守田です(20230117 23:30)
● 再び長崎を訪れてきました
みなさま。13日から16日まで長崎を訪れてきました。
今回の訪問のメインの目的は14日の高橋眞司さん講演会への参加でした。とても実り多かったです。
この日は僕が昨年末に行った、夏と秋の長崎訪問の報告会を聞いて下さった、よーちさんが駆けつけて下さいました。
長崎市出身のよーちさんとまずは永井隆記念館を訪れ、その後、浦上天主堂や平和公園の中を歩いてから講演会に参加しました。
この過程について、よーちさんが素晴らしい報告を書いてくださっているのでご紹介します!
「平和の技法」
https://blog.goo.ne.jp/yo_ti/e/5ef257f434992822b49d5ebf623bddd9
よーちさんの素晴らしい報告に触発されて、僕もこの日のことを長崎滞在中に書きたいと思ったのですが、現地でパソコンの入力が進みませんでした。
翌日14日に訪れた諫早の「慰霊の碑」のインパクトが大きかったからです。とても素晴らしく、貴重な訪れだったのですが・・・。
それで長崎のホテルからFacebookに投降したことを、ここにも記しておこうと思います。
● 諫早の「慰霊の碑」を訪れて
まず紹介したいのは、14日の「慰霊の碑」の前から行ったLIVE配信についてです。
アーカイブをご紹介し、そこにつけたコメントを記します。
なおLIVEでは、ご説明をいただいた高屋さんの声が小さくしか収録されていません。申し訳ないです。ボリュームを調整しながらご覧ください。
諫早の「慰霊の碑」の前から
https://www.facebook.com/toshiya.morita.90/videos/1192275614752494
以下、この動画につけたコメントです。
長崎県諫早市を訪れました。長崎被爆二世の会の大宮美喜夫さんに駅でピックアップしていただき「慰霊の碑」へと連れて行っていただきました。
現場には、長崎被災協・被爆二世の会・諫早の高屋忠義会長が待っていて下さり、碑について説明していただくことができました。
長崎市と諫早市は20キロ以上離れています。このため諫早は原爆直爆から免れていますが、長崎市の被爆直後から、被爆者が続々と列車で運ばれてきました。
諫早に海軍病院があったためです。さらに大村の海軍病院に運ばれた方もいたそうです。
しかし搬送中、あるいは諫早に着いてから、多くの方が亡くなられていきました。そのためこの地に遺体が運び込まれ、ここで焼かれ、埋葬されたのだそうです。
その数、400体から500体。
しかしこの場はその後、きちんと慰霊がなされず、「なんだか怖い」ところだったのだとか。
それで前の被災協・諫早の会長だった清水多喜男さんがとにかく慰霊の碑を建てたいと思われた。
その気持ちを受け取った被爆二世の会・諫早のみなさんなどの尽力で、ついに2020年8月に碑の建立に漕ぎ着けたのだそうです。
裏を見てみると、碑の建立のために献金された方のお名前の中に!前の会長の清水さんや高屋さん、大宮さんのお名前がありました。
現場に立ってみると何か清々しいような温かい気持ちが漂っていました。「ああ、ここで眠る方たちに思いが届いたのだな。慰霊がされたのだな」と感じました。
その感想をお話ししたら、実はいろいろななんとも不思議なことがあったことを教えていただけました。この点は動画でご確認ください!
ともあれ素晴らしい訪問になりました!
ここに眠る被爆者のみなさん。案内していただいた高屋さん、大宮さん、そして碑の建立に尽力されたすべてのみなさんに感謝を捧げます。
なんとしても平和を守り抜くために努力し続けることを誓います!
続く
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