守田です(20150829 11:00)

8月30日に京都市のかぜのねで行う以下の企画に向けた論稿の2回目です。

日本の社会活動のあり方を考えよう
-スコットランド啓蒙思想の対話性と現実性に学ぶ-
https://www.facebook.com/events/795032107261199/

2、市民革命で繰り返された流血のはてに

今回はイギリス経験論を生んだ時代背景の考察をしてみましょう。スコットランド啓蒙思想を含むイギリス経験論は先にも述べたように1640年代の市民革命からの流れの中で生み出された思想でした。
これに先んじる時代は中世から近世への架橋の時代でした。ヨーロッパ中世はカソリックの支配が絶大でしたが、次第にそれぞれの荘園領主であった諸侯の力が増していき、国王となり、バチカンを頂点とした中世支配が揺るぎ始めました。
農奴制に基づいた農耕労働が基盤であった状態から、次第に中世都市が確立していき、物資の交易を専業とする商人が勃興しだした時代でもあり、その中でバチカンの支配に抗議する人々「プロテスタント」が現れ始めました。

このためヨーロッパ各地でカソリック対プロテスタントの宗教戦争が起こったわけですが、イギリスでもバチカンに従っていた国王のヘンリー8世が独立を目指します。
しかしその理由は教義的なものではなくて、王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚しようとしたことに対し、もともと離婚を認めないバチカンが許可を出さないことに対抗しての離脱でした。このときイギリス国教会が生まれました。
このため当初、イギリス国教会はバチカンからは離脱したものの、カソリック的な儀式を守っていましたが、ヘンリー8世の息子のエドワード6世の時代、1550年ごろまでに、プロテスタンの側への大きな変貌を見せ始めました。

ところが1553年にメアリー1世が女王となるや再び方向性が一変します。もともとメアリはヘンリー8世と、離婚されたキャサリン・オブ・アラゴンの間の娘であったことから国教会をひどく嫌い、プロテスタントに過酷な弾圧を加えました。
そのあり方はあまりにも血みどろだったと言われ、メアリ1世は後に「血まみれのメアリー(ブラッディメアリー)」とあだ名されるようになりました。この名は今日ではトマトジュースをウォッカでわったカクテルの名となっています。
メアリーは人心を急速に失ったまま1558年に卵巣腫瘍から死亡しましたが、その後にエリザベス1世に王位が移ることでイギリスのカソリック回帰運動はなくなりました。メアリーの死んだ11月17日は「圧政から解放された日」として200年間祝われたそうです。

エリザベス1世はイギリス国教会のますますのプロテスタント化を進めましたが、それでも王室の世俗的な争いに端を発したプロテスタント化の流れには旧教との折衷的な部分も多く、反発した人々が「純粋化」を求め「ピューリタン」を形成していきます。
この頃プロテスタントの運動はドイツに発したマルティン・ルターを中心とする「ルーター派(ドイツ語的にはルーテル派)」とフランスに生まれたジャン・カルヴァンを中心とする「カルヴァン派」が主流となっておりイギリスには後者が浸透していました。
このピューリタン(イギリスのカルヴァン派)は、イギリス国教会を内部から変えようとする長老派と、分離独立を目指す勢力に分かれていき、後者はさらに会衆派、バプティスト、クエーカー、分離派などに分かれて行きました。

イギリス王政はエリザベス1世のもとで強い力を得ていきます。とくに1588年アルマダの海戦でカソリックの大国スペイン海軍をイギリス海軍が撃破したことで一気にイギリスは強国化していきました。
これとともに王室の権限も強まり、絶対王政と化して、国王たちは「王権神授説」を唱えるようになりました。自分たちの支配の権限は神によって与えられたものだとしたのでした。
ところがこの絶対王政のもとでかえって商業的な取引が発達したことから商人たちもまた力を得るようになり、王権に逆らうようになりました。これらの人々の多くピューリタンに与していき、やがて勃興したのが1640年代の内戦でした。

結局この戦いは1642年から49年まで、イングランド、スコットランド、アイルランドの三つ巴の争いの様相をも呈しつつ、激しい戦闘の繰り返しになり、ピューリタンの勝利に終わりました。
しかしその後にもピューリタンがスコットランドやアイルランドに侵攻して殺りくを行うなど、あまりに苛烈な暴力を振るった結果、1666年には再び王政復古を迎えてしまうことになりました。
ところが復活した国王がまたしても絶対王政とカソリックへの回帰を示したことから、再度の市民革命が1688年に起こり、国王ジェームズ2世が追放されましたが、この時には「血で血を洗う」報復の応酬への反省として無血革命の道が選ばれました。

血を流さなかったことが栄誉と称えられるとともに、カソリック回帰の傾向が最後的に閉ざされ、イギリス国教会の位置が確立されたことをもって「名誉革命」と名付けられた革命でした。
このときオランダから市民の合意に従う「民主的な王」として迎えられたのが「オレンジ公ウィリアムス3世」でした。以降、オレンジ色はプロテスタントを象徴する色となっていきました。
ただし「無血」といっても、その後、名誉革命政府はカソリックの反抗に対して何度も戦闘を行っています。とくにジェームズ2世の側についたスコットランドや、カソリックの側についたアイルランドに対して、激しい攻撃が繰り返されました。

イギリス経験論は、以上、見てきたようなプロテスタントの勃興の元での王政の絶対化と、その後の市民革命の対置という脈絡の中で、市民革命政府を自己肯定的にあとづけるものとして登場してきたものであったと言えます。
その始祖は名誉革命を哲学的に意味づけたジョン・ロック(1632~1704)でした。ロックは市民政府の統治の合法的な根拠として、ホッブス(1588~1679)に始まる自然法思想と社会契約論を独自に解釈しなおして提出していきました。
王権神授説に対してロックは、「神は全ての人間に平等に理性を与えた。理性は人間が他人の生命や財産(自然権)を相互に尊重しあっていける能力であり、その理性の命じる方が自然法である」という立場を打ち出しました。

ロックは自然法は明文化されていないためにそれそれが解釈すると衝突が起こるので、人間は原始的に自然権を政府に預けることを相互に契約した。それゆえ統治権は立法によって成立する政府に預けられているという立場をとりました。
「社会契約説」と言われるもので、そこには契約を破った政府は当然にも倒していいという革命思想も含まれていました。
このためこうした考察は、その後のアメリカ独立戦争の指導的理念ともなっていきました。

しかしこのロックの主張は、神が理性を人間に授けたのだという点に弱点を持っていました。なぜならこれでは神が支配権を王に与えたと言う王権神授説とその正当性の根拠は等しく、王権批判を十全に提起しえてはいかなかったからです。
このロックの矛盾と言われた神を根拠とした自然法思想の限界に対し、もっともはやくその克服を唱える位置にたったのがスコットランド啓蒙思想であり、デヴィット・ヒュームやアダム・スミスでした。
先にも述べたようにスコットランドは、王権を苛烈に批判したピューリタンによっても迫害された経験を持つがゆえに、神を根拠した「自由主義思想」の限界にもっとはやく気が付く位置にいたからでした。

続く