守田です。(20130619 21:00)

すでにお伝えしてきたように、6月15日に京都市の龍谷大学で「聞け『ふくしま』の声?今、そして未来(あした)のために」という企画が行われました。
僕も基調講演とパネルディスカッションの司会で参加させていただきましたが、何よりも、福島の思いを伝えてくださった4人の方のお話が素晴らしく、自画自賛ですが、良い会になったのではと思っています。
今回は、より多くのみなさんに、福島の痛みを分かち合っていただくために、この企画の報告をお届けしようと思います。

今回の企画の主催は、ふしみ「原発ゼロ」パレードの会の方たちなどを中心とする「聞け『ふくしま』の声?今、そして未来(あした)のために」実行委員会のみなさんでした。
多くの方たちが駆けつけて下さるなか、午後1時半すぎに企画が始まりました。 冒頭で実行委員会を代表して龍谷大学名誉教授の三島倫八先生より挨拶をいただき、続いて僕が基調講演をさせていただきました。
演題は「福島の今、原発の今、日本の今」。当日は配布をしませんでしたが、以下のレジュメに沿ってスライドを作ってお話をしたので、ここに掲載しておきます。

1、福島の今
①群馬大学の早川由紀夫先生の放射能汚染マップにより日本の被曝状態を概観
②放射線値の目安について見る
⇒年間1mSvは、1時間0.114μSv 放射線管理区域は0.6μSv
③これを踏まえた上で福島の現状を見る
⇒新幹線が放射線管理区域を走り抜けている
⇒福島駅周辺は全域が放射線管理区域と化している(駅前写真を提示)
④福島や東北・関東に広がっている健康被害について
⇒子どもの甲状腺がん、大人の突然死が増えていることをはじめ深刻な被害が広がっている

2、原発の今
①福島原発が事故収束などまったくしておらず、極めて危険な現状にある
⇒4号機倒壊の場合のシミュレーション=半径170キロ圏の強制避難(新聞記事例示)
⇒3月のトラブル・・・クーリングシステムのダウン
②本来問われているのは、広域にわたる避難訓練!
⇒京都も例外ではない!事故時の東からの避難民の受け入れも含めて、それぞれが備えを固める必要がある!
③汚染水問題が深刻化、トリチウムなどの海洋投棄が行われようとしている
⇒汚染はさらに拡大の方向に、危機は拡大しつつある

3、日本の今
①原発再稼働・輸出に走る安倍政権
⇒前政権以上に原発の現状を無視。再稼働と輸出に向けて全力で走り出した。
⇒再稼働の問題・・・シビアアクシデント対策とは事故前提の運転
⇒輸出の問題点・・・危険なだけではない。核拡散に手を貸す行為!
②構造的暴力としての被曝の強制
⇒20mSv未満の地域の警戒区域を解除し、被曝の強制を強める
⇒これは国民・住民・市民の虐待であり、構造的暴力。第二次世界大戦時の性奴隷問題や、軍隊の構造的虐待などの暴力構造が継続している。
③今こそ、この現状を変えるとき!
⇒国連人権理事会勧告の持つ意味・・・被曝限度を1mSv以下へ!
⇒避難の権利をかちとろう
⇒私たちの安全を私たちの手で実現しよう
⇒未来世代へ、強固な人権と、美しい環境を手渡そう

レジュメは以上です。
・・・30分でしたので、すごい早口でお話することになり恐縮でしたが、必要なポイントはお伝えできたかと思います。

続いて、福島からの声として4人の方が発言してくださいました。
福島市から京都市に避難してこられている加藤裕子さん。南相馬市から一旦、長浜市に避難され、現在は南相馬在住の橘満さん。同じく南相馬市から大津市に避難されている青田恵子さん。福島大学准教授の荒木田岳さんです。
その後に、4人の方に司会の僕が質問をするかたちでパネルディスカッションを行い、最後に、青田さんに、相馬弁で書かれた詩を朗読してもらって企画を締めました。青田さんの詩には会場の多くの方が涙を流されていました。

企画の模様をIWJの方が中継してくださいました。今ならアーカイブが見れますので、どうか以下からご覧下さい。

ふしみ「原発ゼロ」パレードの会
http://nonukesfushimi.blog.fc2.com/blog-entry-152.html

企画の中からみなさんにお伝えしたいことはたくさんあるのですが、今回は、4人の発言の冒頭で話してくださった加藤裕子さんの発言をご紹介したいと思います。どうかお読みください!

