守田です(20220406 10:05)

京都府知事選にチャレンジしている、かじかわ憲さんのインタビュー2回目です。

普段着のかじかわさん

―労働者の団結に恋い焦がれて―

守田 
それでそこからは京都教職員組合の専従になったんですか?そのまま現場に戻れなくかったわけですか?では教員としては現場は4年しかやれなかった。

かじかわ 
そうなんですよ。ぜひうちにこいと現場まで小学校まで乗り込んできてはった方がおられて。うちのおやじの校長仲間ですわ。

守田 
でもそれから今日までずっと。現場に戻りたかったでしょう?

かじかわ 
それは戻りたかったですよ。でもちょうどその時に労働戦線が、連合(日本労働組合総連合会)と全労連(全国労働組合総連合)ができるときに重なって。教職員組合は日教組(日本教職員組合)と全教(全日本教職員組合)が別れた。
その時に、青年部の組織を全国的に作らないかんということになった。そのときだったんです。

守田 
全教を作ったときだったのですね。

かじかわ 
全教が日教組から飛び出たと言う面もあったのだけれどね。その全協を作ったときの結成宣言は、私が読んでいるんです。東京の山手教会というところで。それを亡くなった教育評論家の三上満さんが記録に書いてます。
そこで全教は旗揚げしてるんですだけど、だけど僕の思いは日教組にあったんです。日教組の中にもね たくさん仲間がいてね、特に青年部にね。その中で何とか別々にならずに一緒にやれへんかっていう思いが強かったんですよ。
日教組の中でも何とかして別れることを食い止めたい。連合に行かないようにしたい。その決断を執行部に迫ろうといういろんな動きがあって、その思いを持っている皆さんと一緒にいろんな話しましたね。
反対にそういう動きを潰そうとする勢力も中にはあって、それでこっそりトイレの中で話したり、泊まりがけで温泉の湯船の中に浸かったりしながらとか、いろんなとこで話しましたよ。

守田 
へえええ。

かじかわ
その仲間がね、青年部を一緒にやっていた仲間が、日教組の中から排除されていったことがあってね。それはね、お互い悔しかったんですよ。
そんなことがいろいろあって、それが新たな共同を作りたいって思うようになった原点になっています。労働者がお互いに思いは一緒なのに、別々に分かれていってしまった。「そうではない。繋がりたい」という思いがみんなにあった。
私は全教のところにいきましたけれど、違う道を歩むことになった皆さんの想いまでを、こっちが抱えて頑張らないかんって強く思ったのがその時で、そのことが結局、京都総評という労働組合の結成にも繋がっていったんです。

守田 
なるほど、なるほど。ずっと労働者の団結を恋い焦がれてきたのですねえ。

いつも仲間たちと奮闘 京都民報より

かじかわ 
一つは自分の生い立ちの中で培われたもの、また高校生の時の体験、そして教職員の現場にいたときの車座の懇談会の経験や子供らと一緒に過ごした時に学んだこと。
そして労働組合運動に身を置いた途端に、労働戦線の分裂が生じて、離れ離れにならざるを得なかった当時の青年部の皆さんの思い、悔しい思いを、抱っこしてきたということなのかな。
あれは何年やったかな。連合ができたのが1987年。総評が無くなったのが1989年やった。

守田 
そうかあ・・・。

かじかわ 
だから僕は最初は日教組の傘下にあった京都教職員組合の専従になったわけね。
あの時の労働戦線の再編は春闘つぶしが目的やった。財界が春闘潰しを狙い、その中に大企業の労働組合を巻き込もうとしたんですよ。それと政府が裏でつながっていた。

守田 
東欧の社会主義崩壊とかの影響もあったのでしょうか。

かじかわ 
いや、違うと思うな。日本の構造改革とかそういうことですね。背景はね。

守田 前川レポートとかが出ましたものね。(注 中曽根政権のもとで1986年4月に日銀総裁前川春雄氏がまとめたレポート。日本に新自由主義=市場原理主義を浸透させることを目指したもの。そのためには労働者の権利を掲げて資本の前に立ちはだかる労働組合が邪魔だと、さまざまな圧迫がはじまった)

かじかわ
そうそう。それですよ。一連の財界側の動きです。それに政府が乗っかったんです。そのときに政府が公務員の労働組合に対しても圧力をかけたんですよ。

守田 
国労なんかもすごく狙われて圧迫されましたよね。国鉄そのものの解体と一緒に。

京都北部のみなさんに迎えられて 2022年2月23日福知山にて 守田撮影

―京都総評結成の思い―

かじかわ 
正確にはその辺のことはもうちょっとそこは整理しなきゃあかんのですけどね。でもとにかく全国でいろいろと問われたんよね。
京都でも円山公園で大集会が開かれたんです。連合に行かない、行けないという人たちを集めて。日教組の中からも私が話し合った相手で、「連合にいかざるをえない」と言ってた人たちも来ていたと思います。
それで全国では、全労連の側は「労連」という名を使う。連合の側は「連合」という名を使うと、地方も分かれていったのです。
でもそのときに京都は「京都総評」と名乗ろうということになった。「総評」というその時に終焉を迎えた中央の組織の名前をいただくことにしたのです。それで「総評」という名前になったんです。それまでは総評傘下の「京都地評」やったんですよ。「地方評議会」やったんです

