守田です。(20150806 22:30)

本日2015年8月6日、私たちは被爆70年の日を迎えました。
原爆で亡くなられたすべての方の魂に対して心から哀悼の意を述べたいと思います。また被爆によって苦しみ続けた来たすべてのみなさんに心からのお見舞いを述べたいと思います。

70年前の今朝8時15分、アメリカは広島市に原爆を投下し一瞬のうちにたくさんの人々を熱戦、放射線、爆風によって殺害しました。
被害は長期におよびその年の暮れまでに14万人が殺害され、以降、原爆の被害によって本当にたくさんの人々が次々と殺されてきました。殺されずとも病を被った人、心身の傷を被った人は数え切れません。
中には被ばくの事実を認められずに来た人、そのまま亡くなった人、またそもそも被ばくに気付かないままに苦しみ続けて亡くなった人、今なお、苦しんでいる人もいます。
この被爆70年の日に、私たちはあらためて広島・長崎への原爆投下は戦争犯罪であること、アメリカは全面的に謝罪すべきであることを声を大にして訴えましょう!

もちろん戦争犯罪は広島・長崎への原爆投下にとどまりません。東京大空襲をはじめ200以上の都市に対して行われた無差別空襲もすべて戦争犯罪です。
沖縄への空襲と艦砲射撃、その後の上陸作戦による第殺りくも、軍隊を民間人を分けずに攻撃したことによって明白な戦争犯罪です。
およそアメリカは日米戦争の末期、1945年に戦争犯罪を重ねつづけたのであり、そのすべてを謝罪し、真摯に反省すべきです。
私たちもまた真の隣人として、アメリカという国が犯した人道的な罪を告発し、謝らせるためのあらゆる努力を傾けるべきです。

最も大事なことは、この民間人の大量虐殺、しかも長期に影響がおよび、次世代にすら影響のおよぶ可能性のある放射線を使い、人々を長期にわたって痛め続け、殺し続けた罪を捉え返さないことで、アメリカが悪くなり続けてきたことです。
まずアメリカ軍は戦争直後に核実験を頻繁に行い、広島・長崎をはるかに凌駕する放射能を撒きちらし、南太平洋の島々の人々を中心に、世界中にヒバクシャを拡大させてしまいました。
さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などで、核兵器以外の最新鋭兵器をふんだんに使い、無差別爆撃を繰り返し、世界中で虐殺を繰り返しました。猛毒のダイオキシンを撒いたり劣化ウラン弾も使いました。
この殺りくの連鎖は、第二次世界大戦におけるアメリカの戦争犯罪が裁かれず、アメリカ民衆が反省の時を持てなかったことによってこそ拡大してきました。だからこそ今、広島・長崎に戻ってアメリカの戦争犯罪を止める必要があります。

広島・長崎原爆のことに戻りましょう。そもそもアメリカ軍はなぜ2つの原爆を投下したのでしょうか。
理由は2つのタイプの原爆を作ったからでした。広島に落としたのは濃縮ウランによって作った原爆、長崎に落としたのはプルトニウムによって作った原爆でした。
はじめて原爆を作ったアメリカは、ウランの濃縮によって作った方が効率が良いのか、ウランからプルトニウムを生成して作った方が効率が良いのか、どちらか判断できずに2つの計画を同時並行で走らせました。
その結果、2つのタイプが完成したためにどうしても2つ落としたかったのでした。そして投下の結果として原爆製造はプルトニウム型に絞られることとなりました。その意味で2回投下したのは新型兵器のための性能比較テストをするためでした。

さらに犯罪的なことがあります。アメリカ軍は広島に8時15分に原爆を投下しましたが、この時間を狙ったことにも明確な理由がありました。ちょうど朝の通勤時間にあたり、人が最も建物の外に出ている時間だったからでした。
この時間帯にアメリカは効率よく熱戦や放射線を人々に浴びせることを狙ったのでした。人間がどれだけの被害を受けるかを知りたかったからでした。
その意味で原爆投下は明確な人体実験でした。最も犯すことが許されない戦争犯罪でした。
これを証拠づけているのはアメリカのエネルギー庁が1991年12月まで、公文書に広島・長崎への原爆投下を「実験」と分類していたことです。この反映か、いまでもネットで「核実験」を検索すると広島・長崎が繰り込まれていることがあります。