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2013年6月15日
加藤裕子

みなさん、こんにちは。

福島県福島市から京都市へ避難移住しました加藤です。本日はよろしくお願いします。
まずは簡単に私が避難に至るまでの経緯をお話させていただきます。

2011年3月15日、原発から北西に60キロ離れていた福島市では、毎時24.24マイクロシーベルトという放射能値が測定されました。
毎時24.24マイクロシーベルト。それが安全なのか危険なのか?私は放射能の知識を得るべく、時間が許す限りパソコンに向かい、情報を収集しました。

安全を主張する専門家、危険を訴える専門家、様々なの情報が飛び交う中、原発技術者であった平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい」という遺言、環境問題の専門家である中部大学の武田邦彦氏による「放射能値のトリック」発言、そして、原子力ムラで孤軍奮闘されながら危険性を訴えてきた京都大学原子炉実験所の小出裕章氏の「生き物と放射能は相いれない」「人体に影響のない被ばくはない」「被ばくのリスクは低線量にいたるまで直線的に存在ししきい値はない」というコメントを重く受け止め、福島からの脱出を決心し、避難先は、チェルノブイリのレポートを受け、原発から300km以上離れた関西と決めました。
しかし、福島県が呼び寄せた放射能の専門家による「安全宣言」、家族や友人から得られない賛同、震災による公共交通機関の停止、さらには、避難先確保に必須であった罹災証明がないことにより、汚染地に留まらざるを得ない状況にありました。
そんな中、食料、水、燃料の調達に東奔西走し、できる限り控えるように言われていた換気扇を回し始めた頃、痛みの伴わない下痢が始まり、不安な毎日を過ごしました。そのときは気づきませんでしたが、これは被曝による下痢であったと確信しています。

2011年4月、ようやく再開された高速バスに飛び乗り、罹災証明なしでも受け入れを表明した大阪を目指しました。
福島から揺られること11時間。早朝の梅田駅に降り立ち、マスクを外し、思い切り深呼吸できた時、「普通の生活の有難さ」を噛み締め涙が溢れたものです・・・。

避難先を確保し、その足で福島へとんぼ返り。1週間で、住居の引き払い、荷造り、学校への挨拶などを経て、トランク3個で、慌ただしく大阪へ避難移住となりました。
避難先の段ボールを片づけ終えた頃、関西でのネットワーク作りと勉強を兼ね、「原発カフェ学習交流会」という集いに参加をしました。そこには神奈川からの避難者がおり、関東の放射能汚染を話す姿に、それまで頭の片隅にあった自主避難への心の揺らぎが確信へと変わりました。
しかし、避難先には放射能からの避難仲間がおらず、それまでの疲労と未来への不安が重なり、心が悲鳴をあげました。軽いパニック障害が起きたのです。このままでは孤独に押しつぶされると出口を探しました。

そんな中、被災者向け保養キャンプの存在を知り、すでに関西に避難した子供も受け入れてくれるというので喜んで出かけました。「福島では放射能の危険を口に出来ない」。そう話す保護者の言葉に、福島での自分を重ね、理不尽な現状に涙が出ました。そして、身近に語り合える仲間の存在こそ今の自分に必要不可欠であることを認識し、福島からの避難者が多く住む京都へのさらなる移住を決意しました。
やっとのことで移り住んだ京都に、不穏がニュースが流れたのはそれからまもなくのことです。京都の送り火に汚染が懸念される岩手陸前高田の薪を使うというのです。黙っていては燃やされる。原発被災者としての使命感から市役所に出向きました。そこには同じように薪の汚染を心配した市民が集結しました。 
結局それは、セシウムとストロンチウム検出により中止となったわけですが、「過剰な放射能ヒステリーにより陸前高田の人々の気持ちを踏みにじった」と京都大文字焼き保存会と京都市がバッシングを受けることになりました。