守田 
へええええ。そうだったんだ。

かじかわ 
なくなるんやったら、中央総評の名前をいただこうと。それで新たな団結の要になろうという決意を込めて「京都総評」と言う名前にしたんです。「京都労連」にはしなかったんです。

守田 
ため息がでますね。ジーンとするなあ

かじかわ 
それで連合にいかなかった組合がかなり残ってくれた。今回、京都総評が丸ごと私の知事選への挑戦を推すことには、色々な組合があるので時間がかかったけれど、それはとても大事だった。

守田 
なるほどねえ。総評はいまや京都だけなんですね

かじかわ 
京都だけです。「地評」という名を残しているところはあります。和歌山地評とか静岡地評とか。「地区労」と言う名前もその名残です。

守田 
僕のような社会運動に詳しいと思っているものでも、その辺のことをよく分かってなかったからなあ。一度、きちんと整理したいですね。

かじかわ 
ほんまに。あの時は「労働者のために権利を守る」とか「巨大な圧力とたたかう」とか、労働組合にとって根幹にあるべきことを、きちっと語って組織を維持していくことが、たいへん揺れたんですよね。そういう時期やった。

守田 
そしてそれに東欧や旧ソ連の社会主義の崩壊が重なっていった

かじかわ 
そうそう。それでね。京都総評は中央のナショナルセンターでは全労連(全国労働組合総連合 日本共産党支持が強い)に入っているんです。でも共同組織は中央は全労協(全国労働組合連絡協議会 日本社会党左派ーいまではその流れをくむ社会民主党と新社会党の支持が強い)に入ってるんです。両方に入っているんです。
全労協は連合にも全労連にもいかなかった労働組合を集めています。その協議体なんですけど、そこに京都から役員を送っているぐらいで。京都総評はそういう意味でとても幅広くやってきたと言う感じですね。

守田 
かじかわさんの専従としての活動は、教職員組合と、総評とどんな感じだったのですか?

かじかわ 
教職員組合から出て、京都総評に入って専従をやることになったのですが、その1回目が1991年から1999年まででした。京都総評の事務局次長で京教組の仕事もやりながらでした。
それで「そろそろ京教組に戻ってけえへんか」という時がちょうど1999年でしょう。その時に1回目の日米ガイドライン問題がおこって、有事立法が立ちあがってきたのです。
(注 日米ガイドラインとは「日米防衛協力のための指針」のこと。どの地域が日米安全保障条約の対象かなど示されており、1997年にそれまでの「極東」から「周辺事態」へと範囲が拡大、それに伴って「有事立法」制定が目指された)
それに反対する取り組みを担当していて、共闘関係を広げようとしていたときでした。

さらにその前にはPKO(国連平和活動という名のもとの軍隊派遣)で、宇治の大久保基地の自衛隊が出動することなったことに反対して、大久保基地を取り巻く1万人デモをやったんです。それも担当でした。
小選挙区制ができたときもその反対運動の担当でした。とにかく当時の国民的運動、府民的運動の担当をしたので、その時の仲間が各地にいます。

守田 
なんだか時の流れが、いつもかじかわさんを、人と人をつなぐ役目に置いてきた感じですね。

何度、対談してもかじかわさんの引き出しは尽きない!いつも現場の話が満載 西京原発ゼロネットのみなさんに迎えられて 守田撮影

―平和のための共同が広がっていく―

かじかわ その時の経験では宗教者のみなさんと結びついたのが印象的でしたね。とくに日米ガイドラインに反対するデモを何度もやる中で、広くつながることができて、YMCA、YWCAなどと仲良くなって、個人格で継続的に平和についての話し合いができる場を作ろうと「憲法平和ネット」をつくりました。そのときに3つの原則を確認した。「お互いを誹謗中傷しない」「非暴力を貫く」「決めたルールを現場で守る」。

いまの共同につながるこのルールをみんなで作りました。「非暴力」はねえ。宗教者のみなさんから「絶対にこれをいれろよ」と言われていれたものなんです。ある牧師さんがいいました。亡くなるまで一緒に行動してくれた方です。
仏教界の方も大変力を貸してくれました。その後もいろいろなみなさんと一緒に歩んできました。
さらにね、教育基本法の大改悪の流れがあり、そのときに教組関係、市民、法曹関係で大きな共闘をつくりました。

ロシアのウクライナ侵攻に反対するキャンドルビジルにも参加 守田撮影

守田 
そんな活動の中で印象に残っていることはなんですか?

かじかわ 
総評の事務局次長をやってたときは、そうやって新たな共闘を作ることに必死やったから、いろいろなところにいって、いろんな人と実行委員会を作ったり、共同組織を立ち上げまくってました。
それに付き合ってくれたのが自由法曹団の弁護士のみなさんたちですね。頑張ってくれました。

守田 
なるほど

かじかわ 
2001年からのアメリカによるアフガン戦争のときに、その「憲法平和ネット」が役に立ったんです。「戦争はダメだ」という大きな声がみんなで上げられたんです。

守田 
素晴らしい。戦争が起こってしまったことは残念で悔しいですが。

かじかわ 
YMCAにみんなでよく集まってましたよ。

守田 
本当になんども共闘、共同を作ってきたのですねえ。

かじかわ 
まあ、そういう人のつながりのための裏方をずっとやってきたから。なんかそのために働くことが染みついてましたね。

今ある良いものを壊し、お金儲けの手段に変えようとする北山エリア開発を白紙にと訴えるかじかわ憲

続く

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