守田です(20220406 08:30)

京都府知事選が終盤を迎えつつあります。
この時に、かじかわ憲さんからがっつりとインタビューした内容をお届けします。
かじかわ憲を応援してくださっているみなさま。最終版の押し上げにぜひインタビュー記事を活用して下さい。

1、教員としての道を歩む

―憲法読本について―
守田 
今日はかじかわさんの知事選立候補にいたる道のりをあれやこれや聞きたいと思います。先に生い立ちのことをビデオで話してもらいました。今回は学生の時の話ぐらいから聞かせて下さい。

かじかわ 
インタビューのはじめにこれを進呈いたします。(『憲法読本』を手渡す)

守田 
すごい。これ新しい本ですか?

かじかわ 
これはわれわれの運動で手作りしたやつでね。「あたらしい憲法の話」や明治憲法なども入れて。労働組合で使えるように労基法を入れたものもあって、いろんな労組から出ていてね。
これが現物ですわ。一番初めのところに蜷川さんの言葉も入ってる。「15の春は泣かせない」「峠の向こうに春がある」「この道を行く」「育てる漁業」などね。それで「とにかく何かあったらこの本の中に駆け込め」と言われてた。高校生の時にもらって、ずっと大事にしています。私の自慢のバイブルですわ。

『憲法』と書かれた冊子を手に語るかじかわさん キッチンハリーナにて 守田撮影

守田 
なるほど。

かじかわ 
それの復刻版を差し上げます

守田 
わあ。すごいな。ありがとうございます。
さてそれでかじかわさんは大学はどちらだったんですか?

―学生運動から教員へ―

かじかわ 
大学は京都教育大でした。学費値上げ反対のストライキとかやりましたよ。

守田 
かじかわさんは僕と同い年ですよね。僕は1959年8月16日生まれです。

かじかわ 
僕は9月6日。20日違いやね。大学はストレートで入ってね。あのとき、各地で学費値上げ反対の運動とかありました。教育大もやりましたね。僕は京都の学生運動の中心にいました。府学連の書記長でした。その当時の皆さんがいろんなとこで活動やっていて、今回もいっぱい応援メッセージが届いています。

守田 
大学のときの一番の思い出はなんですか。

かじかわ 
やっぱり何回も東京へみんなでバスで行ったことやな。いろんな社会問題の集会とか、国会要請のデモとかで、山ほど行きましたね。
いつも立命館大学に学生を集めて貸し切りの夜行バスで行くんです。強烈な印象ですね。集中的に行かなあかんときは、ものすごい数を集めて行ったからね。東京の近くのドライブインで休憩とって、みんなで顔洗って国会へ行く、そういう日程で徹夜バス走らせたんですよ。

そんな風に大学4年間を過ごして、その後は大学院には行かずにそのまま就職しました。すぐに教職員になりたかったのでね。地元でね。
実はうちの親父が障害児学校の校長を最後にやったんですよ、親父が校長を辞めるときに、私が採用やったかな。ちょうど入れ替えの形になったので、私が引き継ぎたいという思いがあってね。障害児学校の教員もやりたかった。
でも当時もう教育委員会は良い状態ではなくて、どうも「あの校長の息子を入れるな。京都に置くな」と大変やったそうで。それで府立学校には採用されなくて、南山城の教育局という広域の教育行政がありますが、そこが僕を拾ったのです。
障害児学校は府立学校なのでそこの教員にはなれなかった。

そんな風に教員になったころに、親父に厳しく言われたのは「どんなに裏切られても信頼する」こと。

守田 
誰のことをですか?

かじかわ
一番は子どものことやったと思いますね。「学校の先生は、どんなに子どもに裏切られても信頼する、また裏切られても信頼するもんや。それができるか?」って聞かれたことがありましたね。
「できる」とはよう言わんからさ、でも頑張るしかないと思ったね。その親父が今100歳で、まだ元気ですけど、「そんなこと言うたか」って絶対言いますけどね。それはねもう本当によく覚えてますね、

守田 
実際はどうでしたか

かじかわ 
そもそも「裏切られた」と思うことが自体がどうなのかと思うようになったね。こちらが子どものことを見えてなかったのではないかとかね。
まあでもそういうことはありました。いっぱいありましたね。例えばそうだな。クラスをプラスの方向に何とかうまくまとめられたと思ったら、次の日になったら、全然違う方向へみんなが走ってるとか。

出馬記者会見会場にて

―子どもへの関わりで悔いもある―

守田 
幾つの子どもたちとのことですか?

