守田です。(20120926 09:00)

昨日午前11時に台北市の松山駅を出る特急に乗り、台湾東海岸の花蓮に向かいました。車中でお弁当やパンを食べながらの2時間の旅でした。花蓮につくとすぐにタクシーに乗り換えて、病院に向かいました。15分ほどでついた病院の一室に、イアン・アパイアマアが入院されていました。

イアンさんは、まだ少女だった17歳のときに、日本軍の手伝いに狩り出され、基地の近くの洞窟に連れ込まれててレイプされ、そのままそこでの性奴隷を強制されました。その場に通うことを強制されたのですが、彼女たちはそれを家族に離せなかった。タロコの厳しい掟のもと、結婚前に処女を失うと、激しい罰に会う可能性があったからです。

そうした社会的制約もあって、なかなか被害を訴えられなかった、タロコの被害女性たちが名乗りを上げたのは、韓国で初めて被害女性が名乗り出て、この問題が大きくクローズアップされたときのことでした。台湾婦女援助会が、同様の被害者はいなかと台湾全土にひろく呼びかけを行い、台湾の中からそれに応じて手をあげる人がではじめ、タロコの女性たちもようやく声をあげたのでした。

このとき手をあげた原住民の女性は全部で16人だったそうです。その中からカムアウトにいたった女性、カムアウトはできなかったけれども、尊厳を回復する運動には積極的に関わった女性、調査には協力したけれども、それ以上は動けなかった方などがいましたが、イワンさんは、自らの名をはっきりと告げ、それ以降に始まった日本政府を糾弾する運動の先頭に立たれたのでした。

彼女が普段話しているのはタロコ語、そのため彼女の証言のときには、おなじタロコ族で北京語の上手な方が通訳につき、タロコ語→北京語→日本語という通訳が行われますが、重要な部分になると、自ら日本語を上手にあやつって話されることもあります。

いつも威厳をたたえている彼女ですが、一緒にいると茶目っ気を披露してくれて、カメラを向けると必ずおどけたポーズをとってくれます。これは台湾のおばあさんたちに共通のことでもあるのですが、とくにイワンさんはおどけ方がうまい。

そんな彼女の病室に入ると、付き添いの娘さんと二人で静かに過ごされていました。今回は僕の連れ合いの浅井桐子さん、証言集会を共に担ってきた京都の村上麻衣さん、東京の柴洋子さん、ホエリンさんが一緒です。2010年秋に霧社まで訪れたときに、村上さんのお腹にいた2歳9ヶ月の灯(あかり)ちゃん、ホエリンの娘さんで2歳になる直前のリーシンちゃんも。この二人のかわいい子たちがいつも回りに笑いを広げてくれる。

病室にホエリンさん、柴さんが入っていくと、イワンさんの顔がほころびました。さらに僕と浅井さん、村上さんが入ってきたのを見て、一瞬、とても驚いた顔になり、続いてはじける笑顔を見せてくれました。「モリタさん・・・」僕の名前をしっかりと覚えていてくださいました。

お見舞いのお金(台湾ではお見舞いのときに赤い封筒に入れてお金を渡す風習があります。赤を使うのは、「よくなりましたね、お祝いです」の意です)とお土産を渡すと、遠い日本から来てくれて十分だ、こんなことをしなくていいのにと、ちょっと顔をしかめられました。そんなときの説得はホエリンさんが大得意。アマアの手にお金を握らせ、これで元気になってみんなを喜ばせてアマアを納得させました。

それからはとりとめもないお話。実は浅井さんは、この7月にもワークショップに参加しており、元気なイワンさんにお会いしています。ところがその後に、黄疸がはじまり、それが長引くので入院したところ、他にも悪いところが見つかったのだそうです。病状はまだまだよくはないらしい。

「この間、会ったときには元気だったのにねえ」と浅井さん。「でも顔色はいいね」と柴さんが語ると、「上等でしょう?」とイワンさん。台湾のおばあさんたちは好んで「上等」という日本語を使います。

そんなアマア、病状のよいときには家にかえることもできて、つい数日前も帰ったそうなのですが、家でぐっすり寝ることができたものの、翌日にはすぐに病院に戻ると言い出したそうです。病院に戻ってしっかりと病とたたかいたい。早く治療をしてもらってよくなりたいからとのことでした。アマア、病に前向きに立ち向かっているのですね。本当によくなって欲しいです。

ちょっと不思議なことがありました。ホエリンさんが、「何か心配なことはない?」と質問したときのこと。アマアは耳もちょっと遠いので、ホエリンさんが北京語で話し、付き添っていた娘さんが、タロコ語でアマアに伝え、タロコ語の答えが返り、北京語でホエリンさんに伝わり、英語になって僕らに届くのですが、アマアがタロコ語で答えたときに、なぜか僕らには意味が分かったのです。

