守田です。(20120627 08:00)

広島で二泊目の夜が明けました。昨日は非常に濃い一日になりました。まず午前中10時に、広島市の比治山にある放射線影響研究所を訪問しました。これは歴史的と言ってよい訪問でした。

同組織はもともと、太平洋戦争直後に、アメリカ軍が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)を前身としています。要するにアメリカ軍による原爆調査機関です。その目的は、兵器としての原爆の威力を知ること。原爆が破裂した瞬間に飛び出してきた中性子線とガンマ線の殺傷能力を知ることでした。それは原爆が投下された際に、兵士たちがどれだけもつかの研究でもありました。

これを「初期放射線」と呼びます。原爆破裂後、1分以内に到達した放射線と定義されていますが、もう一つの目的は、それ以外の放射線の影響、とくに原爆の破裂によって生じたたくさんの核分裂生成物が放射性微粒子を形成して降下した問題、それによる内部被曝の影響を完全に隠してしまうことでした。

なぜかと言えば、終戦後の早い段階で、ヨーロッパから遺伝学者を中心に、原爆は遺伝的影響を与える非人道的な兵器で、使用を即刻中止すべきだという声があがりだしており、アメリカは核戦略の推進のために、この声を封殺してしまう必要があったのです。そのために調査ではなく、実態隠しが必要となりました。

このためアメリカは、9月7日に、マンハッタン計画の副所長のファーレル准将を東京に派遣して記者会見を行い、「原爆の放射線で死すべき人はすでに死に絶えた」・・・つまりここからは放射線の被害者はもう出ないと公言するとともに、9月17日にはプレスコードを発し、広島・長崎に関する報道を一切禁止してしまいました。このため被爆者の苦しみは世界から隠されてしまい、1952年にアメリカによる占領が解けるまで、ほとんど伝えられることがない状態になってしまいました。

こうした状態の中で、ABCCの「調査」が始まります。多くの被爆者が「調査」されましたが、その手法はジープで乗り付けて強引に検査機関に連れて行くというような強引なものでした。しかも調査はしても、治療はしない。治療をするような現実があることを証拠に残さないためでした。このためこの機関は長く被爆者の怒りを買い続けました。

こうした「調査」の中で、ABCCは被爆者を非常に狭く限定していきました。放射線の影響を、原爆が破裂したときに飛び出した初期放射線に限ったので、それが届く範囲(半径2キロ)以内に放射線被曝が限定されてしまいました。とくに周到に排除されたのが、大量に降下した放射性微粒子を吸い込んだり、食べ物から採ってしまった内部被曝でした。まさに内部被曝隠しが、ABCCの最大の目的だったと言えます。

さてこのABCC、アメリカがベトナム戦争にのめりこみ、戦費を浪費する中で財政的に支えきれなくなりました。このため米日共同の運営期間への転換が提起され、このもとで新たに生まれたのが「放射線影響研究所」でした。といっても相変わらず研究方針を握っているのはアメリカであり、核戦略を支える組織としての性格は変わっていません。

ところがここが重要な点なのですが、アメリカはこうした歴史を持つABCCと放射線影響研究所が蓄積してきたデータと、その恣意的な解析にもとづく放射線に関する「研究」成果を、放射線が人間に与える影響を考察する際のスタンダードとして世界に発表し、世界中のあらゆる機関にこれを受け入れさせることに成功しました。このため世界中の放射線学の教科書が、この、初期放射線だけを研究した内容によって書かれることになってしまいました。このため内部被曝の影響がすっぽりと欠落した「放射線学」が世界に横行することになったのです。

したがって放射線被曝の真の恐ろしさを把握するためには、こうして放射線影響研究所の「研究」の中で、排除されてきた内部被曝の問題を解き明かすことが最重要になりました。これと誰よりもはやく格闘し始めたのは、私たちの国の中でいえば、肥田舜太郎さんであり、アメリカでは、肥田さんにたくさんのことを教えられたアーネスト・スターングラス教授であったわけですが、放影研の研究内容に即した科学的な批判を、世界で初めて行ったのが、今回来日した、インゲ・シュミッツ-ホイエルハーケさんなのでした。

彼女は放射線影響研究所の研究をつぶさに調べ、その一つに、被爆をした人々の状況を把握するための比較対象群に、内部被曝をしている人々が選ばれていることを発見し、この点を批判しました。比較は原爆の影響をまったく受けていない人々との間で行わなければならず、そうでなければ被爆の影響を正しくつかむことはできないわけですが、もともと被爆の影響を小さくみせたいABCCは、比較対象に、内部被曝をしている人々を、その被曝を認めることなく、影響をこうむってない人々とした上で選んだのです。

そのためこの比較は、被爆者とそれ以外の人々の間で行われたのではなく、実際には被爆者同士の間で行われたものに過ぎなかったため、被ばくの影響が小さく見積もられてしまいまいた。内部被曝を隠してきたことをさらに利用した被ばくの実態隠しでした。シュミッツ-ホイエルハーケさんはこの点に非常に鋭く切り込んだのでした。画期的な科学的批判でした。

さて前置きがどうしても長くなってしまいましたが、こうした批判を行ってきた彼女と、同じく、放射線影響研究所が積み上げてきたデータの中から、爆心地からの距離と脱毛の関係を導き出し、放影研が無視してきた放射線の影響を解き明かしてきた、沢田昭二さん(市民と科学者の内部被曝問題研究会理事長)、これにドイツ放射線防護協会会長の、セバスチャン・プフルークバイルさんが加わって、放射線影響研究所への訪問を行うことになったのでした。

これを聞きつけたマスコミのある方は、興奮して「いよいよ敵の本丸に殴り込みですね」と言っていました。私たちは殴り込みなどという暴力的なことなどもちろん行いませんが、非常に重要な訪問であったことは間違いありません。

かくして私たちが放射線影響研究所の正門前に立ったのは午前10時少し前。参加者はドイツからのお二人と、沢田昭二さんの他、私たちの会の副理事の一人である高橋博子さん(広島平和研究所)、国際・広報委員長の吉木健さん、そして高橋さんの同僚でドイツ人のヴェール・ウルリケさん(広島市立大学国際学部教授)、ドイツ語通訳を行ってくださった三崎和志さん(岐阜大学准教授)、そして守田でした。こうしていよいよ歴史的な会見が始まりました・・・。

続く

(すみません。時間切れです。これから急いで朝食を食べて、みなさんと一緒の新幹線で大阪に向かいます。続きは今宵、書かさせていただきます!)