守田です。(20120729 23:30)

7月28日にTBSの報道特集で【知られざる”放射線影響研究所”の実態を初取材】というタイトルの番組が流されました。さっそく視聴してみて、これまでの取材にないかなり鋭い切込がなされていると感じました。関係者の発言についても貴重なものが多いと感じたため、資料とするために急きょ、文字起こしをしました。ぜひお読みください。また時間のある方はビデオクリップをごらんください。

いろいろと解説、注釈をつけたいところですが、長くなってしまうので、今宵は文字おこし内容の紹介だけにとどめます。ともあれこれは内部被曝問題の真相にからむことです。ちょうどもうすぐ原爆投下から67年目の夏を迎えようとしている時期でもありますから、しばらくこの問題をシリーズにしてお届けしようと思います。

ここで6月末からの宿題になってしまった課題・・・ドイツのおふたりとの放射線影響研究所訪問に関する詳細報告も行います。(のびのびになって申しわけありませんが、ようやく関係者間での記録もまとまってきました)

というわけで、以下の内容をお読みください。

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知られざる放射線研究機関 ABCC/放影研
2112.7.28TBS系「報道特集」
http://www.dailymotion.com/video/xsgr38_20120728-yyyyyyyyyyyy-yyyy-yyy_news?fbc=958

原爆の悲惨さを訴え、今も読み継がれている漫画がある。『はだしのゲン』放影研の前身であるABCCを描いたこんな場面が出てくる。「なにもくれず、まるはだかにされ、白い布をかぶせられ、血を抜かれて、身体をすみずみまで調べられたと言うとった。」「アメリカは原爆を落としたあと、放射能で原爆症の病気がでることがわかっていたんじゃのう。」「く、くそ、戦争を利用して、わしらを原爆の実験にしやがったのか」

(『はだしのゲン』作者中沢啓治さん(73)談)
「原爆を投下する前にすでに、アメリカはわかってたんですよ。あれが。落としたあと、どういう放射能影響が出るかということがわかっていて、それですぐにABCCを比治山の上に建てるわけでしょう。」

中沢啓治さんは、『はたしのゲン』の作者であり、自身も被ばくしている。母、キミヨさんは、被ばくから21年後に亡くなった。そのとき中沢さんは、今も脳裏に焼きついて離れない体験をした。

「ABCCが来てね、オフクロの内蔵をくれというんですよ。棺桶の中にいるオフクロの内蔵をくれって。怒ったんですよ。「帰れ」って。いやあ、あれはもう、広島市を見下ろす比治山の上から、じっとこうやって見ているんだよね。今日は被爆者の誰が死んだ、誰が死んだっていって」

ABCCによる被爆者調査の拝見を物語る文章が、アメリカの国立公文書館にある。1946年、海軍省が大統領に送った文章だ。

「アメリカにとって極めて重要な、放射線の医学的生物学的な影響を調査するにはまたとない機会です。調査は軍の範囲を超え、戦時だけでなく平時の産業農業など人類全体に関わるものです。」(報告書内容)

この文章にサインをしたのは、原爆投下を命じたトルーマン大統領その人だ。

「戦争の長引く苦病を短縮し何百万もの若いアメリカ兵の命を救うために原爆を使用した」(トルーマン談)

アメリカ人の命を救ったとする一方で、放射線の調査を命じていた大統領。その承認を受け、1947年、ABCCが広島で設立された。ABCCが当初最も重視したのは遺伝的な影響だった。広島・長崎で生まれた被爆者の子ども、被爆2世を77000人調査した。担当部長として調査を指揮したウイリアム・シャル氏は死産の赤ちゃんを調べたという。

「死産や生まれた日に死んだ赤ちゃんは、家族の同意があれば、ここABCCで解剖しました。採取された組織は保存されました。」(放影研の前で、シャル氏談)

遺伝的な影響があるのかは結論が出ず。被爆2世の調査は今も続いている。

そんな放影研に福島県郡山市から依頼があった。大久保利晃(としてる)理事長が、市の健康管理アドバイザーとして招かれたのだ。専門的な知識を期待されてのことだった。

「放射線に被ばくすればするほど、ガンは増えます。これは逆に。だんだんだんだん減らしていったときにどうなるのか。本当にゼロに近いところでもごくわずかに増えるのか増えないのか。これが一つの問題です。」
「本家本元、広島の研究では増えたのか増えてないのかということは統計学的に証明できてないです。」(大久保氏の福島での集会レクチャーより)

