守田です。(20130628 15:30)

6月15日に京都市の龍谷大学で行われた企画、「聞け『ふくしま』の声?今、そして未来(あした)のために」の報告の2回目です。
今回は、南相馬市から来られた橘満さんの発言をご紹介します。

実は今回は、とくに相馬地区からということで、橘さんと青田恵子さんをお呼びしたのでした。福島県の中でも浜通りの方の思いをみなさんにご紹介したかったからです。そのため当初は企画の表題に相馬、ないし浜通りの名をいれることも考えにあったのですが、中通りの福島市から避難している加藤裕子さんや、福島大学准教授の荒木田岳さんにご参加いただくこともあり、とくに相馬の名は入れませんでした。
でも「相馬の思い」を知っていただきたいと考えて、相馬に非常に古くから行われてきた伝統行事、相馬野馬追のことなどを橘さんに語っていただき、また企画の最後を、青田さんの相馬弁で書かれた詩でくくっていただくことにしました。会場のみなさんと、相馬の痛みを分かち合いたいとの思いは果たせたのではないかと思っています。

ここで橘さんの発言をご紹介しますのでぜひお読みください。そののちに僕のコメントを添えたいと思います。
なお以下から発言の動画も見ることができます。冒頭が加藤さんの発言、橘さんの発言はその次です。

ふしみ「原発ゼロ」パレードの会
http://nonukesfushimi.blog.fc2.com/blog-entry-152.html

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2013年6月15日
橘満

一昨日、南相馬市からこちらに向かいまして、今日、みなさまの前でお話できるようになりました。あまり人の前で話したことがないので、とりとめのない、脈絡のない話になるかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
私は震災後、どうして京都と縁ができたのかをお話したいと思います。

3月11日に、南相馬市から20キロぐらい離れた相馬市というところで、兄と一緒に仕事をしていました。仕事は昔の甲冑、鎧を直す仕事です。
なぜそういう仕事をしているのかというと、福島県の浜通りには、相馬野馬追(そうまのまおい)というお祭りがありまして、500頭ぐらいの馬に乗って、行列をしたり、競馬をしたりします。それの鎧を直す仕事です。全国的にも大変珍しい仕事ではないかと思っています。

相馬市でその仕事をしていたときに、すごい地震にあいまいして、仕事をやめて、無我夢中で15キロぐらい離れた自宅に戻ったわけです。
何も交通機関がないので、自転車で15キロぐらい走ったわけですが、家にたどり着いたら、女房は鹿島区というところで仕事をしていたのですが、姿が見当たらない。まったく行方不明になっていたわけです。お互いに心配していたと思います。
その日はしょうがないのでコタツに潜り込んで一人で寝ていたわけですが、あくる日になって避難所が開かれているということで、その避難所で女房と会うことができました。お互いににやっと笑いました。

避難所は中学校に設定されていたので、そこで一緒に暮らすことになりました。そこの避難所には150人ぐらいの人が押し寄せて、たぶんみんな、2、3日すれば帰れるのだろうなと思っていました。
情報が何もなかったのですが、役場の職員の方が避難所のお世話をしてくださいまして、12日あたりになって原発が危ないということで、14日にこの避難所を引き払って別な場所に移る、行くところがない人は避難所と行動を共にする、あるいは自主避難をするということになりました。
私たちは娘がこちらの長浜に嫁いでいるものですから、娘が原発が危ないからということで福島まで迎えに来てくれて、娘夫婦の車に乗せてもらって、15日に避難所を後にしました。

本当に避難所にいた人は2、3日すれば自宅に帰れるんだろうなと思っていました。その瞬間ですが、原発に翻弄されてあちこちに移動するような生き方を選ばされたというのが本音ではないかと思います。
どうしたらいいのかわからないのですね。明日のことはどうしたらいいかわからない。ただ命があっただけでも儲けものだなあというような気持ちでいたと思います。
そして16日から滋賀県の長浜市で避難生活を始めることになりました。不思議な縁なのですが、どういうわけか娘が福島から嫁いでいたので、震災前は女房とふたりで、のんびり北陸道を旅しながら、一回期待ななんていう話をしていたのですが、そんなロマンチックな思いなどなくて、急に強制拉致されたみたいな形でしたね。

