守田です。(20150623 11:30)

本日6月23日は沖縄の慰霊の日です。70年前のこの日、旧日本軍の沖縄守備隊第32軍の司令官、牛島満中将と長勇参謀長が自決したことで組織的な戦闘が終わったとされているからです。
実際には、牛島中将が「最後の一兵まで戦え」との命令を残したこともあって、以降も戦闘は続きました。実際にすべての戦闘が終わったのは8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後のことでした。

沖縄戦では何人の方たちが亡くなったのでしょうか。沖縄県南部戦跡にある平和祈念資料館のHPには次のような記載が見られます。

Q 沖縄戦による死亡者数は?
A 200,656人〔沖縄県援護課発表 1976年(昭和51)年3月〕
日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)(他都道府県出身兵 65,908人)
米  12,520人

沖縄県平和祈念資料館
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/heiwagakusyu/kyozai/qa/q2.html

軍人ばかりでなく沖縄の民間の方が94,000人もが犠牲になってしまったのですが、沖縄戦が「鉄の暴風雨」と言われるほどの激しいものであったこともあって、これまで人々がいつ、どのように亡くなっていったのか明らかになっていませんでした。
これに対して、沖縄戦終結から70年を迎えるにあたって、NHKスペシャルが新たな取材を行い、沖縄県が行った、戦没者の死亡日時と場所を記した膨大な調査記録を発見。この中から82,074人分のデータの解析に成功しました。
これらを元に以下の番組が制作されました。

NHKスペシャル 沖縄戦全記録
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0614/
https://www.facebook.com/NHKonline/videos/1109804899046174/

番組は6月14日に放映されましたが、僕は今朝、録画でこの番組を見て、主要部分のノートテークを行いました。
確かにこれまで十分に明らかにされてこなかった沖縄戦の過程、とくに住民が亡くなっていく過程が明確に解析されていました。

これまでも沖縄戦についてはさまざまな記録が出されています。
僕自身が最も感銘を受けたのは、沖縄戦時に師範学校の生徒であり、学校で組織された「鉄血勤皇隊」に参加して沖縄戦に従軍した太田昌秀さんの書かれた『沖縄のこころ』(岩波新書)でした。
太田さんは司令部付の主に住民に向けて情報を流す伝令隊に配属されました。そのため学生でありながら、沖縄戦の中軸となった戦場を駆け巡る経験を持ちました。

この体験をベースとしつつ、戦後に占領下の沖縄で英語を習得し、アメリカに渡って米軍の沖縄戦史も紐解いて、沖縄戦の全体像を明らかにしたのがこの書でした。
そこには沖縄戦における多数の民間人の犠牲が、単に沖縄で地上戦が行われたからことだけにあるのではなく、日本軍が民間人に対して南部に逃げるように指示しておきながら、首里城付近での攻防戦に敗れるやその南部に撤退したこと。
しかも兵士たちの多くが民間人の衣装をまといつつ、避難民がひしめいてる場に逃げ込んだために、圧倒的な数の人々が戦闘に巻き込まれてしまったことにあることが告発されていました。

僕自身、初めて沖縄を訪れたとき、太田少年が司令部と一緒に辿った道をなぞるようにして首里城から南部戦跡へと向かいました。
車での旅でしたが、最後にまだ作られたばかりの「平和の礎」に到達し、深い感銘を覚えました。
同時に各地の戦跡で、米軍が組織だって見学に訪れている場面にも遭遇しました。「お前たちの先輩はこんなに苦労して沖縄を獲ったのだ」という教育がなされているに違いなく、なんとも言えぬ憤りを感じました。

太田さんは『沖縄のこころ』を始め、数々の沖縄戦に関する研究論文を書かれた後に、沖縄に真の平和をもたらすために1990年に沖縄県知事になり、米軍基地の返却を求める県民運動の最先頭にも立たれました。
おりしも1995年に少女レイプ事件が起こったことに対し、すぐさま沖縄の女性たちが米軍犯罪の根絶を訴えて決起。基地も軍隊も許さない大きな県民運動が起こりました。
これに対して時の村山政権を継いだ橋本龍太郎首相のもと、1996年4月12日、普天間基地の条件付き返還が決められました。少女レイプ事件に対しての立ち上がりの中で、沖縄の基地の安定性を失うことを懸念した米日が示した譲歩でもありました。

しかしその後、代替施設として辺野古基地の拡張が浮上。現在にいたるまでの攻防が生まれてしまいました。
あれから20年近く経って登場した安倍政権は、普天間基地の移転が、もともと1995年に沸き起こった県民ぐるみの基地反対の声に対する回答であった経緯などまったく忘れて、県民の総意を無視し、遮二無二、新基地建設に突き進んでいます。
そうして迎える70回目の沖縄慰霊の日を前にしたこのNHKスペシャルは、私たちに多くのことを示唆してくれました。

今回、明らかにされたのは沖縄戦の全経過の中で、民間人の死者数がなぜ、どのように増えていったかです。
米軍が沖縄本島に肉薄しつつあったとき、沖縄には50万人の民間人が残されていました。そのうち最終的に122,228人が亡くなってしまったのですから、島にいた沖縄県民の4人に1人が亡くなった計算になります。
沖縄攻防戦は、米軍が読谷村付近の海岸線に4月1日に上陸した後に大きな戦いになっていきますが、この初戦で殺された民間人の数は292人でした。

日本軍(第32軍)はこのとき、上陸に対して水際で撃退する戦法をとらず、もっと南の首里城付近に部隊を布陣させていました。
理由は沖縄戦を前に、沖縄守備隊の一部を台湾に割いてしまったためでした。日本軍は米軍が先に台湾に上陸すると考えて戦力を分散してしまっていたのでした。
戦力が圧倒的に不足する中で、第32軍の長勇(ちょういさむ)参謀長は、県民に対して次のように布告しました。「全県民が兵隊になることだ。すなわち一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ。」

番組はこうした背景のもとに、沖縄住民が「防衛召集」の名のもとに日本軍の一部に組み込まれたこと。だからこそ民間人の犠牲が多くなったことを告発しています。
その最初の例になったのが伊江島での戦いでした。米軍は4月16日に6000名の兵力で伊江島に上陸しましたが、島に残っていた日本軍は推定で2700人、あとは3000人の島民が戦力に組み込まれてしまっていました。
戦闘は6日間にわたって激しく行われました。米軍の圧倒的な火力の前に日本軍は劣勢になり20日に最後の総攻撃をかけて壊滅してしまうのですが、このとき多くの島民までもが死を共にさせられたのでした。

というのは捕虜になることを許されなかった日本軍は、どこの戦線でも戦いの勝算が無くなると「斬り込み」攻撃に出ることを常としていました。残っている武器をかき集め、勝ち負けなど度外視で米軍に突撃するのです。
なんとこの戦いに島の住民たち、女性たちまでもが動員され、この20日だけで島民781人が亡くなってしまいました。最終的な伊江島の戦闘での死者は日本軍約2000人、島民約1500人ですから、島民の半数がこの日の攻撃で死んだのです。
大本営はこの方針を「軍官民共生共死ノ一体化」と呼んでいたそうです。僕は「共死」という言葉がこの国の戦争方針の中にあったことを今回初めて知りました。

後に、生き残った当時16歳だった女性はこの時のことをこう証言しています。
「靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って、もう全部死なないといかんと思うから何でもないですよ。」
別の当時17歳の女性はこう述べました。
「天皇のために死になさい。国のために命を捧げるのは当然だと、捕虜になるということは一番恥ずべきことだと。小さい時から言い聞かされそういう教えしか分からなかった」・・・。

続く