守田です。(20130507 23:30)

半断食参加ルポ、今回は橋本宙八さんの最終講義の「命の運転法を学ぶ」をお届けします。半断食道場で私たちが学んだものとはなんだったのか。「命の運転法だ」という内容です。
この中で、宙八さんは、能の達人、世阿弥の語った「道」の学び方について教えてくれました。一言で表せば「守破離(しゅばり)」の順を踏んでいくことだと言います。

守るとは、まずは型を覚え、それに従うことです。マニュアルを覚えて、それを忠実に実行することです。食養の道では、玄米を中心に、5対2対1の割合で、穀物・野菜・肉類などを食べるようにするということでしょうか。
破るとは、型を一度覚えたら、それを破ってみよということです。これまでも繰り返し強調されたように、私たちの命は、一つ一つが個性的で違いがあります。従ってその全てに通用するマニュアルはありません。自分にあったものを探す必要があるのです。そのために型を身につけたそばからそれを破ることが進められているのです。
では離れるとは何か。一番、難しい境地だと思いますが、型を守ること、型を破ること、その双方からも離れて自由自在になっていくこと。何を食べたらいいのかを離れ、あるいはこれは食べてはいけないという縛りも離れ、目の前に何があっても、自由に選択して美味しく食べながら、しかし道を外さない・・・ということなのだと思います。

おそらく、この「離」の境地は、実践的にしかわからないことなのでしょう。しかし「守る」と「破る」は頭でもよくわかります。というかそこまでは何をしたらいいのかが見通せるように思います。
まずは身体に良い食べ物、食べ方とは何かをもっと学び、それを実践していくこと。しかし「これが正しい食べ物で、これが間違った食べ物」と硬直して理解してしまうのではなく、自分の身体と相談しつつ、あるいは自分の身体の声を聞けるようになることを目指し、適切な食べ方を体得していくことなのだろうと思います。

僕はこうした話に非常に強く「自由」を感じました。何より、これなら「肉好き」な人も含めて、一緒になって、「良い食べ方」を見出していくことができるように思うからです。
何よりこのことを放射線防護活動に組み合わせつつ、単に「防護」という受身的な立場を越えて、現在社会の矛盾の一端である食の問題をも能動的にこえていくこと、アートとしての料理と食べ方を身につけていくことができるように思うし、ぜひともその道を歩みたいものです。
僕にとっては、自分の身体の問題を越えて、こうした展望が見いだせたことが最も大きな獲得物です。何というか、腹の底から「ハハハハ」と笑いがこみ上げてくる気がします。命の問題の根本で、積極的にやれることがこんなにもたくさん目の前にあることが知れたからです。

講義の後半では、命の問題の一つの核心である「お産」のことが語られ、さらにその後の人生のサイクルの問題、晩年の問題、そして、最後に宿便を出して死んでいく人間の生の問題が語られました。
この部分は、宙八さんが到達している人生観であるとも言えますが、子どもを持ったことのない僕には、体験的に語れることがありません。ですので、この部分はみなさんそれぞれで味わい、受け止めていただくのが良いかなと思います。
ただ、講義のしめに語られた「この世は素晴らしさに満ちている。その感覚を取り戻すために、食養を進めてください」という言葉に、深く共感しました。僕もこの世は素晴らしさに満ちていると思います。それをさらに味わう感覚を、食と命ににまつわるあらゆることを見つめ直しながら、磨き続けたいと思います。
こうしたことの気づきの機会を与えてくださった、橋本宙八さん、ちあきさん、スタッフのみなさんに、深い感謝を捧げたいと思います。

なお、自分も半断食に参加してみようという方は、以下をご覧下さい。
マクロビアン http://www.macrobian.net/

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半断食道場最終講義 命の運転法を学ぶ(5月3日)
橋本宙八談
ノートテーク 守田敏也(小見出しは守田)

1 危機の中で、命の運転法を学ぶ
この明日香村の道場でみなさんは何を学んだのか。命の運転法だ。
世間の人は、食べ物と命の関係を分かっていない。それで無茶なことをやっている。命とはいったい何によってドライブされているかを理解していない。

