2013.04.03

明日に向けて(652)ふくしま・相馬の思いを胸に

守田です。(20130403 23:30)

最近、福島県の中の相馬市、南相馬市の方たちと僕との縁が不思議にも次々と深まってきました。その中で、相馬の方たちの思いがさまざまに見えてきました。
今日は、福島県浜通り・・・相馬の方たちの痛みをみなさんにシェアしていただきたくてこれを書いています。

まず冒頭に、滋賀県で昨年末に行われた集会で、相馬の方が読まれた詩をご紹介します。

*****

『拝啓関西電力様』
青田 恵子

エアコン止めで、耳の穴かっぽじって
よーぐ聞け。
福島には、「までい」っつう言葉があんだ。
までいっつうのは、ていねいで大事にする
大切にするっちゅう意昧があんだ。
そりゃあ、おらどこ東北のくらしは厳しかった。
米もあんまし穫んにぇがったし、
べこを飼い
おかいこ様を飼い
炭を焼き
自然のめぐみで、までいにまでいに今まで
暮らしてきた。
原発は いちどに何もかもを
奪っちまった。

原発さえなかったらと
壁さ チョークで遺書を残―して
べこ飼いは首を吊って死んだ。
一時帰宅者は、
水仙の花咲く自宅の庭で
自分さ火つけて死んだ。
放射能でひとりも死んでないだと……
この うそこきやろう 人殺し
原発は 田んぼも畑も海も
人の住む所も
ぜーんぶ(全部)かっぱらったんだ。
この 盗っ人 ドロボー
原発を止めれば
電気料金を二倍にするだと………
この 欲たかりの欲深ども
ヒットラーは毒ガスで人を殺した
原発は放射能で人を殺す
おめえらのやっていることは
ヒットラーと なんもかわんねぇ。
ヒットラーは自殺した

おめえらは誰ひとり
責任とって 詫びて死んだ者はない
んだけんちょもな、おめえらのような
人間につける薬がひとつだけあんだ。
福島には人が住まんにゃくなった家が
なんぼでもたんとある
そこをタダで貸してやっからよ
オッカアと子と孫つれて
住んでみだらよがっぺ
放射能をたっぷり浴びた牛は
そこらじゅう ウロウロいるし
セシウムで太った魚は
腹くっちくなるほど 太平洋さいる
いんのめぇには、梨もりんごも柿も取り放題だ。
ごんのさらえば
飯も炊けるし、風呂も沸く
マスクなんと うっつぁしくて かからしくて
するもんでねえ
そうして一年もしたら
少しは薬が効いてくっかもしんにぇな

ほしたら フクシマの子供らとおんなじく
鼻血が どどうっと出て
のどさ グリグリできっかもしんにぇな
ほうれ 言った通りだべよ
おめえらの言った 安全で安心な所だ。
さあ、急げ!
荷物まどめて、フクシマさ引っ越しだ
これが おめえらさつける
たったひとつの薬かもしんにぇな。

【註】相馬弁の解説
①んだげんちょも…だけれども
②腹くっちく…腹いっぱい
③いんのめえ…家の前
④ごんの…焚き物にする小枝や落ち葉
⑤うっつぁし…うっとうしい
⑥かからし…わずらわしい

*****

みなさん。どう思われたでしょうか。僕は深く胸を打たれました。

僕がこの詩を知ったのは、兵庫県姫路市での避難者公聴会の席のこと。南相馬市から兵庫県に避難している女性が、相馬弁で読み上げてくれました。

ちなみに相馬は、福島原発事故で、もっともてひどく踏みにじられてしまった地域の一つです。
ここから滋賀県に避難されていた方に橘さんというご夫妻がおられます。僕は2011年5月に、宮城県角田市のピースファームというところに行って講演を行った時に初めてお会いしました。