2011年9月、避難先の商店街を歩いていた時、「脱原発」ののぼりが目に留まりました。翌年の京都市長選挙への立候補者が今まさに街頭アピールを始めるところでした。避難してからかねがね「脱原発」の声をあげたいと思っていた私は、近くにいたスタッフに声をかけ、人生初の応援演説をすることになりました。それから数か月間、街中ではビールケースに乗り、市民集会では檀上に上がり、選挙カーでは手を振りました。しかし、残念ながら当選させることはできませんでした。脱原発の声は人々には届かず、低い投票率に泣いたのでした。
同じ頃、福島の人々の葛藤、汚染の現状、脱原発の必要性を知らせるべく、ツイッター仲間で「脱原発Tシャツプロジェクト」を立ち上げ、「私たちは地球上全ての命を守りたい。原発いらない」というメッセージTシャツを制作し、様々な脱原発集会で「避難者の声」をあげ、Tシャツを広めました。京都はもとより、大阪、東京、福島、ドイツなどからも声がかかり、あっというまに500枚を超える賛同を得ました。
これからさらに多くの人に私たちのメッセージを発信したいと夢を膨らませていた中、「家庭の事情で汚染地に戻らざるを得ない」、「いつまでも避難者という目で見られたくない」、「生活の立て直しで精いっぱい」と、熱い思いでプロジェクトを立ち上げた仲間が、一人、二人と去っていき、6人だったスタッフが半分になり、モチベーションに陰りが出ていますがなんとか継続していこうと考えています。

2012年6月、「原発事故子ども・被災者支援法」が成立しました。やっと被災者が救われる!と期待を寄せたものの、半年が経過しても、具体的な支援策は一向に決まらず、業を煮やした避難者と支援者の手により「避難者がつくる公聴会」を開催。その後、自主避難者有志で「子ども・被災者支援法を考える会/京都」を立ち上げ、街中での署名活動や避難者お話会を開催し、支援法の早期実現を訴えています。
この2年間の体験を通して感じることは、「原発事故は他人事であり、既に収束してしまった過去の事故と捉えている人が多い」ことです。また、自主避難は「引っ越し」や「転勤」と変わらないと捉えており、関西で流通している食材は安全であると信じている人が多いことなど、現状を知れば知るほど、ますます被災者の声をあげることの必要性を実感しています。

子ども・被災者支援法は、避難、残留、帰還 のいずれの自己決定も尊重し、必要な支援を国の責任で行うとする画期的な法律です。本音を言えば福島から全員避難してほしい。しかし、やむ負えず汚染地に留まる選択をした人も尊重しなければならないと思っています。
そのためにも、この「子ども・被災者支援法」の具体的施策が決定し、一日も早く実施されることを願ってやみません。
 
そして最後に、20万人集まっても原発がなくならない。内閣の中で「原発セロ」を閣議決定させようとしたけれどなくならない。それはなぜか? それは「日米原子力協定」があるからだという話を聞きました。
事実、野田内閣が「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、アメリカ政府側が閣議決定を見送るよう要求しました。
しかしこれは2018年に満期を迎えるのだそうです。だから今「日米原子力協定」をどうするかという議論が大切であり、そのためには、この件についても政治家に働きかけることが大切であると。私もそう思います。

そして本日、脱原発Tシャツを数枚持参しましたので、ご賛同いただけましたらご協力をお願いします。
それと、本日のスピーチ内容の詳細を「現代思想」に寄稿させていただきました。大震災特集となっております。数冊持参しましたので、ご興味のある方はお声をかけてください。

発言終わり

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なお企画報告はもう何回か行います!