守田です(20170823 11:30)

前回に続いて2012年8月6日に放映されたNHKスペシャル「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」の文字起こしの続きをお届けします。
今回はNHKの取材班がアメリカに飛んで、広島における「残留放射線の影響」に関する研究・調査が、核実験が頻繁に行われ、日本の漁船、第五福竜丸が被曝させられていく中で、アメリカに不利だとしてもみ消されていった過程が明らかにされています。

とくに注目すべきはABCCに属していたローウェル・ウッドベリー博士が、「黒い雨など残留放射線の影響は低い」とした戦後直後の測定結果に疑問を投げかけていたことです。
残留放射線の影響調査は、原爆投下の一か月後、戦後の三大台風の一つとされる巨大な枕崎台風が広島を直撃し、洪水を起こし、放射性降下物の多くが海に流されたあとに行われていたからです。
博士はこの点の追及を進めますが、やがて辞職に追い込まれていき、以下のような言葉を残しています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ちなみに広島原爆の残留放射線の影響調査が、巨大な台風が広島市を襲った後に行われたことの理不尽さ、非科学性を一貫して主張されてこられたのが矢ケ崎克馬さんです。
広島には原子雲から大量の「死の灰」が降ったのでした。アメリカ軍はその存在を十分に知りつつ、広島市が巨大台風による洪水を被り、放射性降下物が流されたあとに市内の調査を行いました。
そして洪水で流された残りの降下物の量から、原爆投下直後の降下物の量を「推し量る」という科学に見せかけた大嘘の報告書を作成し、放射性降下物の摂取による内部被曝の影響を完全に無視したのでした。
こうした偽の調査を1986年にまとめたのが「放射線量評価体系(DS86)」ですが、これがその後の放射線傷害の認定の基準とされています。矢ケ崎さんは著書『隠された被曝』でそのあまりにもひどい非科学性を怒りを込めて暴露されています。
私との共著『内部被曝』(岩波ブックレット)でこの点をより分かりやすくまとめてくださっていますので、ぜひこの2冊をお読みいただきたいです。

以下、黒い雨調査隠しの核心部分についてお読み下さい。

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「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」2012.8.6NHKスペシャル
(その2は17分35秒から32分25秒まで)
http://www.at-douga.com/?p=5774

(アメリカ ワシントン)

ABCCに資金を提供し、大きな影響力を持っていたのが、原子力委員会(現エネルギー省)です。戦時中、原爆を開発したマンハッタン計画を引き継ぎ、核兵器の開発と、原子力の平和利用を、同時に進めていました。
被爆者の調査がはじまったのは1950年代。
「核分裂物質が人類の平和のために使われるだろう」(アイゼンハワー大統領)

アイゼンハワー大統領の演説を受け、原子力の平和利用に乗り出したアメリカ。しかし核実験を繰り返した結果、国内で被曝への不安が高まり、対処する必要に迫られていました。
原子力委員会の意向を受け、ABCCは被曝の安全基準を作る研究にとりかかります。被爆者93000人について、被曝した状況と健康被害を調べて、データ化する作業がいっせいに始まりました。
当時の原子力委員会の内情を知る人物が、取材に応じました。セオドア・ロックウェル氏、90歳です。戦時中、広島原爆の開発に参加したロックウェル氏は、原子力委員会で、原子炉の実用化を進めていました。
安全基準を一日も早く作ることが求められる中で、黒い雨など、残留放射線について調べる気は初めからなかったといいます。
「被爆者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るためのものだと最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査するなんてなんの役にも立ちません。」

さらに私たちは残留放射線の問題に対する原子力委員会の強い姿勢を示す資料にいきあたりました。
「これは原子力委員会からの手紙です。1955年のものです」

手紙を書いたのは、原子力委員会の幹部だったチャールズ・ダナム氏。調査を始めるにあたって、学術機関のトップにこう説明していました。
「広島と長崎の被害について、誤解を招く恐れのある、根拠の希薄な報告を抑え込まなければならない」