このときの宮城への訪問は、僕にとって福島原発事故後、初めての東北訪問でした。きっかけは京都で「被災地の方に使って欲しい」と四駆自動車のカンパがあったことでした。僕はその頃、物資を送って支援していた宮城県気仙沼市に、自ら運転して車を届けにいくことにしました。
その際、東北各地で放射線に関する話をする場を設定していただけたのですが、その会場の一つが宮城県角田市のピースファームでした。ここに自然農や有機農を営んでいる方たち、林業家や陶芸家、炭焼き家、また福島県浜通りの、双葉町や南相馬市から避難中の方などが集ってこられました。
ピースファームにつくと、人々が手に手にガイガーカウンターを持って待っていました。僕が話の輪の中に入っていくと、いきなり「守田さん、俺ら、ここで農業やっててもいいだべか」と問われました。私が思わず「ウッ」とつまると、「あ、つまってる、つまってる」と笑い声が起こりました。

講演での質疑応答も白熱しました。参加していた双葉町の宮大工棟梁のお連れ合いがこう語りました。「守田さん。私は故郷に帰れるのが五割、帰れないのが五割だと思っています。どちらですか。はっきり言ってください」。
僕は息を飲み込んで「申し訳ありません。帰れないと思います」と答ました。すると彼女はこう語ってくださいました。「そう、おっしゃってくだされば、私たちも新しい人生にむけて踏ん切りがつけられます。はっきり言ってくださってありがとうございます」。今でも忘れられないその一言をその場の全員が噛みしめました。

続いて農家の方たちから「守田さん。放射能と、抗生物質とどっちがやばいべか」という質問が出ました。「濃度でしょうね」と僕。「そりゃそうだなあ。測らないとわかんねえな」との答え。僕は「まだここに何がどれだけあるか分かりません。今、大事なのは測ることです」と語りました。「それなら百姓があっちこっちで測定器をもってはかるべか」という声があがりました。
実はその後、ここから市民測定所が二つ誕生していきました。一つは村田町に農場を構える三田常義さんが代表で立ち上がった「みんなの放射線測定室てとてと」です。丸森町、角田市、川崎町、村田町、七ヶ宿町の農家や林業家がここに集って設立が進められました。
もう一つの測定室は、自然農を営む仙台市太白区の石森秀彦さんが立ち上げた「小さき花・市民放射能測定室です」。2つの測定室ともに、今なお、元気な活動を続けています。

このときの集まりの場に、南相馬市から避難していた橘さんも参加されました。橘さんは放射能の影響を知り、その後も娘さんのいる長浜での長い避難生活を続けられました。
しかし甲冑師である橘満さんは、昨年秋に南相馬市に戻られました。伝統行事である相馬野馬追に、甲冑師が欠かせないからです。この橘さんを取材した記事が東京新聞(および中日新聞)に載りました。以下をご覧下さい。

<犠牲の灯り 第2部「飯舘 女たちの哀歌」> 読者からの反響
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/akari/list/CK2013032102000212.html

滋賀県にいるとき、橘さんは、福島や東北・関東から子どもたちを招いて保養キャンプを行っている滋賀の人々と合流し、夫妻で積極的にお手伝いをしてくださいました。
満さんが南相馬に変えられるときに、キャンプの会場であった滋賀県マキノ町の民宿一二三(ひふみ)館で、橘さんとのお別れパーティーが開かれ、僕も出席しました。そうしたら橘さん、僕の活動を支援したいとカンパを手渡されるのです。・・・泣きそうになりました。

2012年5月、僕は南相馬市の小高地区を、矢ヶ﨑さんとともに調査で訪れました。小高地区は、南相馬市の最も南の地区、原発からの距離は10キロから20キロほどで、4月まで立ち入り禁止だった区域です。立ち入りができるようになったといっても、津波被害もそのままで、ただ心が痛むばかりの状況でした。
その南の端にいくと浪江町との境界線が出てきて、そこからは未だ立ち入り禁止になっていました。福島原発からわずか10キロの地点でした。
そこには吉沢牧場があり、政府による牛の屠殺命令に抵抗した吉沢さんが飼っている牛たちが、たくさん、大地の上にいて、ゆったりと草をはんでいました。牧場入口の土の線量をはかると、毎時10μシーベルトを超えていました。

