分の1にもならなかったそうですが、それでもおふたりは意気揚々と沖縄に赴かれたのでした。
八重美さんは沖縄に移ってからは、日本共産党の新聞、『赤旗』の記者となり、カメラマンとして各地の沖縄の運動現場を撮り続けました。やがて二人の娘さん、響(ひびき)さんと佳苗(かなえ)さんが生まれましたが、八重美さんは、彼女たちを背におぶって、写真を撮り続けられたそうです。
こうした長い活動を経てのちに、彼女は日本共産党沖縄県委員会の専従職員になりました。溢れるパワーと行動力で沖縄狭しと駆け回って行動し、同時に、心傷ついた仲間がいると、どこへで出かけていって、励まされたそうです。
東日本大震災と福島第一原発事故の勃発後は、福島や東北・関東から被曝を逃れるために沖縄に避難してきた人々を支援。「つなごう命の会ー沖縄と被災地をむすぶ会」を立ち上げて、共同代表になられました。この過程で、ちょうど矢ヶ﨑さんともども、定年を迎えられ、新築した家で悠々自適の生活をすることも考えられていたそうですが、実際には嵐のような日々に飛び込まれました。
「世の中の誰ひとり、見捨てられない社会を作る」との思いのもと、「生活と健康を守る会連合会」事務局次長の活動も引き受けられ、さらに普天間基地撤去をもとめ辺野古基地建設を許さない運動、米軍機オスプレイ配備反対の運動、沖縄への震災ガレキ搬入と焼却に立ち向かう運動など、赤旗記者時代、専従時代を凌駕しさえするような活動の毎日を過ごされました。たくさんの生命を救い、支え、抱え込んでの大奮闘でした。
これだけの活動と同時に、人々を内部被曝から護るために立ち上がり、全国を駆け回る矢ヶ﨑克馬さんを同志として熱くサポート。2011年だけで145回もの講演をされた矢ヶ﨑さんを、いつも那覇空港まで車で送り迎えするなど、その激烈な活動を支え続けました。
矢ヶ﨑さんと僕が、岩波ブックレット『内部被曝』を上梓したときも、我が事としてとても喜んで下さり、まさに破れんばかりの笑顔でもって執筆の努力をねぎらってくださいました。
八重美さんが倒れられたのは熊本県でした。ご友人の古希の祝いの席にご夫妻で参加。前日に一緒に温泉に浸かり、とても楽しいひと時を過ごされたそうです。
その後、お祝いの席に参加。冒頭でスピーチを依頼され、矢ヶ﨑さんに続いて、とても熱の篭った、迫力あるスピーチをされたそうです。大きな拍手が起こり、ご本人も誇らしげな顔をして席に戻られたそうですが、その直後に倒れられて、意識を失われました。
八重美さんを襲ったのは心臓発作でした。すぐに居合わせた医師たちによる蘇生行為がなされ、救急車で病院に搬送。緊急の開胸手術が行われました。八重美さんも医師の方たちも、何時間にもわたって頑張られたそうですが、翌日未明に、とうとう帰らぬ人となられました。
八重美さんの死亡要因の詳細については、現在調査中だそうですが、僕は福島第一原発事故が、八重美さんに大きなストレスを与えたためだと思っています。いやそれは私たちの誰にも大変なストレスを与えています。
本当に酷い事故があり、そののちに本当に酷い対応が続けられている。憤慨しても憤慨しきれず、嘆いても嘆ききれず、なおかつ、人々の命、子どもたちの生命を心配しても心配しきることのないような事態が、もう2年近くも継続しています。
放射能の危険性を熟知する矢ヶ﨑さん自身、事故直後は、子どもたちを思うと眠るに眠ることができないとおっしゃっていましたが、誰よりも深い愛情を持っていた八重美さんも、本当に深く心を傷められ、そうして奮闘されたのだと思います。
しかも八重美さんは、そのようなときに己を顧みない方でした。自分の疲れなど忘れて、沖縄に避難してきた人々を支え、仲間を支え、同志である矢ヶ﨑さんを支え、その悩み、苦しみ、葛藤をシェアして奮闘されました。その一刻一刻がものすごいストレスとのたたかいであったはずです。
しかしもともと八重美さんは、明るく前向きな力を持った方であり、なおかつ誰もが驚くようなバイタリティーを持たれていて、誰も八重美さんが倒れるなどとは考えもしなかった。おそらくご本人もそうであったのではと思えます。そうして八重美さんは、人々のために走って、走って、走って、倒れられてしまいました。
あの事故で傷ついたたくさんの人々の心を支え、癒し、なおかつ人々にたたかいの方向を指し示し、たたかって、たたかって、たたかって、そうして倒れられてしまったのです。
八重美さんの発言の最後の結びがそれを象徴しています。八重美さんは、「今は困難な時代だけども、みんなで力をあわせて一緒に頑張りましょう。私も一生懸命に頑張ります」と、そう言われて発言を終えられたそうです。
「一緒に頑張りましょう」という言葉が、八重美さんがこの世で最後に発した言葉だったのでした。心の奥底から、絞り出すように、彼女はこのメッセージを発せられた。心臓に負担が来てしまうほどに強く、深い愛を込めて。
そんな八重美さんの突然の逝去は、誰にとっても大変なショックでした。友人から電話で一報を聞いたとき、僕は思わず「えっ」と絶句してしまいまいたが、僕がすぐに知らせた方も「えっ」と絶句しておられました。
本当にまさかのことで、誰もが考えていなかったことでしたが、悲しい知らせはすぐに沖縄を駆け巡り、本土に届けられ、多くの方々が八重美さんを見送るために、那覇に、沖縄へと向いはじめました。
こうして告別式には600人以上が参加。その3分の1は本土からではなかったかとも言われています。急きょフライトを手配するのは僕も大変でしたが、それを押して多くの方が駆けつけられました。