みなさんは、明日香村の宿坊で何を食べればアクセルで、ブレーキで、クラッチなのかを学んだ。ここは命の教習所だった。命の運転法を身につけてほしい。
みなさんには仮免許をさしあげたい。本当の運転にはまだまだおぼつかない。日常生活に戻ったときに、自分の命を運転できるか。まだまだだ。
自分の周囲に命の運転法を得ている人がいたら、そうした人に学んで、一日も早く免許を得てほしい。

現代は、高速社会で、東京に住むのはシュレッダーの中にいるようなものだ。社会全体もどんどん環境が悪くなっている。大人としてこうした世の中を若い人に託すのは申し訳ないが、だからこそ命をつないでいく方法を身につけて欲しい。
命はそのようにしてつながれ続けてきた。かつて恐竜たちは氷河期に滅んでいった。そのときにねずみが生き延び、哺乳類が生き延びて、そして人間が生まれた。
その人間も淘汰の時代に入っている。免疫力が弱い人々を大自然が振るいにかけている。これは生物の世界の基本だが、その中でぜひ若い人たちに生き延びて欲しい。
チェルノブイリでもねずみが生き延びている。放射能に強いねずみがいる。危機的な状況は最大のチャンスである。そういう感覚をもった人々だけが生き延びられるチャンスだ。日本のすべてが揺さぶられている。

2 マクロビオティックの意味するもの
「マクロビオティック(Macrobiotic)」という発音はフランス語読みしたもの。英語ではマクロバイオティクスになる。桜沢如一先生が生み出した。
「マクロ」は大きなという意味、同じく「ビオ(バイオ)」は生命、「ティック(ティクス)」は学術。従って、マクロビオティックとは、大きな命の学術、生き方術という意味だ。世界に少し広がってきている。自然食のさきがけ。
日本語では食養法という。昔は食養生という言い方があった。正食とも言えるが、そうすると、あれは悪食だという言葉がでてきてバランスがよくない。それでマクロビオティックになった。
私はそれを実践するものとして、自分たちの屋号として「マクロビアン」という言葉を作ったが、今ではこの言葉は般化している。

食養道ともいう。
日本には道のつくものがたくさんある。華道、茶道、書道、剣道など。
日本は昔から、アジア大陸から伝わってきたものを、体系化するのが得意。それを「道」にする。そもそも「道」とは老子が名づけたもの。宇宙を生み出す土台のことだ。
茶道とは何か。お茶を通して自然や宇宙とつながることを遊ぶ世界。
これに対して、食養道は、食を通じて世界とつながること。食べ物を食べるのは、宇宙の命を取り込む行為。だから「道」だ。食を通して遊び、人生を存分に楽しむ。それがマクロビオティックだ。

3 「道」の学び方1 「守」と「破」
道には学ぶことのプロセスがある。演劇では、能の世阿弥の世界がある。能を身に着けるにはプロセスがある。世阿弥は、守破離(しゅばり)を守りなさいと説いた。
まずは先生に学んだことを型として守りなさいという。それを身に着けないと次には進めない。これが「守」だ。
食養で言えば、お腹が痛いなら梅しょう番茶を飲むなど。マニュアル化されたものを覚え、守ることだとも言える。

ところがそれを身につけたら、次にはそれを破りなさいという!「破」とはそういう意味だ。
命はみんな違う。万人に100%答えを出すマニュアルはない。だから一度学んだマニュアルを壊してみる。そうするとそれが自分の命にあっているかどうかが分かってくる。
ここでもいろいろなことを教えたが、そのすべてがみなさんにあっているかどうかは分からない。それぞれの命が違うからだ。だから自分にあてはめて確かめなくてはいけない。それが破るということだ。

禅の世界で私の好きな言葉に次のようなものがある。「師匠といえどもくそ食らえ」。
「あそこにいい月があるね」と指差してくれるのが先生だが、それを聞いて、月をみて、楽しむのはそれぞれの命だ。
そこでどう感じるかは、先生の領域を超えている。先生に従って月を見つめたら、あとは自分が味わう。そのときには先生は何の役にも立たない。だから破りなさいと言うわけだ。
子どもには反抗期がある。3歳ぐらい。子どもは初めはイエスマンだ。しかし自分の自立心が育ってくると、お父さん、お母さんの言ったことが本当かを確認しはじめる。親にノーと言い出す。それで本当にそれが正しかったどうかを見出す。