僕はなぜか遠くにいる牛たちに「おーい、おーい」と叫んでしまいました。なぜそうしたのかよくわかりません。声は届かなかったようで、牛たちの反応はありませんでした。
最近、ジャーナリストの森住卓さんが、飯舘地区に遺された馬たちの健康に大きな異変が出ていることを発表されています。原発により近いところにいるあの牛たちを思うと胸が痛くなるばかりです。
同時にその時僕は、「今、4号機が倒壊したら、ここにいる僕も、相馬の人々も、とても逃げられないだろうな」とそんな思いがしました。先日の原子炉冷却装置のダウンのとき、この地域の人々はどんな気持ちだったでしょう。このことにも憤りが募るばかりです。

そんな思いを深めている時に、さらに相馬とのつながりができました。すでにご紹介しましたが、シンガポール人のDion Tan君が撮ってくれた”Kakusei”というフィルムに即してでした。この冒頭に、相馬市から秋田市に母子避難している阿部知美さんが出てきます。彼女はあくまでも相馬に残ることを主張した息子の輝(ひかる)君を分かれて秋田に逃れました。
フィルムには続いて輝君自身も登場しています。彼は自分一人で助かりたくはない。みんなで助かりたい。そうあるべきだと強い気持ちをもって生きています。相馬の人々への愛が深い。身体をはって、大人社会が生み出した理不尽に抵抗してもいるように僕には感じられました。
映像には僕も登場させていただいて、矢ヶ﨑さんが書いた図を手に、内部被曝の危険性を説明しています。

その知美さんと、輝君と、その後につながることができました。実はこの縁も2011年5月の東北訪問がきっかけでした。気仙沼に行こうと思ったとき、僕が考えたのは、「意地でも福島原発によって被曝させられたくない」ということでした。それで僕は、京都から北陸に向い、敦賀港からフェリーにのって秋田港を目指しました。実はこのとき、なんと敦賀原発が放射能漏れ事故を起こしいたのですが。
その後、秋田市上陸とともに秋田大学で迎えていただいて東北での初めての講演をしたのですが、このとき迎えてくださった方の一人が、Dion Tan君と知り合い、彼の映画作成の手助けをし、僕のことも紹介してくださった村上東(むらかみあきら)さんでした。阿部さんたちとのつながりも、村上さんが媒介してくださいました。

阿部さんとやりとりしたところ、実は彼女と輝君、弟君は、3月11日の地震と津波のあと、南相馬市小高区のお兄さんの家に身を寄せていたのだそうです。阿部さんは枝野長官の発言をすっかり信じてしまい、濃密な放射能が降る中、何かと動いてしまったといいます。
その頃、南相馬市のある病院の庭ではガイガーカウンターの針が振り切れていました。やがて夜になり原発周辺に避難勧告が出されました。その頃になって小高区の人たちは、ようやく危険を察知し、車で脱出をはかったそうです。たくさんの車が、猛スピードで南を目指して走っていったとか。阿部さんたちも、お子さんたちが「早く、早く」と泣き叫ぶ中、脱出されました。

そんな話を聞いて、再び三度、あの事故のときの対応に憤りがこみ上げてきました。東電は実は当日からメルトダウンが始まっていることを知っていました。そして自分たちの家族は真っ先に逃がしていました。家族を逃がしたことが悪いのではありません。東電は自社が家族を逃がしていることを、社会に大きく告知すべきでした。それをしなかったのはとても大きな罪です。
実際には真相が告げられないまま、枝野官房長官の「にわかに健康に被害はない」という言葉だけが流れ続けました。放射線防護の必要性などまったく説かれず、多くの方が避けられる被曝をしてしまいました。しかもきちんとした記録すらも残っていません。残されているのは人々の大きな不安だけです。

