守田です。(20120925 23:30)

台湾の友人宅にいます。今朝、ここで東京から来る柴洋子さんと合流し、電車で東海岸にある花蓮まで行ってきました。

花蓮にはタロコ族の方々が住んでいて、その中のイアン・アパイアマアとイワル・タナハアマア、そうしてもう一人のアマアを訪ねたのですが、昨夜、いつも威厳を称えながら、どこかお茶目なイアン・アパイさんが、病にかかって入院中であることを聞きました。ショックでした。あらためて多くのおばあさんたちが本当に弱ってきていることを感じました。

さて、今回はこのタロコ族のことについて書いておきます。台湾には中国大陸からわたってきた多くの漢族の方たちがいますが、それ以前にこの島に住んでいた方たちを「原住民」を総称しています。日本では「原住民」という言葉が差別的に使われてきたことから、「先住民」という言葉が使われるのが通例ですが、台湾ではほかならぬ「原住民」の方たちが、「先住民」だと先に生きていてもういないみたいなので「原住民」の方がいいと選択したそうで、この言葉が使われています。

台湾の原住民は現在では14族が台湾政府によって公認されているのですが、今もその区分けが新たに進んでいる最中です。タロコ族も、独立民族として認知されたのは2004年のことで、それまでは「タイヤル族」に含むものとされていました。しかし言語に違いがあり風習も違う。またほかならぬタロコの方たちから、自分たちは「タロコ族」だという声があがって新しく12番目の民族として台湾政府に認知されたという経緯を辿っています。

台湾の原住民は、その多くが山の民ですが、もともと山に住んでいたわけではない。大陸からたくさんの漢族が断続的に移住してくる中で、しだいに平地から押し出され、山にあがっていった経緯があります。それ以前には記録として残された歴史がなく、実態は分かっていません。各部族はそれぞれに独自の言語を持っており、近隣の部族間で言葉が通じることもありますが、台湾全体でみたときの統一言語はありませんでした。

日本は1895年から50年間にわたって台湾を植民地支配しましたが、このとき日本は原住民を「高砂族」として総称していました。そしてこの「高砂族」が第二次世界大戦に突き進んだ日本軍に重要な存在となっていったのですが、その遠い原因を形作ったのが、1930年10月に行われた霧社事件でした。霧社は、台湾中部の山岳地帯にある町で、現在は南投県仁愛郷に属します。

日本は台湾統治において、さまざまな文化政策も推し進め、その中には現在もなお台湾社会の中で評価されているものもあります。その一つが、日本語教育の普及によって、はじめて台湾全土の統一言語ができたこともその一つでした。それまでは大陸から移ってきた人々が話すビンナン語(現在の台湾語)、漢族の一部で、アジアのユダヤ人とも言われる客家(ハッカ)の人々が話す客家語、それぞれの原住民が話す言葉が乱立していて、共通言語がなかったのです。

日本語が初めての統一言語だったということに、なんとも複雑な思いを抱かざるをえませんが、そのため実際に、戦前に教育を受けた多くの方々が、流暢な日本語を話します。僕が出会ったおばあさんたちの多くも、日本語を話す。それも僕らがもう使わなくなった、古く、情緒のある日本語をです。

性奴隷の被害を受けたおばあさんたちが他に話す言語もそれぞれに違うので、おばあさんたちにとっても日本語が共通語であったりします。そのため高齢の漢語を話さないおばあさんたちからの聞き取りは、日本人が行った方がうまく進む場合もあります。

ただし受けることのできた教育によって、日本語能力が違っています。今回、メインにお会いするつもりできた呉秀妹アマアは、貧しく教育を十分に受けられなかったので、日本語は片言です。それでいつも「わたし、日本語、うまく話せない」と恥ずかしそうに言う。「話してるよ。上手だよ。よく分かるよ」という会話からいつも話が始まります。

ただし客家であるアマアは客家語と台湾語が話せます。北京語はあまりわかりませんが、これに片言でも日本語を話せるので、3つの言語が使えるわけです。このように台湾の多くの人々が複数の言語を話します。親戚が一同に集まると、一つの言葉では通じない人がいるのが普通のあり方だそうです。そのため会話の途中でしばしば言語が変わるのだとも聞きました。