告別式は無宗教の形式のもと、ご家族を含む10人が次々と八重美さんに言葉を送る形で進められました。八重美さんの生前の姿が彷彿とするような発言が続きました。そのバックに電子ピアノで労働歌が演奏されて流されていました。
労働歌は激しいリズムを持ったものもありますが、とても柔らかくアレンジされ、「聴く人には分かる」とてもシックな曲調に変えられていました。「葬儀のときは労働歌で送られたい」というのが八重美さんの願いだったそうで、それを上手に果たしてくださった演奏でした。
発言の最後に、ご家族が立ちました。娘さんのうち、妹の松田佳苗さん、姉の矢ヶ﨑響さんの順番で発言し、最後に矢ヶ﨑克馬さんが話されました。
不確かな記録になりますが、だいたい以下のような発言がなされました。
***
佳苗さん
お母さんはいつも「母親らしくなくてごめんね」と言っていました。いつも人のために走り回っていて、幼い時はさみしい思いをしたこともありました。
でもお母さんは、自分の人生をしっかりと私に見せてくれました。自分の考えをしっかりともち、愛にあふれて生きる姿はとてもかっこよかったです。
自分の人生を歩んでいく上で、お母さんの生き方を見せてくれたことを感謝しています。お母さんの人生に交わることができて幸せです。お母さん、生んでくれてありがとう。
響さん
お母さんは太陽のようでした。空を飛ぶ鳥のようでした。いろいろなところを駆け回って、その話をしてくれました。聞いている私たちはその話を聞いて胸が温かくなりました。
そしてお母さんはときに台風のようでした。お母さんの怒りは、声を上げられない人たちの正当な怒りでした。
お母さんはまたいつも正直に生きていました。けして自分を曲げませんでした。娘の私はもう少し妥協した方が楽なのにと思うこともありました。でもその生き方が正しかったことを、今日、たくさんの方が来てくださって証明してくださっています。
おかあさん。これまで本当にありがとう。本当にお母さんが大好きでした。
矢ヶ﨑克馬さん
八重美と私は、沖縄が返還される前の年に結婚しました。私はまだ院生で、八重美は、広島民報の記者でしたが、沖縄の人々の闘いに感動し、私たちも沖縄に貢献したいと思いました。
その後、私が琉球大学に職を得て、沖縄に一緒に行きました。八重美は赤旗の記者になり、カメラマンになりました。生まれた娘たちを背中におぶって、写真を撮り続けました。
八重美がすごかったのは、離島も含めて、沖縄の道をくまなく知っていることでした。どこかで疲れてしまった仲間があると聞くと、どこへでもかけつけて励ましていました。
そんな活動を私に「私は縁の下の使いばしりだよ。とても大切な仕事だよ」と語っていました。その名の通りの活動をずっとしていました。
私たち夫婦が熊本を訪れたのは、同じように働いてきた友人の古希の祝いに参加するためでした。
私たちはその会合の初めに発言をすることになりました。私が前座をつとめ、八重美がとても力のある発言をしました。
最後に「困難な時代ですが、一人ひとりが大切にされる社会を作るために、みなさん、力を合わせて頑張りましょう。私も一生懸命に頑張ります」と締めくくりました。
みなさんが大きな拍手をしてくれて、八重美も誇らしげにテーブルに戻ってきました。それからほんとうに1分ぐらいあとに、ドタっと倒れて、もう意識はありませんでした。
病院で一生懸命の手当を受けましたが、とうとう帰らぬ人になってしまいました。
私は八重美らしい倒れ方だったかなとも思っています。
最後にみんなで頑張ろうと力強く言って、彼女はそのまま去ってしまいました。
彼女に、「その言葉をみんなで守るよ、安心していいよ」と言って、沖縄に連れて帰ってきました。
八重美が遺した「誰もが尊重される社会を作ろう」という言葉を、私たちも一生懸命に受け継いでいきます。
みなさん、今日は本当にありがとうございました。
***
以上を持って、告別式は締めくくられました。その後、たくさんの方たちが残られて話をされていましたが、八重美さんが生前に関わり、告別式の裏方を担ってくれた若者たちが何人も残って、会葬者の住所のデータ入力をしてくれていました。
何時間もかけてその作業を終えた後、若者たちは八重美さんの柩を覗き込んでポロポロと涙を流し、嗚咽を漏らして、別れを惜しんでいました。生前の八重美さんがどれほどたくさんの人びと、若者たちに愛を送ったのかを象徴している一コマでした。
以上、八重美さんをみなさんと見送った一幕の報告を終えます。
最後に、僕も八重美さんに言葉を送りたいと思います。
八重美さん。
お疲れさまでした。本当によく駆けてくださいました。何時もとてもお元気でしたね。元気を出会うすべての人に振る舞って下さっていたのですね。
今、倒れられるのはさぞかし無念でしょう。でもバトンはしっかりと私たちが受けとりました。どうか、心安らかにお眠り下さい。どうか、後を心配されずに、お旅立ち下さい。
矢ヶ崎さんとご家族をみんなでもり立てます。約束します。避難されてきた方たちもみんなでケアします。だから、だから、休まれて下さいね。
僕も一生懸命に走ります。いつかまた八重美さんにお会いするまで、努力を続けます。だから今はさようなら。数々のことを、本当にありがとうございました!
沖本八重美さんの熱き思い、深き愛よ、永遠に。私たちの胸の中で永久に。
合掌