そんな風に踏みにじられた浜通りの人々。しかもそこからの避難の過程ではたくさんの方々が命を落としています。東京新聞の統計で、原発事故による避難が原因で亡くなった方は1000人を超えることがわかっていますが、その多くが浜通りの人々です。しかもこの統計には、放射能の被害はカウントされていません。どれほどの被害を受けたのか、まだ分からないのがこの地域の人々なのです。
しかも、今なお、線量が高いところが広範囲に広がっているのに、避難地域に指定されたところ以外では、避難の権利が認められず、むしろこれらの村々への帰還が奨励されています。大きな圧力を伴ってです。

相馬の人々、浜通りの人々、輝君や彼が愛する地域の人々をいかに救うのか。それは私たち全体に課された課題です。浜通りの人々を見殺しにして、わたしちの真に豊かな未来の展望はありません。理不尽に人が虐げられていることを見過ごすことは、その理不尽な仕打ちに加担することでしかないからです。そしてそのことが続く限り、私たちの誰もが理不尽な仕打ちにあう可能性が広がるばかりです。
だからこそ、私たちの誰もが、我が事として、相馬の、浜通りの人々の救済を考える必要がある。そのためにもその地域の人々の心を知ることもとても大事です。そのためにぜひみなさんにKakuseiの知美さんと輝君の言葉に耳を傾けて欲しいです。

さらに現地の調査をもっと深めなくてはならない。そのために僕は、放射能汚染の実態を知りつつ、それでも地域のために南相馬に戻った橘さんにぜひお会いしたいと思っていました。
本当にそんな思いを強めていたある日、郵送で京都で購入している東京新聞の紙面を開いていたら、そこに橘満さんが笑っていました。非常に深い縁を感じました。

実は橘さんをみんなでお見送りをした高島市マキノ町の民宿一二三館では、たった今も、春の保養キャンプが開かれています。明日4日に僕はお招きを受けて講演することになっているのですが、なんとそこに橘さんがご夫妻で参加されていることを知りました。
また僕がスタッフの方に、冒頭に記した相馬の方の詩を紹介したい。橘さんがおられるなら、ぜひ相馬弁で読んでいただきたいとお願いしたところ、なんとこの詩を書いたご本人の青田さんがこの日に参加されることを知りました。

なぜこんなに縁がつながるのか。僕は相馬の方たち、とくにここで無念にも命を落とされた方たちが、僕を呼んでいるのだと思うのです。そうして、必死になって現状を訴えている方たちに、僕を接近させているのでしょう。
「この声を聞きなさい。この声を広めなさい」・・・そう何かが僕の耳元で囁きかけていることを強く感じています。

東京電力と政府は、あの事故によって、1000名以上もの人々の命を奪いました。しかしこのことに対して、誰ひとりも責任が問われていません。こんなことは絶対に放置してはならない!
その思いを胸に、明日、僕はマキノ町にでかけ、参加者やスタッフなど大人の方たちには福島の被曝の現実と放射線防護に必要な知識を。子どもたちには、今何を食べるといいのか、何を食べていけないのかのお話をするつもりです。
お近くの方、どうかご参加ください。みなさんで相馬の、浜通りの痛みをシェアして、ともに前に進みましょう!

以下、企画の案内です。

***

4月4日(木) びわこ123キャンプにてお話します。

現在、滋賀県高島市マキノ町で、東日本大震災支援プロジェクトとしての、子どもたちの保養キャンプが行われています。
このキャンプにお招きを受けて、放射線の話、身体を守るお話をします。
午後5時からキャンプ場の民宿一二三館でお話します。
質疑応答を入れて午後6時半までです。

6時半からは子ども達と一緒にみんなで夕御飯
その後、子どもたち向けに「どんなものを食べるといいの。何を食べてはいけないの」というテーマで30分ほどお話します。

詳しくは実行委員会の井野文さんまでお問い合わせください。
08053517569

びわこ123キャンプ
http://www3.hp-ez.com/hp/biwako123/page1

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