かじかわ 
小学校だったからね。丁々発止があったのは、5年生6年生の子供やね。そんな中で、本当にしんどい思いを子どもにさせてしまったこともあって。ものすごい悔いもあります。

守田 
どんなふうにですか。

かじかわ 
よかれと思ってやったことが、その子にとっては辛かっただろうなと。そう思ったままで今に至っている例があって。その話はリアルに話すとその子に分かってしまったら申し訳ないので語りにくいのだけれど。
何て言うんかな、その子が仲間との関係でしんどくなっていてね。それでリーダーを集めて「みんなで一緒にその子を激励に行け」と言ったんです。でもそうしたら、かえってその子がしんどくなったんです。
なんであのときに僕自身が、その子ときちっと向き合いへんかったんか。子どもたちにそのことを負わして、そのことで余計しんどくさせた。その子に本当に申し訳ないって思いがあって。今、その子の顔が浮かんでますけど。
でも逆にそういうしんどい思いを、5、6年生のところにした子どもたちが、そのときのことやらいろんなことやらを振り返りながら、いまだにずっと連絡をくれたりもしています。その子らはいまはもう京都に住んでないんやけどね

守田 
でもなんかなあ。「リーダーたちに行かせた」というのは、子どもへの関わりのあり方として、なんだか分かる気もするけどなあ。

かじかわ 
技術的にだけ言えば確かにそれもありだったとは思うんですよ。集団作りのときに、リーダーを集めて、みんなであの子どういうふうに激励しようかって議論をしたりすることはある。でもその場合は、それまでにやっぱり僕がその子と直接、向き合うべきやったんでしょうね。

―とにかくみんなで話し合う―

かじかわ
でもなあ、とにかくちょっと変わった教室作ってしまっていましたね。子供らが卒業までに、みんなで1回ゆっくりどこかに集まって、将来の話やいろんな話をしたいといいだしてね。そういう合宿がしたいという話になった。
まだ私も若気の至りでね。合宿などということを教職員が主催してクラスで子どもたちが一晩泊まるって、そんな許されへんかったんですよ。だけど、やろうと思っちゃったんですよね。西山のお寺に泊まりに行く計画まで立てたんです。うん。
私はそのころ、教育懇談会を担当している全域でいっぺんにやるんじゃなくって、小さい地域ごとにやって、歩いてまわるのがモットーになっていたんです。
それで体育祭の取り組みとか、運動会とか修学旅行とか、それからいろんな事業のこととか、それらのネタぶら下げて、お父ちゃんお母ちゃんと遅くまで車座で語り込むことを、すごくやっていたんです。
今から考えると、そんな条件がなかなかないだけで、それをやりたい先生は多かったと思う。ほんでね、みんなで相談して、僕のいる小学校全体でやろうということになったんです。組合の皆さんとも相談してね。
「かじかわだけが、やれる条件があるからやっているというのでは私は辛い」と、他の教員に言われたためでもありました。だって「あのクラスやってはる」ってうわさが立つから。

ほんでね、子供らが合宿行きたいっていう話を、お父ちゃんお母ちゃんが受け止めたんやね。PTAの会長に「うちのクラスの保護者が連れて行きますが、お寺に泊まりにいっていいですか」って了解を得にいったんです。
そしたら会長さんがOKしてくれて、ほんで校長とかけ合って、私は当日、子どもらが親と一緒にお寺に来たら、たまたまいたっていう話になった。おかげでお父さんお母さんとも夜遅くまで話をしたし、子どもらとは語り明かすことができましたね。
いまだに覚えてるけど、ちょっと高台にあるお堂で、縁側で足ぶらぶらさせながら子どもらとずっと話してて。次の日に風邪ひいた子どもが山のように出て(笑)。6年生の最後のあたりかな。もうちょっと寒くなりだしてたかな。そんなこともやりましたね。
だけど保護者の皆さん、お父さんお母さんと、懇談会をやって歩き回ったとことは、ものすごい財産になりましたよ。対話ってこういうふうに大事なんだ、車座で話すことがとっても大事なんだって思ったね。

