守田です。(20140620 22:00)

明日に向けて(871)でアレン・ネルソンさんの話をご紹介しました。「憲法9条はいかなる国のいかなる軍隊より強い」と日本中を駆け回って講演してくださった元米兵の方です。
僕はネルソンさんの話は前から知っていましたが、あらためて彼の語ったことに耳を傾けたのは、6月11日に行われた「京都被爆2世3世の会」に参加してのことでした。
ネルソンさんが1996年に沖縄を訪れて覚醒され、その後の13年間、1200回にも及ぶ講演を行ったときに、彼の通訳として多くのところに同行し、彼の心を私たちに伝え続けてくださった平塚淳次郎さんが、この日、講演してくださったのです。

平塚さんのお話は前半と後半に分かれていました。後半がすでにご紹介したネルソンさんとの触れ合いについてでしたが、前半は被爆2世で白血病で亡くなった峯健一君のことでした。平塚さんが教師として担任された生徒さんでした。
平塚さんは峯君との触れ合いの中で大変、辛く、悲しい思いをされ、今も胸の痛みを抱えていらっしゃいます。この日はまずそのお話をしてくださり、それからネルソンさんの話に移っていったのでした。
集団自衛権行使に向けた憲法の解釈変えなどというとんでもない動きに対抗するために、ネルソンさんの話を先にご紹介しましたが、平塚さんがネルソンさんを支えるにあたっての強い根っことなったものこそ、峯君と共に過ごした日々への思いだったのだと思います。

今回は、平塚さんが峯君を担任され、彼が発病し亡くなるまでのことについての発言を、講演会でのノートテークを元に文字化して掲載したいと思います。
原爆の放射線の被爆2世への影響を考察する上でも重要なお話ですが、何よりも、もっともっと生きたかった峯君の思い、お母さんの悲しみ、そしてその場に居合わせて「あのときこうできていれば」と痛みを抱えてこられた平塚さんの痛みをシェアしていただけたらと思います。
僕はこうして受け継がれてきた思いこそが、憲法9条を支てきた実態だと思います。平塚さんはその上に、ネルソンさんの発言を開花させたのです。
どうか(871)でご紹介したネルソンさんの言葉と共に、以下の平塚さんのお話をお読み下さい。

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京都被爆2世3世の会での講演から
2014年6月11日

ご紹介をいただいた平塚です。
生まれも育ちも宝塚市です。そこから大阪府立高校に通勤していました。
生まれは昭和10年。早生まれです。終戦のときに10歳。終戦直後に新生中学に入りました。「新しい憲法の話」をはじめて中学で読みました。

22歳で英語科の教師になりました。39歳のときに何度目かの一年生の担任になりました。もう40年も前のことです。そこに新入生として入ってきたのが峯健一でした。
彼は入学と同時にサッカー部に入り、毎日、真っ黒になっていました。
ところが7月末に面談でお母さんにお会いしたら、母親が「サッカーを辞めさせてくれ」という。成績を気にしているのだと思って「クラブを辞めたってすぐに勉強する訳ではないですよ」と話したのですが、「本人が体が持たないと言っている。余った時間は全部、勉強をさせるから、なんとか先生からクラブ側に言ってほしい」と言うのです。それでグランドにいたキャプテンを呼んで、その話を伝え、クラブを辞めさせました。
すると健一はその分、猛烈に勉強をしました。サッカーをしているころは勉強などできなくて、中間考査でビリだったもの7番目にあがりました。もの凄く頑張っていました。

ところが11月27日に初めて学校を休みました。膝が痛くて歩けないという。正直、そのときはそれぐらいなら我慢してくればいいのにと思いました。
ところが期末試験になって初日はとても良い点を取ったのに、その夜に膝が猛烈に痛みだし、救急病院に入院してしまい、翌日から試験に出られなくなりました。それで12月15日に初めて見舞いにいきました。

そこでお母さんの峯スミ子さんと話をしました。健一とは母一人、子一人。妹の純子がいたのですが、2年前に白血病で亡くなっていました。小学校を出て、中学の入学式を待つ間に入院して、あっという間だったそうです。
さらに父親も、骨肉腫で亡くなっていました。ただし父親は戦争に行っていて、長崎にいたわけではないので被爆者ではありません。
お母さんのスミ子さんには被爆者の自覚はありませんでしたし、被爆者手帳も持っていませんでした。健一の病気もそれまで診てきた医師からリュウマチ熱と聞かされていました。
ところがそこで初めてスミ子さんが8月9日に長崎にいたことを聞きました。郊外にあった宿という町の矢上(やがみ)国民学校5年生で、ちょうどその日は普賢岳に松ヤニを取りにいっていました。戦闘機の燃料です。

その時、長崎の方向に閃光が走り、先生の「伏せ」という号令で地面に伏せました。気が付くと空から「灰」が振ってきていたそうですが、本人は被曝下と言う自覚はありませんでした。
ところが夜になっても長崎市内の鉄工所で働いていたお兄さんが帰ってこない。それで8月11日に市内にお母さん(健一のおばあさん)とお兄さんを探しに行きました。10歳の時で、丸一日、爆心地をさまよってしまいました。
お兄さんはその日の夜は見つからなかったのですが、翌日に再会できました。お兄さんは原爆の爆発時に鉄工所の厚い鉄板の下にいたので、カスリ傷ひとつおわず、救助活動にあたっていました。
その後、18歳から体調がおかしくなり、結婚どころではありませんでしたが、やがて人に勧められて結婚。1957、8年と健一、純子を産みました。1964年、東京オリンピックのときに大阪に出てきました。夫は1967年に亡くなり、1972年に純子を失っていました。