アメリカの戦争犯罪はそれだけにとどまりません。原爆投下に次ぐ犯罪として行われたのが、戦争終結後にアメリカ軍が大量に広島・長崎に乗り込み、被爆者調査を排他的に行ったことでした。
アメリカ軍はなぜこのようなことをしたのか。一つには原爆の威力を独占的に知るためでした。とくに爆心地からの距離の死亡者数から得られる「死亡率曲線」に着目し、そこから原爆の殺傷力を測っていきました。
もう一つ。重大なことがありました。原爆を落としたアメリカ軍が人体実験の対象とした被爆者の調査を独占することで、放射線の人体への影響のデータをとりつつも、他方でその実相を隠してしまうことでした。
なぜか。原爆投下直後にヨーロッパの科学者たちなどから「原爆は次世代にも影響を与える非人道的兵器であり、即刻使用を中止すべきだ」という声が上がっていたからでした。

とくにアメリカ軍が驚愕したのは、イギリスとアメリカの新聞記者が広島に潜航取材し、以下のような記事を配信したことでした。
「広島では・・・人々は『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」(『ロンドン・デイリー・エクスプレス』1945・9・5)
「原子爆弾は、いまだに日に100人の割合で殺している」(『ニューヨーク・タイムズ』1945・9・5)
ファシズムの国に対する民主主義の国の勝利を信じていたイギリス、アメリカの民衆の中にこれらの記事で胸を痛めた人々が表れつつありました。

これに対してアメリカ軍は翌日にはすぐに対応。9月6日に原爆製造計画=マンハッタン計画副責任者ファーレル准将が東京で記者会見し、「原爆で死すべき人は死んでしまい、9月上旬において、原爆で苦しんでいる者は皆無だ」と大嘘の会見をしました。
さらに9月19日にはプレスコードによって原爆報道を全面的に禁止し、原爆被害の全資料を占領軍の管轄下においてしまいました。
広島・長崎から日本人を含む各国の記者たちが追い出され、以降、1952年サンフランシスコ講和による日本の独立まで、被爆者の状態はまったく報道されることはありませんでした。
加害者が被害者の状態を世界から完全に隠してしまったのでした。これ自身が被爆者に対してアメリカが行った追加的な重大迫害でした。

アメリカ軍がその後に行ったのは、人体に対する放射線被曝の影響を徹底して小さく見せることでした。それでなければ核兵器が維持できず、その後に何回も行うことになる核実験ができなくなってしまうからでした。
その際、アメリカが用いたテクニックが被曝の影響を外部被曝に限ってしまうことでした。このため爆心地からどれだけの距離にいて放射線を浴びたのかということと、どれだけの量を浴びたのかだけが被曝の目安とされました。
内部被曝の被害を切り落としてしまうためでした。なぜなら内部被曝は放射能の雲の届いたところのすべてて起こっていたのであり、爆心地からの距離だけでは測れないものだからでした。
またたくさんの核種の体内への摂り込みによって生じる内部被曝の影響は、それぞれに具体的であり個性的であって、本来、数直線化して測ることなどできないものであるにもかかわらず、この点を誤魔化すために量への還元がなされたのでした。

かくして内部被曝の影響を極端に低く見積もったものが被爆者調査データとして発表され、その上に「放射線防護学」という名の学問ならぬ学問が作りだされ、全世界に発信されました。
アメリカはこの中にあってこそ、核戦略は維持したのですが、それは後に、より核戦力を生き延びさせるための「原子力平和利用」につながり、世界中に原子力発電と被曝を広げることにもつながっていきました。
この広島・長崎で行った内部被曝隠しこそアメリカが戦後に行った最大の戦争犯罪であり、それが核実験の度重なる強行と連なっていきました。いやそれは戦後70年にわたって正されないままに続けられ、現在もなお私たちを苦しめ続けています。
この夏、私たちはアメリカの「隠された核戦争」=被曝隠しや極端な過小評価のカラクリを表に出し、核の世の中からの訣別の道を切り開いていく必要があります。被爆70年の本日8月6日、このことを決意も新たに訴えたいと思います。