行くあてもないので、そこにいましたが、避難するときに猫を逃がしてきたのですが、猫が生きているという情報を得まして、猫救出大作戦を私一人で行いました。それが5月だったのですが、その際に守田さんと初めてお会いしました。
守田さんがピースファームという私の友達のところで、放射能に関するお話をするということで、それをぜひうかがいたくて、そこにいったわけです。放射能については何もわからないわけです。
守田さんにいろいろ詳しい話を聞かせていただいて、放射線がどれほど危険なものか、人間にどれほど害を与えるものかということをつまびらかに説明していただきました。それで猫を連れてまた滋賀県に戻りました。

8月に友達から岐阜県高山市で子どもたちの保養プロジェクトがあるということを聞いて、そのお手伝いに行こうということになりました。滋賀県から私も駆けつけたわけです。福島県の福島市や郡山市から10人の子どもが来て、高山市の農家の方が一生懸命に世話をしてくださって、10日ぐらい行ったプロジェクトでした。
福島ではプールにいって泳ぐこともできない、外を駆け回ることもできない。そんな状況だったのですが、高山市ではみんな伸び伸びと泳いだり、駆け回っている姿を見ました。
最終日に、子どもたちが福島に帰るということになって、バスに乗り込んだわけですが、そのとき・・・情けなくて・・・大人として・・・またこの子たちを福島に返す・・・。号泣しました。福島が危険だということはわかっているわけです。非常に情けなかったです。

それで高山は終わりましたが、守田さんのブログを見ていて、「あすのわ」という団体があって、滋賀県で保養キャンプをするということがわかりました。それで「あすのわ」とつながりました。これも守田さんのおかげです。
次の年の4月に高島市でキャンプをやることになりました。やはり福島では子どもたちは伸び伸びと駆け回ったりすることが本当にできないのですね。それで高島に来て、みんな子どもが喜んで駆け回ったりして、伸び伸びと野外活動をして、そういう状況を見せてもらうことは、大人としてずいぶん力をもらえることです。そのことを気がつかせてくれましたね。子どもが。
それで高島市では私は3回、参加させていただきました。本音で言うと、お世話をするのではなくて、子どもから力をもらえる。大人が力をもらえるということです。それで大人がしっかりしなければいけないなと思いいたりました。できることはやってやろうと。

キャンプを世話してくださるみなさんも、食べ物には気を使うし、子どもを縛り付けるようなやり方ではないし、そういうことからも大変、学ばさせていただきました。
私も滋賀県に双子の孫がいるわけですが、孫もキャンプに顔出しして、一緒に遊んでもらったりして、すごい仲間意識というものができて、その子達、双子にとっても勉強になっているような気もします。
私も本当に何もできることはないのですが、子どもを何とかしたいという思いがあります。もちろん私は政治家でもありませんし、一般市民ですが、そういう思いをずっと抱いていきたいと思っています。これからも夏にキャンプの計画がありますし、冬休み、春休みにやるでしょうから、そういうときに参加したいと思います。

話は変わりますが、来年、相馬野馬追というお祭りが開催されるわけです。私は40年ぐらい、馬に乗ってそのお祭りに参加してきたわけです。1070年ぐらい続くお祭りなのです。それを絶やしたくないという野馬追に参加しているみなさんの思いを感じつつ、ただ心配なのは、参加する方も観客の方も、ある程度の被曝はあるのではないかと思うことです。
さきほど福島で東北六魂祭というお祭りがあって、25万人ぐらいの人出がありました。あれは、あまり良い言い方ではないとは思いますが、人寄せパンダのようなところもあるのではないかと思うのです。福島は復興しているから大丈夫だという宣伝に使われているような気がします。相馬野馬追もそういう面が無きにしも非ずだと思います。
ただこれは私個人の考えですが、1070年続いたお祭りを原発問題で途絶えさせるわけにはいかないのかなという思いもあります。

昔、先人から聞いた話ですが、相馬野馬追は戦争中も続けられていたそうです。戦争中に戦争に行った若者が帰ってきた時に俺らの国の祭りが無くなったら情けないということで、馬は2頭ぐらいで、行列したこともあるそうです。行列している間に、米軍の飛行機から機銃掃射を受けて、命からがら逃げ帰ったなんていうこともあります。
先人はそういう風にして祭りを残したかったのだなと、そういう思いも考えながら、1070年続いているうちの、私なんか40年といってもほんの一瞬の参加かもしれません。でもはやり希望としては未来の人に続けてあげたいなと思います。これから何年先、続くか分かりません。ただそんな願いが、放射能で断ち切られる恐れも無きにしも非ずだと思います。
そんなわけで、来月の21日から3日間、お祭りがありますけれども参加します。去年もこちらの方に馬の友達ができましたので、その人と一緒に見学に回りました。震災の年は鎮魂も意味も込めて私も参加しました。通常は500頭ぐらいでるのですが、一昨年は80頭しか出ませんでした。80頭しかでなくても、心に残るお祭りだったと思います。