これは「心配」という言葉が、タロコ語でも「シンパイ」と発音されていたためもあったと思いますが、なぜかこのとき、日本人一行には話の全体がすっとわかってしまった。台湾の部族の言葉にも、台湾語にもかなりの日本語が混じりこんでいるせいもあるのかもしれませんが、「シンパイ」という単語以外は分からないはずなのに、本当にすっと意味が入ってきた。

ともあれ、「ああ、アマアは心配なんかしないで、穏やかだけれどもここで前に向かって歩んでいるのだな」とそれが伝わってきて嬉しく思いました。アマアの手に点滴の針を何度も通した跡が残っていたので、そこを少しさすってあげました。そんな風にしながら、ゆっくりと時間がすぎていき、やがて病室を後にするときが来ました。みんなで記念撮影をし、アマアの手を握って、口々に「よくなってね」と伝えて、病室を出ました。

続いて向かったのはイワル・タナハさんのお宅でした。イワルさんは敬虔なクリスチャン。タロコ族にはクリスチャンが多い。彼女も知人が病で苦しんでいると聞いては、その家を訪ねてお祈りをあげてあげるような信徒さんです。でも彼女も最近は足が悪い。以前ほど活発には動けません。

その彼女の家を訪れるために、僕ははじめてタロコの方たちが多く住む地域を訪れることになりました。最初に驚いたのは、彼女たちの村をうしろから包み込んでいる山の圧倒的な存在感です。日本のどの山とも違う。急峻で背中に覆いかぶさるような威厳を持っている。畏敬の念が自然と沸いてくるような山です。

しかもはるか上のほうに霞がかかっている。何度も訪れている柴さんが、いつきても霞が見えるといっていましたが、それがさらに山の存在感を強いものにしています。そんな山が奥へ、奥へと連なっていることがわかります。

実はこの山をこちらから登って、えんえんと進んでいくと霧社につくのです。花蓮はそこから台湾の東海岸に降りてきた地域です。東海岸はいつも激しい台風に襲われてきたため、自然の荒々しさが、この急峻な山並みを作ったのかもしれません。典型的なリアス式海岸で、深く切れたった渓谷もある。かつてはこの地域も、漢族の入りにくいところだったのでしょう。自然の要害に囲まれて、タロコの人々はここに自分たちの楽園を築いてきたのかもしれません。

さてそんな急峻な山の裾野の家で、しかしイワルさんはとても穏やかな暮らしをされていました。私たちが入っていくと、ニコニコと笑わってくださいましたが、その目元はどこまでも穏やかです。あるいは信仰が彼女の精神生活を豊かにしているのかもしれません。

ここでも私たちはアマアを囲んで静かでやわらかい時間を過ごしました。子どもたちだけはキャッキャッとかしましい声をあげていましたが、イワルさんはかわいいねえと目を細めていました。アマア、いつまでもお元気でと握手をして、彼女の家を後にしました。

続いて花蓮を始めて訪れた僕のために、ホエリンさんが、少しだけ観光を入れてくれました。松園別館というハウスですが、旧日本軍が公館に使っていた建物が歴史遺産として展示されているものでした。台湾歴史百景の一つにも選ばれているのだとか。そこを訪れると、近くに高級将校が住んでいて、さまざまな儀式に使われた建物であることが分かりました。儀式の中には、特攻隊の兵士を集め、天皇から下賜されたお酒を出撃前に振舞うなどのことがされと書かれていました。

「そうなると、ここに慰安所もあったのでは?」そんな目で中を探索すると、本館の洋館の裏に、屋根が純日本風の建物のなごりが残されていました。名残というのは建物は往時のままには残っていなくて、ここを訪れた人々のためのカフェに変わっています。

しかしそれらに付されている展示案内を読み込んでいって、その一つに、「ここには階級の低い兵士たちが住んでいたり、慰安婦たちが住んでいて、ここで働いていた」というような記述がみられました。「やっぱりあったね、きっと特攻隊の兵士たちに前夜にいかせんたんだろうね」と話し合いました。

こうした話は実際に台湾の新竹という海軍基地に作られた慰安所で確認されています。そこには韓国のイヨンスさんというおばあさんが送り込まれました。彼女はある日自宅からさらわれて船に乗せられ、台湾に連れてこられて、特攻隊兵士の相手にした性奴隷をさせられたのでした。

