守田です。(20160809 23:30)
今日は8月9日、長崎に原爆が投下されてから71年目の日です。
あらためてここで6日広島、9日長崎への原爆投下への怒りを表明します。
これまで繰り返し述べてきたことですが、原爆投下はまったくの戦争犯罪です。
アメリカはこの大犯罪を謝罪すべきです。今からでも被爆者への賠償を行うべきです。そして非人道で人類に対する犯罪そのものの核兵器を廃棄すべきです。
このことが実現されるまで、僕はこの声を上げ続けます。
今年の8月6日を僕は広島市で過ごしてきました。正確には前日、5日からの訪問でした。
朝早く宿泊地を発ち、広島電鉄の路面電車で平和記念公園へ。「原爆ドーム前」電停に着きました。
あたりではすでに集会が始まっていました。入り口付近に陣取っている人々を重装の機動隊がぐるりと包囲して異様な雰囲気。
僕は今日はできるだけ公園のあちこちを取材したいと思い、まずは式典会場に近づきました。そこには会場に入れないけれど、式典に近づこうとする沢山の方がおられました。
各地にテレビが設営されているのですがその前で式典に参加されている方も。テレビの式典の映像ではこういう姿が映らない。ああ、公園の中でいろいろな形で8時15分を迎えているのだなと思いました。
僕自身は原爆投下の時間=黙とうの時を原爆ドーム前で過ごそうと急いでバック。ドームの南側で投下時間を迎え、黙とうしました。ドーム周辺ではこの時間にあわせて多くの方がダイインを行っていました。
その後、公園の北側入り口付近で行われている広島の様々な市民運動の方たちの集会の場に合流しましたが、京都の見知った顔の方がたくさん参加していました。
そのまま一緒にデモに出発。広島の町を反戦反核反原発を訴えて、中部電力前まで歩きました。
その場ですでに行われていた中電前座り込みに合流。上関原発の建設中止や、伊方原発再稼働反対なども訴えながら一緒に1時間あまりの集会に参加しました。
さてその後にこの場で広島在住、ピースウォーク京都の活動を共にしたこともある友人と合流しました。。
彼に誘われながら、主に慰霊碑への訪問を中心とした市内周りを行いました。訪れたのは以下の地点です。
(1)旧日本銀行広島支店(中区袋町)
(2)袋町小学校平和資料館(中区袋町)
(3)堀川地区町民慰霊碑(中区新天地)
(昼)お好み村(中区新天地)
(4)「済美(せいび)学校之碑」、峠三吉「墓標」碑文(中区八丁堀、広島YMCA)
(5)歩兵第十一連隊之碑
(6)広島城跡(中区基町)
(7)大本営跡
(8)広島護国神社
(9)中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)、中国軍管区軍人軍属・動員学徒慰霊碑
(10)「大田洋子文学碑」(中区基町、中央公園)
(11)「相生通り」
(12)旧市民球場跡地に残る、広島カープ関連の顕彰碑
(13)ベンチと化している「被爆門柱」(中区大手町、平和公園)
(14)原民喜詩碑(中区大手町、平和公園)
(15)爆心地 島病院
(16)「原爆ドーム前」から広電に乗車、広島駅へ
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/f9/3c7a376548ac2931279c2e6355278885.jpg
それぞれに感慨深い訪問だったので一つ一つにコメントを記していきたいと思いますが、今日はその中でも最も大きなインパクトを受けた(4)「済美(せいび)学校碑」に触れたいと思います。
現在は広島YMCAの建物があるこの場にもともとあったのは済美国民学校。爆心地から700メートルの距離になります。
この学校は、旧陸軍の将校准士官の親睦組織である「偕行社」が経営していました。原爆が落とされた時、校舎には教職員5人と児童約150人がいましたが、全員が犠牲になったとされています。
広島市の観光サイトからこの碑のことに触れたものをご紹介します。
http://www.hiroshima-navi.or.jp/sightseeing/hibaku_ireihi/ireihi/1180645.php
ご覧になれば分かるように、小学校の男女児童が手をつないで立っている像が慰霊碑の中心にありますが、その背後の壁面の金属板に『墓標』という詩が刻まれています。
作者は「原爆詩人」、峠三吉です。1953年3月10日、わずか36歳で亡くなられるまで数々の原爆の被害を告発する詩を書かれました。