日本統治下では、これ以外にも、水利工事を進めたこと、ダムを作って発電を始めたことなど、台湾社会の近代化の基礎が作られていきました。近代化自身がいいことであったかどうかという問題もありますが、今はそこには踏み込まないでおきます。

大事なことは、こうした近代化への「功績」がハイライトされることでみすごされがちだったのが、日本が過酷な原住民支配を行ったことでした。山の中に住み、独自の風習を持つ人々に対して、統一政府を持たない漢族は、支配をおよぼすことができませんでした。彼らは山の民を蕃族と呼び、文化的に見下しつつ、一歩でその存在を畏怖していました。

これに対して日本は軍や警察の力をも総動員して山の民を日本の統治の中に組み込んでいきました。その重要な基地となったのが、各地に作られた警察の駐在所と学校でした。暴力機構としての警察の存在と、一方での文化的統治の要としての学校の存在をもっての統治化は、次第に効果を及ぼし、日本による山岳民族の統治はひとたびは成功したかに思われました。

しかし山の民を見下し、何かにつけて暴力を振るう日本人警察官を中心とした支配は、山の民の尊厳をしばしば傷つけ、深い矛盾を作っていきました。そしてそれが爆発したのが、霧社事件でした。

霧社の部族長の息子を日本の役人がステッキで殴ったことをきっかけにして、この部族の人々による蜂起が発生。人々は駐在所を襲った後、ちょうど運動会を行っていた小学校に乱入し、日本人ばかりを狙って、140人も殺害しました。これにすぐに日本政府が対応。日本軍精鋭部隊をこの地に送り込んで、掃討作戦を行いました。

しかし山の人々は頑強な抵抗を行いました。急峻な山に立てこもり、縦横無尽に山を駆け巡る山の民を前に、近代的は兵器で武装した日本軍は苦戦。大砲の使用はもちろん、航空機や毒ガス兵器なども使用したものの、山の人々の俊敏さにはかないませんでした。

そこで日本軍は蜂起に参加しなかった山の民に目をつけ、掃討作戦への参加を要請、政治的圧力とともに金銭による勧誘や、待遇の改善の約束などを加え、多くの民が掃討作戦に狩り出されていきました。山の民に山の民をぶつけたのです。

日本軍を相手取っては、圧倒的な優位を示していた山の民はこのもとで次第に追い詰められていき、戦闘不能に陥って、やがて全面的に投降しました。その間に殺されたものが700名、投降者は500名だったといわれています。これらの人々は、その後、長きにわたって、過酷な監視下での生活を強いられました。

さてこの霧社事件から、日本軍は重要な教訓を引き出しました。山岳戦闘における山の民の圧倒的な戦闘力を積極的に活用すべきだということでした。これ以降、各地の部族の若者への軍からの勧誘が行われました。一部は正式な軍人として、一部は民間人のままの徴用として、若者たちの多くが「皇軍」に参加しました。彼らは日本軍が参戦したアジア各地での戦闘、とくに山岳地帯、森林地帯での戦いの最先端部隊の位置を担わされていくことになります。

そのなかでも有名なのが、1941年12月8日に開始されたフィリピン上陸作戦でした。この作戦でフィリピンのジャングルに入っていった部隊にはその先頭に台湾の山の民が立っていました。小さいころから大きな刀をもって山の中に入り、道なき道を切り開くことになれてきた彼らは、日本軍のジャングルの中での格好の水先案内人となりました。そのため多くの台湾の若者が、日本軍が展開する苛烈な戦線に送り込まれて命を落としていきました。

一方、男性たちがこぞって戦場に狩り出された山の民の村々には、日本人警察官がやってきて、女性たちに軍隊への奉仕を要請しました。夫や恋人、父親が日本軍に献身しているのだから、女性たちも献身せよというのです。そしてその中から、性的「奉仕」の強要がはじまりた。

