守田です。(20151102 17:00)

澤地久枝さんから11月3日午後1時きっかりに全国で「アベ政治を許さない」を掲げようとの提案がなされています。

ご存知のように澤地さんはこの6月に「アベ政治を許さない」を7月18日に掲げようと提案されました。
金子兜太さんが「アベ政治を許さない」揮毫すると、この文言は瞬く間に全国の人々に広がり、プリントアウトされ、7月18日に、いやそれ以降も各地で掲げられ続けています。
その行動を再び11月3日から毎月3日に行おうとの提案ですが、澤地さん自身はこの日、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館前で掲げられるそうです。

なぜ満蒙開拓平和記念館前なのか。澤地さん自身が、終戦時に満州にいて1年間の難民生活を経たのちに帰国された体験を持っているからです。
その時、彼女は14歳。軍国少女だったそうです。帰国後に戦争反対に生涯を投じる女性へと変身されました。
この夏、満州からの帰還の体験を綴った『14歳<フォーティーン>満州開拓村からの帰還』を出版されました。8月15日に東京新聞が報じている記事をご紹介します。

流されぬ人間になれ 14歳での敗戦記憶を本に 澤地 久枝さん(作家)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2015081502000220.html

僕もこの日京都から阿智村まで行って、ここで「アベ政治を許さない」を掲げることにしました。
シリアで大変な数の難民が発生しているときに満蒙開拓平和記念館の前に立つことに意義を感じたこともありますが、それよりも京都からある方が駆けつけようとしていることを知って、どうしても行かなくてはと思ったからでした。

その方は村上敏明さん。81歳。京都駅前で毎週金曜日に行われている関西電力京都支店前行動に、初回より連続175回、途切れることなく参加中の方です。
京都の行動は盆暮れでも一度も休まずに続けてきているので全国でももっとも回数が多いそうなのですが、そのすべてに村上さんは参加されてきました。
もちろんそれだけでなく、京都で行われる戦争法反対のデモ、沖縄連帯のデモ、原発反対のデモのどこでもいつでも村上さんは歩いて来られました。

その村上さんに聞くと、この日の午前中に新幹線で名古屋まで行き、高速バスで阿智へ。滞在1時間ぐらいで再びバスと新幹線で夕方までに京都に戻るつもりだといいます。
これでは満蒙開拓平和記念館もほとんど見学することができません。
「村上さん、それなら僕が車を借り出します。ぜひ一緒に行きましょう。平和記念館も見学してください」ということになったのでした。

村上さんも戦時中に満州に在住していて11歳のときに苦難の末に引揚てこられてきた方です。
この10月31日に左京区で村上さんが講演されたのでお話を聞いてきましたが、それこそ涙無くして聞けないお話でした。
この日のタイトルは『81才、反対といえる幸せ』。サブタイトルに「誰の子や孫にも人殺しをさせない 戦争は民間人も巻き込んでしまう」とありました。

村上さんご一家が満州に移られたのは1939年のこと。お父さんは京都市職員から、満州の国際運輸の社員へと転身なされました。
1941年に小学校に入学し、42年四平という町に転じられ、終戦後までそこで過ごされました。
1945年、小学校5年生の時に芙美子さんという妹さんが生まれましたが、戦況悪化の中でお父さんは徴兵されてしまいました。

この頃の思い出として、村上さんが語られたのは一つに1940年に日本がでっち上げた国家であった満州国の首都、新京(現在の長春あたり)で突然の隔離を経験したことでした。
理由はペストの蔓延から子どもたちを守るためでしたが、この病の伝染は人為的なものでした。
日本陸軍の研究機関であった731部隊(正式名称は関東軍防疫給水部本部)がペストをはじめとした細菌兵器を開発し、実際に農村部で使用したのですが、そのペスト菌が「新京」にも感染してしまったのでした。

村上さんは淡々と語られました。父親がいつも非常に荒れていて、血みどろになってドアのガラスをたたき割ったこと。
自分自身も、近所の中国人の頭を石でたたいたり、学校で中国人の生徒に集団暴行を働いたりしたこと。「断れなくて仕方なく行ったのか、自発的だったのか覚えていないのですが」という言葉が添えられました。
その頃は学校の中でも教師の体罰が横行するとともに、子どもたちも始終殴り合い。しかもボスに命令されて他の子たちを殴ることなどが日常的に行われていたそうです。

やがて戦争末期にソ連が参戦。官僚の家族などが真っ先に日本に逃げていきましたが、多くの人々は逃げられませんでした。
8月15日の敗戦の知らせで、四平駅に人々が押し寄せたものの、結局、その場に足止め。日本軍が塹壕を掘って抗戦を主張するうちにソ連軍が進駐してきて、町には砲火が鳴り響きました。
8月26日には東京の大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。要するに「ここからは日本国籍を離れて勝手に生きろ」と棄民を宣言したのでした。