実は放影研のデータは、福島ではそのまま活用できない。放影研が調査してきたのは、原爆が爆発した瞬間、身体の表面に高線量の放射線を浴びる外部被曝だ。福島で今、起きていることはこれとは異なる。放射性物質が呼吸や食べ物から身体の中に取り込まれ、放射線を放ち、細胞を傷つける、内部被曝だ。

「子どもさんを外に散歩させていていいのか。乳児に外気浴をさせていいのか」「これ、すべてですね、申し訳ないけれども『良い』『悪い』という形で、私は返事ができないのですね。」(同レクチャーより)

低線量の内部被曝のリスクについて、大久保理事長は慎重に言葉を選んだ。そんな大久保氏に講演会のあと、歩み寄った一人の女性がいた。出産を間近に控えた井上美歌さん(28)だ。

「食べ物からの内部被ばくを気をつけていくことが一番安全なのかなと思うのですが」(井上さん談)
「特定の物ばかり食べて(放射性物質の濃度が)高いものばかりになってしまうと、危険とは言わないけどできれば避けた方がいいですね」(大久保氏談)

福島の人々の不安に答えられない放影研。その原因は放影研のデータには、決定的に欠落したものがあるからだ。

「うちのリスクデータには、内部放射線のことは勘案してありません。」(大久保氏談)

放射線の人体への影響を60年以上調べている放影研だが、実は内部被曝のデータはないという。しかし言うまでもなく内部被曝は原爆投下でもおきた。爆発で巻き上げられた放射性物質やすすがキノコ雲となりやがて放射性物質を含んだ雨を降らせた。この黒い雨で汚染された水や食べ物で、内部被曝が起きたと考えられている。

「黒い雨の方は、これは当然、上から落ちてきた放射性物質が周りにあって被曝するのですから、今の福島とまったく同じですよね。それは当然あると思うのですよ。それについては実は、黒い雨がたくさん降ったところについては、調査の対象の外なんですよ。」(大久保氏談)

内部被曝をもたらした黒い雨は、放影研の前進のABCCの時代から調査の対象外だったという。もとABCC部長のシャル氏はその理由をこう証言する。

「予算の問題は1950年からありました。研究員たちは予算の範囲で何ができるかを考え、優先順位をつけました。黒い雨は何の証拠もありませんでした。だから優先順位低かったのです」(シャル氏談)

だがABCCが内部被曝の調査に着手していたことが、私たちの取材でわかった。それを裏付ける内部文章がアメリカに眠っていた。「1953年にウッドベリー氏が書いた未発表の報告書です。」(公文書館員談)

ローウェル・ウッドベリー氏はABCCの当時の生物統計部長だ。報告書には広島の地図が添えられ、内部被曝の原因となった黒い雨の範囲が線で書かれている。ウッドベリー氏は、黒い雨の本格的な調査を主張していた。

「原爆が爆発したときの放射線をほとんどまたは全く浴びていない人たちに被曝の症状が見られる。放射線に敏感な人が、黒い雨による放射性物質で発症した可能性と、単に衛生状態の悪化で発症した可能性がある。どちらの可能性が正しいか確かめるために、もっと詳しく調査すべきだ」(ウッドベリー報告書)

この報告書にもどつき、内部被曝の予備調査が1953年から1年ほど続けられた。調査の担当者として日本人の名前も記されていた。ドクター・タマガキ。

「懐かしいですねえ。10何年もここにおったんですから。」(元ABCC研究員玉垣秀也氏(89)放影研の外で撮影)

玉垣秀也氏は、医師の国家試験に合格したあと、ABCCに入った。黒い雨を含め、原爆投下後も残った放射性物質、残留放射能の調査を命じられた。玉垣氏は、原爆投下後に広島に入った救助隊員40人を調べた。5人に深刻な症状を確認し、うち2人はすでに死亡していたという。

「(放射線を)直接受けた人たちと同じように脱毛がある。それから歯ぐきからの出血ね、それから下血、発熱と。そういうような症状でしたね。」(玉垣氏談)

しかしアメリカ人の上司は衛生状態の悪化が原因だと一蹴し、この調査を打ち切ったという。

「(上司は)あの当時の人たちは衛生状態が悪いから腸チフスにかかっても不思議はない」と。「それを聞いて玉垣さんはどう思われましたか?」(記者)「私はやっぱり原爆の影響だと思いましたよ。」