さらに男性の多くが狩り出されてしまったことで、人々が生活に困ったことにもつけこまれました。日本軍は割りのいい仕事があるといっては、原住民の女性たちを軍のもとに連れて行き、レイプを行い、「慰安婦」の生活を強制していったのです。日本軍は山の民の戦闘力を利用すると同時に、男たちが留守になった村に入り込み、残された女性たちに性奴隷となることを強制したのでした。

これは同じ性奴隷とされた台湾の漢族の女性たちとの大きな違いでした。漢族の女性は、台湾の中で性奴隷を強要されることはあまりありませんでした。基地は地域との関係が強く、台湾人の兵士もいて、漢族の女性を台湾で「慰安婦」にすると、反発を生む可能性があると判断されたからです。そのため台湾の漢族の女性たちは、台湾以外の日本軍展開地に連れて行かれて、そこで性奴隷にされました。それに対し、原住民の女性たちは台湾の中で性奴隷たることを強いられたのです。

こうした歴史を作り出す一つの原因であった霧社事件の地を、僕は2010年の秋に訪問しました。台湾のおばあさんたちの支援組織である婦援会が、おばあさんたちのためのワークショップを、台中の日月潭という湖のそばで開き、そこに日本から何名かで参加させていただいたのですが、そのとき、僕の霧社をみたいという要望を聞いたホエリンさんが、おばあさんたちを伴った霧社見学をスケジュールにいれてくれたのです。

実は軽い気持ちで頼んでしまったのですが、霧社はずいぶん、山の上にありました。いつまで続くのかと思われるワインディングロードをえんえんとあがった先に霧社はあった。おばあさんたちを乗せた車で、この悪路を走らせてしまって申し訳ないと思いながら、僕は80年前にこの道を、「蕃族」討伐のために重武装で登っていった日本軍のことを思いました。

どこまでも続く深い山、それこそ霧がかかり見通しの悪い山々で、日本軍の兵士たちは、その山を自由にかける民を恐怖したことでしょう。そうして山の民は、自分たちの愛する山の精霊に祈りながら、登り寄せる日本軍を撃退するために果敢に戦ったのでしょう。

やがて車が霧社までつき、蜂起のリーダー、モーナ・ルダオをまつる碑などをみながら、僕はそこで行われた戦闘について思いをめぐらせました。そしてその場ではじめて、これまでもご一緒してきたイアル・タナハアマアのお父さんが、彼女がまだお母さんのおなかの中にいたときに、この事件で命を落としたのだということを聞きました。お父さんがどのような立場で亡くなったのかまでは分かりませんでしたが。

ちなみにこの蜂起を起こした部族は長い間、タイヤル族であるとされてきました。しかし実際はそうではなくて、セーダッカ族という人々なのでした。セーダッカ族は日本の学者によってタロコ族とともにタイヤル族の一員と分類され、「セーダッカ」という部族名はなかったのです。ところが最近になって、セーダッカの人々の自己認識が高まり、自分たちは独立の民族であると主張しはじめ、それが認められて、「セーダッカ族」が誕生しました。つい最近のことです。

こうしたことを背景にこの霧社事件をモチーフにした映画が台湾で作られました。その名も「セデック・バレ」です。多くの無名の人々が俳優として抜擢されたそうですが、主人公の妻であり、ヒロインの「オビン」をビビアンスーが演じました。

ちなみにそのオビンにもっとも早くから親しくなり、ベーシックな聞き取りを行ったのが、東京でアマアたちを長らく支援してきた「台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会」の中村ふじゑさんでした。今回も同行している柴洋子さんのお仲間で、僕も台湾の旅を何度かご一緒しています。

このようなことがあって霧社事件は僕にとって歴史の中の一つの「事件」ではすまなくなりました。僕が直接に交わってきた人々の近親者が主人公だった「事件」なのです。その捉えかえしが台湾の中で進んでいますが、日本の中でそれに手を染めたのは(最近の研究は知らないのですが)僕は中村ふじゑさんだけだったのではないかと思います。

だから今、それを僕が担いたい・・・そう2010年の秋に思いつつ、しかしその後の原発事故で、研究が途絶えてしまっていたのでした。あるいは今回はそれを再開させる旅なのかもしれない。そんなことを考えながら、花蓮へと向かいました。

続く