四平ではどんどん戦乱が強くなっていきました。第二次世界大戦終結とともに再度起こった中国の国民党軍と共産党軍との内戦が激しくなったからでした。
1946年3月にソ連軍が撤収。代わって中国共産党軍(八路軍)が入ってきましたが、これに国民党軍が攻撃。5月に国民党の支配が確立しました。
この間、村上さんは戦火の中で日々を過ごしました。砲弾の破片が頭をかすめ、そばにいたおばさんに当たって失明してしまったことも。戦火に巻き込まれて亡くなった級友もいました。

やがて四平の人たちの「内地」への引揚が決定しますが、病弱だったやっと1歳になった妹さんが「足手まとい」だと言われてしまいます。
その妹さんに村上さんは大人たちに手渡された水薬を与えました。妹さんは村上さんを黒い瞳で見つめたまま絶命されたとのこと。村上さんはこの前後の記憶を無くされています。
村上さんのスライドにはこう書かれてありました。
「7月上旬 妹1歳の死(殺める)家の近くに土葬」

7月7日に無蓋貨物車で四平を発ちました。お母さんは車内で「フミコが、フミコが」とつぶやいていたそうです。
途中、葫蘆島付近で収容所生活を送りましたが、お母さんが衰弱して病院へ。
8月上旬、またしても村上さんは医師たちに渡された薬をお母さんに与えました。同じく村上さんのスライドの記述です。
「母の死(安楽死?・いつもと薬が違うと思った。飲ましたら泡を吹いて死亡)・弟二人と三人の通夜・泣かなかった。そして土葬 スグ、船で日本へ 8月下旬・佐世保へ」

村上さんは京都までなんとか引き揚げてきましたが、そこでお祖母さんと再会。なんと彼女の夢に村上さんのお母さんが現れ、「後を頼む」と村上さん兄弟のことを託されたのだとか。
やがてお父さんも引き揚げてきて、一緒に逃げのびてきた弟さんたちとお父さんとの生活が再開されました。

村上さんのスライドは次のように締めくくられていました。

今、僕に呼びかけている母とフミコ

八紘一宇・‥アジアの人々への圧政だったのね。
これからは、アジアの人々と仲良くね
あんな加害行為もやめようね
私たちの命の分も生きて!!
あなたの子や孫、私の孫や曾孫。
いつまでも豊かに、平和に暮らせるよう!! あなたは努力して!

11歳で過酷な体験をくぐり抜けられた村上さんは、結びの言葉に、満州国をはじめ各地で日本が行ったことがアジアの人々への圧政だったことを一番に書いています。
そうして「これからは、アジアの人々と仲良くね。あんな加害行為もやめようね。私たちの命の分の生きて!!」とつづられています。
僕にはその言葉は、あの時、中国大陸で亡くなった本当にたくさんの日本の方たちが発している言葉のように思えました。お母様と芙美子さんの向こうに無数の人々の顔が見える思いが今もしています。

この講演の途中で村上さんは、「岸信介・・満洲の中枢として僕らの暮らしを支配」というタイトルで満州国に深く関わっていたのが岸信介であることを指摘されました。
どこまでも温厚な村上さんが珍しく「この方は憎いです」と強い語気で語られました。
周知のごとく安倍首相は満州国に君臨していた岸信介の孫です。もちろん孫であることに罪があるわけではありません。中国と日本の巨万の民衆に塗炭の苦しみを味合わせたこの人物を理想化し、あがめ、近づこうとしていることが悪すぎるのです。
戦乱の中で苦しみ、もがき、命を落としていったすべての人々に対する冒とくであり、私たちと未来の命への許すことのできない攻撃です。

11月3日、澤地久枝さんの呼びかけに応え、村上敏明さんと共に、満蒙開拓平和記念館の前で「アベ政治を許さない」を掲げます。
みなさんもどうか各地で掲げて下さい。平和への歩みをさらに強めましょう!

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澤地久枝のよびかけ
https://sites.google.com/site/hisaesawachi/

アベ政治を許さない!!
同じポスターを全国一斉にかかげよう
11月3日(火・祝)午後1時きっかり

◆◆全国一斉行動 再開のお知らせ◆◆
7月18日午後1時の「掲げる会」にご協力ありがとうございました。
8月、9月と体調をくずしていましたが、政治のあまりのひどさに、また「アベ政治を許さない」を掲げようと思い、よびかけます。

再開第一回目の11月3日(火・文化の日・憲法公布記念日)私はこの日長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」前に立ちます。(国会前には、有志が立ちます。)
そして、毎月3日午後1時にくりかえします。
それぞれの場で、おなじ抗議ポスターを、おなじ時間に掲げます。
現在の政治のありかたに対する、私たちのギリギリの意思表明です。
ファックスやネットでも広げてゆきましょう。

2015年10月 澤地久枝