ABCCから放影研に変わった後も、内部被曝の調査は再開されることはなかった。

黒い雨による内部被曝の実態は、今も、広島・長崎の研究者の間で論議をよんでいる。内部被曝に関する放影研の姿勢を疑問視する声もある。

広島大学原爆放射線医学科学研究所 大滝慈(めぐ)教授談
「内部被曝のような問題がもし重要性が明らかになりますとですね、アメリカ側が想定してきたようなですね、核戦略の前提が崩れてしまうのではないかなと思います」

内部被曝への不安を訴えていた福島県郡山市の井上さんは、この4月、元気な女の子、うららちゃんを出産した。

「春の生まれなので、春の新しい命が芽吹くときに力強く育って欲しいなと思って、春といったら、うららかなって思いました」(井上さん談)

市役所から届いたバッジ式の線量計。しかしこれでは内部被曝については測りようがない。

「福島産であれば、「不検出」と書いてあれば買いますけれど、何も貼り出しがない場合は、福島じゃないものを使ってしまいますね」

井上さんが放射性物質を取り込めば、母乳を通じ、うららちゃんの身体に入る。井上さんは自分の内部被曝を防ぐことで、我が子を守ろうとしている。

「今は「何も異常はない」と言われていますけれど、いつ何があるかわからないし「自分たちで気をつけてください」ってただ言われているような気がして」

原爆の放射線の影響は、被爆者の生身の体で研究されてきた。それと同じ構図が福島で繰り返されるのだろうか。

内部被曝を調査の対象から外した放影研。福島の原発事故の発生から1年が経った今年3月、大きな方針転換を決めた。それは・・・内部被曝を調査の対象から外した放影研が新たな方針を決めた。

「過去の業績と蓄積した資料を使ってですね、原発に限らず、一般の放射線の慢性影響に関する世界の研究教育のセンターを目指そうと。」(大久保氏、放影研会議の席上で)

取り扱い注意と記された放影研の将来構想、内部被曝を含む低線量被曝のリスクを解明することを目標に掲げていた。原爆投下を機に生まれた研究機関は、今、原発事故を経て方針転換を余儀なくされている。

・・・番組の最後にABCCの現場からキャスターと記者が中継

「取材にあたったRCC中国放送の藤原大介記者を紹介します。藤原さんね、この放影研、放射線影響研究所ですね、やっぱり一般の研究施設とは違いますね。」
「そうですね。こちらの一本の廊下をはさんで、およそ20の検査の部屋が並んでいます。短い時間で効率的に検査をこなし、データをつめるためです。被爆者たちはこの廊下を戦後60年あまり歩いてきました。放影研の建物は、ABCCとして発足したころの、かまぼこ型の兵舎がそのまま使われています。」

「VTRの中に登場した『はだしのゲン』の作者の中沢啓治さんの言葉が強烈に耳にこびりついているのですけれども、人体実験だったんじゃないか、モルモットに扱われたんじゃないかという怒りの思いがですね、伝わってきたのですが、放影研の前進のABCCですけどね、これ、そもそもどういう研究施設だったのかという疑問が残りますね。」
「ええ。中沢さんと同じような暗い記憶を大勢の人たちが抱えています。占領期のABCCは軍用のジープで半ば強引に被爆者を連れてきました。助産師に金銭をわたし、赤ちゃんの遺体を集めたという元研究員の証言もあります。そうまでして集めた被爆者の膨大なデータが、内部被曝の影響を軽視したことで、福島で役にたたないということに、やるせない感じがします。」

「そして、311、あの大震災と原発事故を契機としてですね、ようやく1年以上経ってから、ようやく放影研が内部被曝の研究に再着手するというそういう方針転換をしたわけですよね。」
「そうですね。ABCC、放影研の調査は、けして被爆者のためのものではありませんでした。内部被曝の影響が抜け落ちているのに、国はその不完全なデータを根拠に、被爆者の救済の訴えを切り捨ててきました。今、放影研は福島県民200万人の健康調査を支援していますが、そこで内部被曝を軽視した広島の対応が繰り返されてはならないですし、広島の教訓は福島で生かさなければいけないと思います。」

「そもそもですねえ、日本において被爆者を救うはずの原爆医療でさえ、アメリカのABCCのデータ集めから始まってしまった悲劇をみて、一体、何のための医学なのか、誰のための医学なのかという思いをあらためてしましたけれども」
「放影研は将来構想で、低線量被曝を含め、内部被曝のリスクを解明することを目標に掲げました。しかしその研究は、今、福島で生きる人たちのためにはなりませんし、そもそも内部被曝のデータが欠落した放影研にリスクの解明ができるのかは疑問です。なぜ内部被曝の問題を過去に葬り去ったのか、その検証も欠かせません。」

「以上、広島から中継でお伝えしました」