話を健一のことに戻します。スミ子さんから話を聞いたあと、不安が沸き起こって院長先生にその話をしました。するとすぐに血液検査が行われ、12月28日に白血病の疑い濃厚という検査結果が出ました。
1月8日、三学期の始業式の時に、私とスミ子さんの弟さん(健一の叔父)が呼び出されて話を聞きました。精密検査をしたところ、白血病の中でもとくに予後が悪い単球性白血病だと分かったのだそうです。
放置すればあとひと月の命しかない。しかし医師として最善の治療をしてあげたい。お金のことは心配しないでくれと言われました。

その後、抗がん剤による治療が始まりました。血液も入れ替えました。私は毎日のように学校帰りに見舞いに行きましたが、健一は高熱で目が見えなくなりました。鼻や歯茎からも絶えず出血しました。
それでも1、2月はなんとか危機を乗り越えましたが、3月1日にまた呼び出しがかかりました。
「治療の結果、健一は最高の経過を辿ってきている。これまでの段階では危機を乗り越えてきた。しかしこの先、全快はあり得ない。おそらく中学卒業はできないので、覚悟してくれ」と言われました。
「しかし本人はもちろん、お母さんには仮検査の結果にも強いショックを受けたので知らせない。二人の胸の内にしまって協力して欲しい」と言われ、大変な秘密を背負い続けることになりました。

健一は春休み中もずっと入院していて、3月29日に退院しました。しかし入院の途中から、勉強に行きたいと言い出して、病院から予備校の春休み講座に通っていました。
学校の方も特別のケースとして進級を認定し、4月より2年生になりました。学校は私の疲れも考えて、違う教員を担任にしてくれました。健一は体育の実技だけは出ずに勉学を続けていました。
そんな時に学校の校長に言われました。この校長は広島の出身で被爆者でした。がんとして被爆者手帳をとらないで、自分の力で生きてみるといっていた方でした。
その校長が「平塚さん。峯は治るよ」と言ってくれました。ずっと観察していてそう校長が語ってくれたので、藁にもすがるような思いで奇跡を信じていました。

ところが6月19日。体育を見学していた彼が鼻血を出しました。「卒業は無理だと聞いていたけれども、こんなに早く再発するとは」と暗澹たる思いになりました。
それでも健一は検査の一日だけ休んであとは皆勤を通しました。7月12日、期末考査試験を最後まで受けましたが、無理をしていたのでしょう。
その日の夜中に痛みだして再入院。今回は抗がん剤も効きませんでした。そのまま入院を続け、奇しくも30年目のヒロシマの日、8月6日に亡くなりました。

遡って6月にスミ子さんから電話があり、「一度、話を聞いて欲しい」ということで喫茶店で会いました。母と子の生々しいやりとりの話でした。
たとえばスミ子さんが「もう薬飲んだの?」と聞いたら「お母ちゃん。薬が効くと思ってんの?」という答えが返ってきたそうです。妹のことで察知していたのです。
勉強に打ち込む姿に「無理せんときや」というと「勉強ができんくらいなら死んだほうがましや」と言うのだそうです。

入学した時に、本人の将来の希望を書かせるのです。そのときは「京大の法学部に入って政治家になるんだ」と勇ましいことを言っていました。
ところが春休みに私の家に遊びに来た時は、ちょうど公害が問題になっていたころで「先生、僕は京大の工学部に入って、公害を退治する学者になってやる」と言っていました。
その時は黙って聞いていましたけど、本当に勉強を頑張っていました。

7月末に病院に行ったときに、本人からこう言われました。「先生、本当のことを言うてくれ。純子とまったく同じだ。もうあかんと思う」と。
しかし「本当のことは(病院の)先生に聞いてくれ。先生も知らん」と責任逃れをしました。
その後、彼は家まで自転車で帰って、自分の本を持ってきて、「死んだら棺桶にいれてくれ」と言ったそうです。

健一が亡くなった日は、学校行事で大阪を離れていて、その場には居合わせませんでした。母親にきくと、健一はやつれていながら、下腹部がはれていました。
リハビリのための自転車が病室にあり、その日も汗だくになって一生懸命に動かしていたそうですが、倒れて、抱きかかえられて病室に戻って、そのまま息が絶えたそうです。
あのとき、「よう頑張った」と言うてやれば良かったのに「先生に聞け」だなんて嘘を言ってしまって、未だにこの子の写真を見るたびに辛いです。

もうひとつ話があります。11月11日に学校の創立記念日がありました。その日が健一の100か日の法要でもありました。
長崎からの親せきが来て「いい先生に担任してもらって、健一は幸せでした」と型通りの挨拶をされるのですが、母親は違ったのですね。
「先生にも(病院の)先生にも嘘をつかれた。私には何も知らせてくれなかった」と言われました。・・・そういうことがありました。

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峯君の死後、深い落ち込みから立ち上がった平塚さんは、その後に彼のことを書いた英文パンフレット”DEATH OF A HIGH SCHOOL BOY”を製作され、各地の教員研修会で発表されました。
さらに国際会議に招かれて、世界に峯君のことを伝えられました。この日の講演でもそのことが続けて語られていきましたが、ここでは省略させていただきます。
それでもここまで読んで下さった方には、こうした平塚さんの思いが、ある種の必然をもって、アレン・ネルソンさんとの日々につながっていったことをご理解できると思います。

平塚さんはネスソンさんの死後に「アレン・ネルソン平和プロジェクト」を創設され、ネルソンさんの話を編集したDVD『9条を抱きしめて』を製作し、普及活動を行われています。
ぜひ、以下のサイトにアクセスしてください。
http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida+Allen_Nelson/

最後に、峯君との日々の痛みを、力強い人類愛へと昇華されて平和のために歩み続けてこられた平塚淳次郎さんに、深い尊敬と感謝を捧げます。