こうした彼女たちの被害体験に比較は禁物なのかもしれませんが、特攻隊の兵士たちは、多くが純真な青年で、何より人を殺した経験のない若者でした。その点で、獰猛な殺戮部隊だった中国戦線の陸軍兵士たちとは様相を異ならせています。イヨンスさんも、さらわれて「慰安婦」にされた彼女の境遇を悲しんだ兵士と、ほのかな恋心を交わしています。

一度、イヨンスさんを我が家にお招きして泊まっていただいたことがあり、そのときに、僕が特攻隊について書かれた写真つきの書籍を彼女に見せてあげたのですが、航空帽をかぶって腕組みしている若い兵士たちの写真をみたせいか、彼女の夢枕に、かつて彼女と恋心をかわした兵士が立ったそうで、彼女は一晩中泣き明かしたと語っていました。

僕はその後、新竹の海軍基地から出撃した特攻機の記録を調べ、彼女との話から使われた機体を特定し、10数機の中の一機にまでその兵士の乗った飛行機を絞り込みましたが、それ以上、調べることが彼女の幸せにつながるのかどうかが分からなくて、そこまでで調査を終えたことがあります・・・。

そんなイヨンスさんの思い出から、この洋風の会館で、天皇から下された酒を飲み干している青年たちの顔が目に浮かぶような気がしました。そしてその彼らを迎えるためにそこに住まわされた女性たちの顔。彼女たちもあるいは韓国からの女性だったのかもしれません。

確かにその「行為」がここでなされながら、すべては霞の中に埋もれてしまっています。そのときここにいたおばあさんは、今、韓国のどこかでひっそりと生きているのかもしれない。そうであるとすればせめて幸せであって欲しいと思いました。ともあれしっかり記録しておかねばとビデオをもってぐるぐると建物の周りをめぐりました。

続けて、再びタクシーを飛ばして、タロコの方たちの住まう地域にもう一度行きました。イワル・タナハさんのおられたところとは離れたところで、その地域でとても印象的だったのは、町の中の家々の壁のいたるところに、タロコ族の姿をタイル模様のようなものであらわしたものがはめ込んであることでした。

「前からこうではなかったのよ」と柴さん。2004年に「タロコ族」として認められて以降、民族の尊厳をあらわしたこうしたものがたくさん設置されたのだそうです。タロコの誇りを全面に掲げている人々の息吹が伝わってきました。

お訪ねしたアマアは、僕にとっては初めての方でした。さまざまな事情からカムアウトはされていませんが、婦援会の活動は他のアマアたちと積極的に担ってきたのだそうです。カムアウトしたアマアたちを支えて頑張ってきたのですね。

そんなアマアはびっくりするほど日本語がお上手でした。ちょうどお連れ合いもいらしたのですが、このおじいさんも日本語が上手。話を聞いたら、夫婦の会話の多くが日本語なのだそうです。町の中での年寄りの挨拶も日本語が多いらしい。「こんにちは。どこにいくのなんて、毎日、話してるんだよ」とアマア。

「日本語が本当にお上手ですね」と語ったら、「私のときは小学校が3年しかなかったんだよ。少したったら6年になったんだけど、私は3年しか習えなかった」ととても残念そうに語られました。学校でもっとたくさんのことを習いたかったというアマアの気持ちが伝わってきました。

ここでもゆったりとしたやわらかい時間を過ごすことができました。アマアの家を去るときは、アマア、おじいさん、娘さん、それに飼い犬が並んで私たちを見送ってくださいました。アマアが終始、とても嬉しそうにしてくれていたので、来てよかったなと思いながら、アマアの家を離れました。

さてそれから花蓮から特急にのって帰ってきたので、台北到着は午後10時をまわっていました。僕は特急列車の中でレポートを書き続け、友人宅に帰って、まずはタロコ族のことを投稿しました。

そのとき、柴さんに被害の様子を質問したのですが、今、ここに紹介したアマアたちは、みなさん、いい仕事があると騙されて基地に連れて行かれ、軍が管理していた近くの洞窟に連れて行かれてレイプされたのだそうです。しかも次々と若い女性を呼び出していった。被害にあった少女は泣きながら戻ってきますが、その理由を友達に伝えることができない。

そうしてまた一人、また一人と日本軍兵士に呼び出されて、洞窟に連れ込まれ、レイプをされたのだそうです。そんな少女たち。それからみんなで手をつないで数珠繋ぎになり、おいおいと泣きながら自分たちの村への坂道を歩いていったそうです。「凄い聞き取りだったわよ」と柴さん。今、こうしてレポートを書いていてもその姿に涙が出てきてしまいます。

アマアたちを少しでも幸せに。そのためには、たとえ何時のことになろうとも、日本政府のきちんとした謝罪を引き出さなくてはいけない。そう再度、心に誓った花蓮への旅でした。

続く