最近、京都に縁ができまして、女房は生まれがここのすぐ近くの藤森なのです。藤森から遠く流れて福島に嫁いで、またこっちに戻ってきたという不思議な縁もあります。
滋賀県の長浜市にいるのですが、長浜市や高島市、あの辺は自然が豊かで、何度、慰められたか分かりません。風景もそうですし、人の心もそうです。最近、お寺を回ると「五輪の塔」というものがあります。土と木と水と風と空、その5つの要素がすべて入れ込んだ言葉だと思います。命の循環を表す言葉ではないかと思っています。
そういうものが京都や滋賀の古いお寺などにあります。ぜひその5つの循環を、人々の心に刻みながら生きていただきたいなと考えています。これから何度も京都にも来て、お寺にお参りしようかと思っています。またお会いできることを楽しみにしています。とりとめもない話で申し訳ありませんでした。よろしくお願いします。

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発言の録音起こしは以上ですが、ご覧のように橘さんは、お話の中で、僕との出会いについても触れてくださいました。僕も相馬の方々との出会い、とくに橘さんとの出会いについて、以下の記事に詳しい内容を載せてあります。

明日に向けて(652)ふくしま・相馬の思いを胸に
http://toshikyoto.com/press/720

今回の橘さんの発言からは非常にたくさんのことを考えさせられます。とくに最後の方に語られた相馬野馬追については胸を締め付けられるばかりです。1070年続いたお祭りを、未来の人のために残してあげたい。しかし参加する側も、観客の側も被曝の影響を免れないだろう。さらに福島復興キャンペーンに使われてしまう面もある・・・。なんとも深い苦悩だと思います。
「そんな危ないことはやめるべきた」と、外から言うのは簡単ですが、何せ、先人が、米軍機の機銃掃射を受けてまで、守ってきたお祭りです。こうした苦悩を作り出した国と東電にあらためて深い憤りを感じるばかりです。
同時にこれこそが原発の事故が生み出すものであることを本当に多くの人々に知っていただきたいと思います。橘さんが指摘されるとおりやはりお祭りの開催には危険がありますから、それでも深い思い出参加される方、観られる方には、どうか可能な限りの防備をしていただきたいです。土埃を吸わないようにすること、服についた埃を後できちんと払うことが核心だと思います。すべてが終わったあとのうがい、手洗い、洗髪なども徹底していただきたいです・・・。

もう一つ、橘さんが語ってくださったのは、保養キャンプの意義です。これを読むと子どもを被曝から守るだけにとどまらないさまざまな効果がキャンプにあることがお分かりになると思います。
子どもたちに関わると大人はエネルギーをもらえる。それは私たちの世の中の仕組みの基礎なのではないかとも思えます。パワーをもらったとき、私たち大人は、ああ、この子どもたちのために自分がしっかりしなくてはいけないと思わされる。いつの日もそうやって子どもたちに背中を押され、大人たちが世の中を守ってきたのかもしれません。
そんなことを考えつつ、ぜひこの文書を読んでいる各地のみなさんも、それぞれの地域の保養キャンプにご参加ください。被災地の方もキャンプの成功にぜひ手をお貸しください。各地から大人の私たちの力を集めて、子どもたちを守っていきましょう。それは私たち自身を守ることにもつながっていきます。

すでにお伝えしたように、橘さんと僕が参加した、びわこ123キャンプはこの夏にも開催されます!7月22日(月)~8月22日(木)という長丁場です。詳しくは以下をご覧下さい。

びわこ123キャンプ Facebook
https://www.facebook.com/Biwako123camp

またこの企画に向けて、滋賀大学経済学部で7月2日17時45分より、にお話会が開かれることになり、メインコメンテーターとして僕が内部被曝のお話をすることになりました。
びわこ123キャンプ代表の藤本真生子さんも参加されます。お近くの方、お越し下さい。以下に案内の掲載されたHPのアドレスを貼り付けます。

被災地応援プロジェクト「福島の子どもたちのために、私たちができること」
http://www.econ.shiga-u.ac.jp/main.cgi?c=28/2:20

相馬の痛み、また「子どもをなんとかしたい」という思いをみんなでシェアをして、ともに、前に、進んでいきましょう!