マクロビオティックの中には、幅の狭い世界もある。とくに勉強だけでこれを学んでいくと、習ったことをはずすことが怖くなる。命の関わることだからなおさらだ。
海外ではとくにそうだ。先生がナスを食べてはいけなというと、一生食べない。でもちあきは、海外のワークショップで、ナスをどんどん料理して出してしまう。
頭だけでやっていることと現実は違う。ナスでもばりばり食べる人もいる。食べたほうがいい人がいる。もちろん、食べるとヘナヘナする人もいる。だから「破る」ことが大事だ。
ある人に正しいことが、自分の命に正しいかは分からない。科学的な治療のあやまりもそこにある。自分の命で検証しないものは役に立たないのだ。

4 道の学び方2 「離」
最後の離とは何か。そんなものはやめてしまいなさいということ。
能でいうと、舞台に出ると、お客さんが高いお金をはらって見に来る。なぜか。私のすり足がすごいとか、型がすごいとか、そんなことで来るのではない。
生の、その舞台だけでできるものが、本当のプロの世界だ。だから一切の囚われから自由になることが必要だ。

桜沢先生も同じことを言っていた。玄米を食べることではなく、食養とは、世界のあらゆるものを食べられるようになることだ。しかし最初から何でも食べいては絶対にできない。はじめは型から入らないとダメだ。
自分の命と食べ物の実践をしていけば、目の前にどんな食べ物が出てきても選択できる。食べ物に対して、自由自在になることが大事だ。人のことを、「悪食」と指摘したり、マクロやってないからダメだと批判したりしがちだが、そんなことはどうでもいいことだ。

自分も1ヶ月の断食をした。命のぎりぎりで命をみつめてみたかったからだった。
そうしたら20日目ぐらいに、雪の降る中で、6時間、薪割りをして一度も休むことがなかった。玄米を食べた身体はこんなに強いものかと思った。

ある意味で、身体を変えること、細胞を変えることは命がけだ。心と身体は表裏一体で、心が良くなければいいものを食べてもけして身につかない。
そのぐらい命がけのことだ。食べ物を変えるということは、自分の過去を変えることだ。繰り返すが、動物は食べ物を変えることはない。人間だけだ。だから守破離。

桜沢先生は「陰陽1日、食養3年、真生活7~8年、無双原理は一生よ」と言った。私はこれをやろうと思って、山奥に入った。ゼロからやろうと思った。
だから最低でも1年やらないと変わっていかない。しかしそれを続けると発想も変わっていく。その先は無限だ。世界の原理とは何か。文明とは何かを追い続ける。その意味で道の学びのためには「守破離」が一つの指針だ。

5 過去と未来につながるお産
命はずっと変化している。
私が家を建てたのは、昔の人がそうしてたから。お産も自分たちでやった。それも昔の人がそうしていたから。お産のときは多くのことを学んだ。
女の人は、お腹の中で38億年の歴史を創りだす。胎児はそう育つ。魚から鳥へ、爬虫類、哺乳類、人間になっていく。
命がどう変わるのか。換わるときに過去の毒素を出す。
つわりがおこる。すっぱいものが欲しくなる。これは動物性の毒を消すためだ。半断食でもすっぱいものが欲しくなるのは、動物性の毒を消すため。

出産の時は、お母さんがどんなにいきんでもそれだけでは胎児は出てこない。お母さんと胎児のバイオリズムがあったときに生まれてくる。
もう一つ、自然界の運行にも関係がある。自然環境のバイオリズムが必要。胎児にとってのお母さんは、すべての環境であり、すべての過去だ。
胎児は永遠の未来につながっているもの。自然には過去や未来がない。人間が概念の中で決めた妄想だ。

座禅をなぜするか。なぜその時に呼吸に集中させるか。座っていると過去や未来の想念に惑わされる。それに対して呼吸は今のものだ。そのために座禅をし、まず呼吸に意識を集中させる。
時空を越えて今しかないこと。お産は過去の環境と未来に続く命と今、それが合わさったものだ。全体の力が合わさらないといけない。そのときないものからあるものが生まれてくる。

女は悟りから人生をはじめるという。男は悟りにむかって人生を歩くという。無限から有を生み出す。
老子は、実体とは女性だと語った。男はその実体の染色体がちょっと傷ついたものだ。男は唐傘お化けだ。それが威張っているいるから社会がおかしくなる。
かつてちあきはお産のときに「子どもが生まれた瞬間にすべての命とつながった」と語った。女の人はなんてすごいのだと思った。

