守田です。(20120809 23:30)

今日は長崎に原爆が投下されてから67年目の日です。6日の広島の日も9日の 長崎の日も、それぞれの地で平和祈念式典が行われました。この式典に内閣 総理大臣である野田佳彦氏が参加していました。僕はテレビの映像を通じて 式典を見ていましたが、今日ほど「首相、あなただけにはこの場にいて欲し くない」と思ったことはありませんでした。

野田首相は、長崎の式典で次のように語りました。「人類は、核兵器の惨禍を決して忘れてはいけません。そして、人類史に刻まれたこの悲劇を二度と 繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した 我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負ってい ます。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことで す。そして、「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中 に広めていくことです。被爆から67年を迎える本日、私は日本国政府を代 表し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を順守し、 非核三原則を堅持していくことを、ここに改めてお誓いいたします。」

ウソばかりです。どうしてこうも次から次へとウソを繰り返せるのか。私たちの国の政府は、第二次世界大戦の終結と同時に、「鬼畜米英を倒せ」と国 民を戦争に駆り立て続けてきた態度を180度転換し、アメリカべったりの政策 を取り続け、その中で、原爆の非人道性を隠そうとしたアメリカ政府に全面 的に協力してきました。このため被爆者の苦しみに背を向け、内部被曝によ る痛みを無視し続け、被爆者を本当に辛い状態に置き続けてきたのです。そ れでなぜ「悲惨な体験の記憶を次の世代に伝承していく」などと語れるのでしょうか。

しかも私たちの国は今、福島原発から漏れ出した膨大な放射能によって、非常に深刻な汚染の中にあり、多くの人が「悲惨な体験」を重ねています。に もかかわらず野田首相は昨年12月、「冷温停止宣言」によって事故は終わっ たと宣言してしまいました。そもそも「冷温停止」は原子炉が健全な状態の ときの安定停止をもって語ることができるものであり、原子炉に穴があいて 放射能が漏れ続けている状態では適用できない概念であるはずだという多く の科学者の指摘も無視し、この大ウソの宣言を発してしまったのです。

もっとも許しがたいことは、そのうえに、これまたまったく根拠のない「安全宣言」を重ね続けることにより、本来、避難すべき人たちが避難ができず、 被曝を避けるべき人が避けられずに、今も、広範で膨大な被曝が進行してい ることです。それを強制している最高責任者が野田総理大臣であり、その人 が語るあいさつは、今日までに亡くなられた全ての被爆者の魂に対する冒涜 であると僕は思いました。だからこの首相だけには、あの式典の場にいて欲 しくはなかった。これほど深い憤りを感じながら、首相のウソだらけの「あ いさつ」を聞いた記憶はありません。

このようなウソのあいさつ、ウソの宣言、そしてウソの鎮魂の言葉が許され続けているこの異様な社会状況をなんとしてもひっくり返したい、いや返さずにはおかないと感じたのは僕だけではないはずです。怒りを胸に、そしてまたこうした権力者の偽りの言葉に、これまで騙され、何かを強制され、あるいは悲しい思いを重ね続けてきてすべての方々の無念を思い、それをシェアし、必ずや一矢報いるのだとの思いすら胸にさらに前に進みたいと思います。

このようなことを思っている時に、毎日新聞の加藤小夜記者の「記者の目」のハートフルな記事を読んで共感しました。加藤さんは京都支局にもいたことがあり、京都での戦争反対のためのピースウォークを丁寧に取材してくださったこともある記者さんですが、その加藤さんが、「黒い雨」の援護対象区域の拡大をにべもなく否定した野田首相の姿勢に対し、「核被害の実相に向き合わない政府に「被爆国」を名乗って欲しくない」と語りました。まったくその通りだと思います。深く共感しました。

みなさんにもこの記事をシェアしていただきたいと思い、ここに紹介することにしました。野田首相による原爆被爆者の酷い切り捨て、また福島原発自己被災者への被曝の強制にさらに強力に、全面的に反対していきましょう。

広島・長崎の日を経て、この誓いをさらに強めたいと思います。

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記者の目:「黒い雨」被害者切り捨て=加藤小夜
毎日新聞 2012年08月07日 00時11分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120807k0000m070091000c.html