ダナム氏が抑え込もうとしていた報告とは何か。ちょうどそのころ、広島のABCCで残留放射線の影響を指摘する報告書が出されていました。
「広島における残留放射線とその症状」。
報告書を書いたのは、ローウェル・ウッドベリー博士。広島のABCCで統計部長を務めていました。報告書の中で博士はまず、黒い雨など残留放射線の影響は低いとした当時の測定結果に疑問を投げかけています。
原爆投下の1ヵ月後、巨大な台風が広島を直撃。ほとんどの調査はそのあとに行われ、測定値が正確でなかった可能性があると指摘しています。

「台風による激しい雨と、それに伴う洪水によって、放射性物質の多くは洗い流されたのかもしれない。」
ウッドベリー博士は、実際の被曝線量は、健康被害が出るほど高いレベルではなかったかと考えたのです。

その根拠として、ある女性の調査記録を示しています。下痢や発熱そして脱毛など、九つもの急性症状が出たことをあげ、黒い雨など、残留放射線の影響ではないかと指摘しています。
「女性が被曝した4900メートルの距離では、初期放射線をほとんど受けていないはずだ。女性は市内をさまよっている間、黒い雨が降った地域を数回通っている。この領域の放射線量が高ければ、症状が出るほどの被曝をしていたかもしれない。」
女性の名前は栗原明子(くりはらめいこ)。取材を進めると、この女性が今も広島にいることが分かりました。

栗原明子さん。86歳です。当時、ABCCに事務員として務めていたため、ウッドベリー博士の調査の対象にもなっていました。原爆が投下されたとき、爆心地から5キロの場所にいた栗原さん。その後、市の中心部にあった自宅に戻り、激しい急性症状が出たのです。
「髪をといたら、櫛にいっぱい髪の毛がついてくるから、これはおかしいね思って、髪の毛が大分抜けましたね。」

しかし残留放射線の影響をうたがっていたのは、ウッドベリー博士だけで、ほかの研究者に急性症状のことを話しても、まったく相手にされなかったといいます。
「怒ったように言われましたね。絶対にありえないいうて。二次被曝というようなことは絶対にありえないからって断言されました。
矛盾しているなあ思ったんですけれど、本当に私も体験して、他にも体験した人をたくさん知ってましたからね。なぜそれは違うんかなあと思って、不思議でしかたがなかったんですけれども」。

ウッドベリー博士が報告書を書いた直前、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行っていました。日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、放射性物質を含んだいわゆる死の灰を浴び、乗組員が被曝。死の灰の一部は日本にも達し、人々に不安が広がっていました。
「一方、青果市場には、おなじみのガイガーカウンターが出動しました。青物をしらみつぶしに検査しましたが、ここでも心配顔が増えるばかりです。」(当時のテレビニュースより)
「最近、日本の漁師が、水爆実験による死の灰で被曝するという不幸な事件が起きた。今、広島・長崎の残留放射線に対する関心が、再び高まっている。この問題は、より詳細な調査を必要としているのだ。」(ウッドベリー博士)

原子力委員会のダナム氏は、こうした主張こそ、東西冷戦の最中にあったアメリカの立場を悪くするものだと警告します。
第五福竜丸事件の後、日本で反米感情と、反核の意識が高まっていました。広島では第1回、原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆者が被害の実態と核の廃絶を訴えはじめていました。
「もしもここでアメリカが引き下がれば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなればアメリカは敗者となってしまうだろう。」(ダナム氏)

被害の訴えに強く対処すべきだという考えは、原子力委員会の中であたりまえになっていたとロックウェル氏はいいます。
「放射線被害について人々が主張すればするほどそれを根拠に原子力に反対する人が増えてきます。少なくとも混乱は生じ核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広まります。
私もアイゼンハワー大統領も考えていたように原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げになるものは何であれ問題だったのです。」(ロックウェル氏)

1958年11月、原子力委員会の会議にダナム氏と、広島から呼び寄せられたウッドベリー博士が出席。残留放射線の問題が議論されました。議事録は公開されていません。分かっているのは、会議の1ヵ月後、ウッドベリー博士が、ABCCを辞職したことです。
ウッドベリー博士の報告書には、こんな一節が残されています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ウッドベリー博士が、報告書の中で残留放射線の影響を指摘した栗原明子さんです。戦後、貧血や白内障など、さまざまな体調不良に悩まされ続けました。
しかし被曝直後の急性症状も、その後の体調不良も、その後の研究で省みられることはありませんでした。

続く