6 誕生と宿便
赤ちゃんは生まれると数時間で排便する。これをカニババと言う。胎児の宿便だ。胎内で水の中にいたときに、お母さんの身体から受けた毒素を出す。
山岳部族は、ほうずきなど、苦いものを赤ちゃんにかまさせた。苦いから締める。締めるからばっと出る。
ところが今は、ぶどう糖を与えてしまう。身体が緩んでカニババがでない。カニババを出す力は、お母さんの初乳にはいっている。

お産ではなぜあの狭い産道を出てくるのか。スパイラルで出てくる。おかあさんも赤ちゃんの世界の波と合わせて出てくる。
そのときに人生の危機的な状況をこえていくホルモンが出てくる。大自然には無駄はひとつもない。

7 生まれてからの7年毎のサイクル
赤ちゃんが生まれて、宿便がでて、人生がはじまる。
7年のサイクルがある。まず歯が抜け替わる。14歳で生理がはじまる。昔は男は15歳で元服した。

21歳で細胞分裂が終わる。その後は細胞が縮んでいく陰の時代になる。しかしその裏側に広がる世界がある。
21歳ぐらいでパートナーが欲しくなる。自分を映す鏡だ。自分は絶対に見れないように人間は作られている。だから相手をみつめて自分を作っていく存在だ。そのため神社には鏡が祭ってある。
21歳からは何を作るのか。心を作っていく。肉体の成長は終わっていく。パートナーをもって訓練していく。
パートナーシップを持つことは大変だ。年中けんかする。それでしか人間は育たない。我をとる世界だ。その訓練がはじまるのは、二人の結びつきだ。

その後、子どもが生まれてくる。自分の分身が生まれてくる。さらに我をとる世界だ。自分の我があったら子育てできない。
今、子どもを生んで殺してしまうのは、自我が強すぎるからだ。そこまで成長していないから育てられない。目に見えない波動の世界。

子どもが育っていくと巣立っていき、ふたりの世界に戻る。ボランティアの時代が始まる。
60歳。マラソンでいうと、往路が終わって復路になるとき。このときに赤いちゃんちゃんこを着る。人間は本来は120歳まで生きられる。
これからはどんどん手放していく世界。精神世界の赤ちゃんだ。もう家庭だけではなく、もっと広い世界を育てましょうという年。

最後は一人になる。生命力の強いほうが生き残る。パートナーの死で、死とは何かを学ぶ。最後にある人生のステージ。

8 宿便を出して死ぬ
すべての人は最後には死ぬ。
生まれた瞬間から死に向かって歩んでいる。どういう死に方をするかを学んでいるだけだ。

死ぬときに宿便を出して死んでいく。赤ちゃんで生まれたときもカニババを出し、死ぬときも出す。しかしスパゲッティ症候群だと出ない。
最後に宿便を出して死ぬのは、人生の総決算。肉体の整理をして、心を宇宙に返していく。だから半断食でやったことは、死ぬときの練習だ。

弘法大師空海は、自分の弟子をお堂に全部集めて、「そろそろ死ぬよ」と言った。悟りを開いた人は死ぬ瞬間が分かる。
弟子たちは泣いて、死なないでくれといった。「なんでみんな泣くんだい。今の私の心境はふるさとに帰るようなワクワクした心境だ」と語って旅立っていった。目に見えない世界に還ることに何の執着もなかった。
目に見えるものと、目にみえないものがある。死ぬときにどういう死に方ができるか。われわれはそれを学んでいる。

9 この世は素晴らしさに満ちている
命は完璧にプログラミングされている。
なぜ歳を取るとしわくちゃになるか。もういらないから。肉体はどんどん衰えていくけれど、心の世界だけはどんどん豊かになる。それがいい年のとり方だ。
人生は見事にプログラミングされている。最後までもっていけるように作られている。

そのときに食だけはしっかり食べていないといけない。人生の大河をゆうゆうと流れていけるポイントが食だ。
これが30年、食の世界を研究してきてつかんだ私、橋本宙八のストーリーだ。

この世は素晴らしさに満ちている。その感覚を取り戻すために、食養を進めてください。