◇国は核被害の実相を見よ

米軍による広島への原爆投下から67年の今夏、「被爆者」と認められるはずの「黒い雨」被害者は切り捨てられた。厚生労働省の有識者検討会は7月、あまたある証言を無視して黒い雨の援護対象区域拡大を否定し、政府もそれを追認した。爆心地から幾重も山を越えた集落を訪ね歩き、原爆の影を背負って生きる人々の話に耳を傾けながら、私は何度、広島の方角の空を見上げただろう。核被害の実相に向き合わない政府に「被爆国」を名乗ってほしくない。

うそを言うとるんじゃない。事実はあるんじゃから」。1945年8月6日、広島の爆心地から約15キロ西の祖父母宅近くで、女性(76)は黒い雨を浴びた。神社で遊んでいると「痛いぐらい」の大雨が降り、その後、毎朝のように目やにが止まらなくなり、爪はぼろぼろに。30代半ばで甲状腺の病気を患い入院、白内障の手術も3回受けた。

山あいの集落で聞いた住民たちの情景説明は生々しかった。爆風で飛んできた商店の伝票。シャツや帽子についた雨の黒いシミ。雨にぬれた乳飲み子の頭を拭いて着替えさせたこと。女性の祖父は、しば刈りの作業中に雨に遭った。鎌が滑って切れた手から血が流れた。祖父は「普通の雨じゃない。油のようだった」と話したという。証言は細部まで具体的で偽りは感じなかった。取材した後、女性から「記事にしてほしくない」と切り出された。30年近く前、幼くして白血病で命を落とした孫のことが頭に引っかかっているからだった。孫の入院先から「原爆に遭うてない?」と長女が電話をしてきた時「遭うてないよ」と答えた。孫の病気は自分が黒い雨に遭ったせいなのか。親族からそう思われるのではと考えると気持ちが今も揺らぐ。匿名を条件に話を聞きながら原爆が心身に刻んだ傷の深さを思った。

◇科学的な立証を求める理不尽さ

国の被爆者援護の歴史は被爆から12年後の原爆医療法施行に始まり、地域の拡大や手当の創設・拡充が順次実施された。黒い雨を巡っては1976年、広島の爆心地付近から北西に長さ19キロ、幅11キロの楕円(だえん)状の地域が援護対象区域に指定された。区域内にいた人は無料で健康診断が受けられ、特定の病気が見つかれば被爆者健康手帳が交付される。しかし、厚相(当時)の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」は80年の意見書で、新たな被爆地域の指定には「科学的・合理的な根拠がある場合に限る」とした。この後、地域の拡大は一度もない。時間の経過に加え、そもそも被害者側に科学的立証を求めるのは無理がある。

広島市などは08年、被爆者の高齢化を受けて「最後の機会」と位置づけた大規模なアンケートを実施した。その結果から援護対象区域の6倍の広さで黒い雨が降ったと主張し、10年、区域拡大を政府に要望した。これを受け同年末から厚労省の有識者検討会が始まった。全9回の会合をほぼ毎回取材したが、審議は「結論ありき」としか思えなかった。ある委員は、放射線の影響を認めることは「疫学的な誤診」と発言し、「学術的に厳密な判断を求めないと、とんでもない病気をつくってしまう」とまで言った。私には認めない理屈をあえて付けようとしているとしか見えなかった。「現地を訪れて体験者の声を聞いてほしい」という地元の訴えも黙殺された。

◇背を向けたまま被爆国名乗るな

援護対象区域拡大を訴えてきた「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」は今夏、54人分の証言集「黒い雨 内部被曝(ひばく)の告発」を刊行した。がんなど病気の苦しみとともに「死ぬのを待ちよるのか」など国への憤りがつづられている。証言を寄せた森園カズ子さん(74)=広島市安佐北区=は甲状腺の病気を長年患い、だるさとも闘う。「私らみたいなのは置き去りですよね……」。私は返す言葉がなかった。

被爆者健康手帳の所持者は今年3月末現在、全国で21万830人いるが、手帳を取れない「被爆者」の存在を忘れてはならない。援護区域の外側で黒い雨に遭った人だけではない。焦土で家族や知人を捜したり、郊外で負傷者の救護活動に携わった人も、放射線を浴びた。その事実を証明できないなどの理由で、申請を却下された人は多い。

隠された「被爆者」の存在に触れると今も残る原爆被害が身に迫り、被害を救おうとしない「被爆国」に悲しさを感じる。福島第1原発事故後も、国は核被害の原点にも、私は真実を語る「被爆者」の側から告発を続けたい。(広島支局)