守田 
でもそんなことをしている教員はそんなにいなかったでしょう

かじかわ 
そうやね。日教組の中でも報告が出るぐらいやったからね。

かじかわ憲は車座での話が大好き 綾部「一汁一菜 ちゃぶダイニング」にて

―もともと家に人が集っていた―

かじかわ
ちなみに僕のおふくろは、新日本婦人の会の、京都府の役員をやっていたんですよ。「子供を守る会」の役員もやっていて、今も頑張ってやってはりますけど。その中で特に乙訓の教職員組合と新日本婦人の会やらが、皆さんで実行委員会を作って、「子供祭」を始めた。それが全国で初めての取り組みだった。
どんなんや言うたら、一日、中学校の校庭を借りて、その地域の子供たちがみんな集まって、ゲームやったり、遊んだり、手作りのおもちゃで遊んだりする企画ですわ。
これを保護者の皆さんと教職員組合などで一緒にやったんやけど、その子供まつりの実践が、その後に全国に広がっていったんですよ。
京都市内は中京区が有名やった。乙訓の子供祭りと中京区の子供祭り、こういう取り組みを、全国の教育研修会で報告するって言って、おふくろがでかけてましたよ。教職員組合の皆さんと一緒に。
このときのことは私もよく覚えてる。祭りの片づけを全部やるので、家に帰るのが遅くなるから、晩飯を先に勝手に食うとけって言うて、おふくろから連絡があって、親父と2人で近くの飯屋へ行ってハンバーグ食ったんです。いまだに味まで覚えてる。僕が、中学に入ったかどうかっていうぐらいやったと思う。そんなことあんまりなかったんで、嬉しかったんやと思うけど。

だから我が家には、教育懇談会をやろうという乙訓の皆さんの取り組みがあって、よく集まってましたよ。いつも僕は「煙草臭い」言うて、窓を全部開ける役割やった。山ほど先生来るんやから。打ち合わせの時に。
うちの親父がもっと面白くて、定時制の高校の教員やってた時があったんですけど、そこで育てた子供たち、担当してた子供たちを、みんな連れてきては、家で闇鍋やったりした。定時制のみんな、結構、年齢幅がありましたね。うん。そうだよ。
高校に中学からそのまま来ている人もいれば、自衛隊を辞めてもう一回、勉強をしたいと入ってきた人もいました。そのとき我が家に来ていた人たちとは、いまだに連絡がとれてて、うちの親父に年に2回ほど、顔を見せに来てくれます。そのみんなにかわいがってもらったなあ。「憲ちゃん、憲ちゃん」ってね。
だからそういう地域の教育運動の担い手の方とか、定時制の生徒の皆さんとか、そんなみんなが集まって何かを一緒にやっていることが当たり前の感じで、ずっと来たかなあ。
特殊な経験やったんですけど、みんなが集まっていろんなことを議論して、喧々諤々やっている。そういうのを地域で人の家に上がり込んでやったり、地域の公民館、遅くまで借りてやっていることの中にいつもいて、「そういうのが大事なんや」ってもともと染みついてたから、自分が教員になってからも自分でやったんやろうね。今考えるとそう思いますね。

守田 
ちなみに教科はなんだったんですか?

かじかわ 
私は小学校だから全部やりましたよ。音楽も好きだった。久世の教職員組合の青年部でバンド組んでたんです。私はキーボードができるんです。あとボーカル。まあ「歌声」運動のですね。まだ宇治久世バンドって続いていると思う。
卒業式の最後、送り出しも5年生で、それでやらせてもらったかな。鍵盤ハーモニカっていうのはサックスと同じような音出るんだよ。吹き方を教えると。大太鼓の裏側に毛布詰め込んで、ドラムやってたり、やってましたよ。
23歳から27歳の時ですね。その間に結婚もしてるんですけどね。結婚式は、子供らがなだれ込んでくるわけのわからん結婚式やった。先生は踊り出す、そこへ子供が保護者と一緒になだれ込むという、みんなと一緒の結婚式やったですね。
そんな集まりが重なる中から、子供や親の本音とかが出てくるですよね。そういう良い経験を味あわせていただいたのが、城陽市の学校やったんです。でもいたのは4年。めっちゃ短いですよ。5年生を2年もって、5年もって6年もって、その子供らを卒業させられへんで学校を出たんやもん。

「学び続けられる京都へ」がかじかわ憲の公約の一つ

続く

#かじかわさんでこんな京都にしたい #かじかわ憲 #京都府知事選 #憲法読本 #つなぐ京都2022 #日教組 #京都総評 #労働者の団結 #共同の促進 #労働組合は敷布団になれ