最も有名なのは次の詩です。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
これは「原爆詩集」の「序」として書かれたものです。次に続く長い本編を峠三吉は予測させていると思いますが、ここには天に向けて突き上げるような端的な怒りが込められており、激しく胸を揺さぶる詩です。
一方でこの詩集の「済美学校碑」では、そこで亡くなった子どもたちの痛み、苦しみ、哀しさ、淋しさに、身をよじるようにして寄り添おうとするような詩句が書き並べられています。
僕は読んでいて、峠三吉の子どもたちへの限りなく優しいまなざし、そして優しいがゆえに、子どもらの痛みを、自らに刻み付けんとするような詩の運びに共感して、思わず目がくもってしまいました。
ぜひみなさんにも読んでいただきたいと思ったので、以下、紹介します。(なお詩の中では学校名が「斉美小学校」となっています)
墓標
君たちはかたまって立っている
さむい日のおしくらまんじゅうのように
だんだん小さくなって片隅におしこめられ
いまはもう
気づくひともない
一本のちいさな墓標
「斉美小学校戦災児童の霊」
焼煉瓦で根本をかこみ
三尺たらずの木切れを立て
割れた竹筒が花もなくよりかかっている
AB広告社
CDスクーター商会
それにすごい看板の
広島平和都市建設株式会社
たちならんだてんぷら建築の裏が
みどりに塗った
マ杯テニスコートに通じる道の角
積み捨てられた瓦とセメント屑
学校の倒れた門柱が半ばうずもれ
雨が降れば泥沼となるそのあたり
もう使えそうもない市営バッラク住宅から
赤ン坊のなきごえが絶えぬその角に
君たちは立っている
だんだん朽ちる木になって
手もなく
足もなく
なにを甘え
なにをねだることもなく
だまって だまって
立っている
いくら呼んでも
いくら泣いても
お父ちゃんもお母ちゃんも
来てはくれなかっただろう
とりすがる手をふりもぎって
よその小父ちゃんは逃げていっただろう
重いおもい下敷きの
くらいくらい 息のできぬところで
(ああいったいどんなわるいいたずらをしたというのだ)
やわらかい手が
ちいさな頚が
石や鉄や古い材木の下で血を噴き
どんなにたやすくつぶされたことか
比治山のかげで
眼をお饅頭のように焼かれた友だちの列が
おろおろしゃがみ
走ってゆく帯剣のひびきに
へいたいさん助けて!と呼んだときにも
君たちにこたえるものはなく
暮れてゆく水槽のそばで
つれてって!と
西の方をゆびさしたときも
だれも手をひいてはくれなかった
そして見まねで水槽につかり
いちじくの葉っぱを顔にのせ
なんにもわからぬそのままに
死んでいった
きみたちよ
リンゴも匂わない
アメダマもしゃぶれない
とおいところへいってしまった君たち
<ほしがりません…
かつまでは>といわせたのは
いったいだれだったのだ!
「斉美小学校戦災児童の霊」
だまって立っている君たちの
その不思議そうな瞳に
にいさんや父さんがしがみつかされていた野砲が
赤錆びてころがり
クローバの窪みで
外国の兵隊と女のひとが
ねそべっているのが見えるこの道の角
向うの原っぱに
高くあたらしい塀をめぐらした拘置所の方へ
戦争をすまい、といったからだという人たちが
きょうもつながれてゆくこの道の角
ほんとうに なんと不思議なこと
君たちの兎のような耳に
そぎ屋根の軒から
雑音まじりのラジオが
どこに何百トンの爆弾を落したとか
原爆製造の予算が何億ドルにふやされたとか
増援軍が朝鮮に上陸するとか
とくとくとニュースをながすのがきこえ
青くさい鉄道草の根から
錆びた釘さえ
ひろわれ買われ
ああ 君たちは 片づけられ
忘れられる
かろうじてのこされた一本の標柱も
やがて土木会社の拡張工事の土砂に埋まり
その小さな手や
頚の骨を埋めた場所は
何かの下になって
永久にわからなくなる
「斉美小学校戦災児童の霊」
花筒に花はなくとも
蝶が二羽おっかけっこをし
くろい木目に
風は海から吹き
あの日の朝のように
空はまだ 輝くあおさ
君たちよ出てこないか
やわらかい腕を交み
起き上ってこないか
お婆ちゃんは
おまつりみたいな平和祭になんかゆくものかと
いまもおまえのことを待ち
おじいさまは
むくげの木陰に
こっそりおまえの古靴をかくしている
仆れた母親の乳房にしゃぶりついて
生き残ったあの日の子供も
もう六つ
どろぼうをして
こじきをして
雨の道路をうろついた
君たちの友達も
もうくろぐろと陽に焼けて
おとなに負けぬ腕っぷしをもった
負けるものか
まけるものかと
朝鮮のお友だちは
炎天の広島駅で
戦争にさせないための署名をあつめ
負けるものか
まけるものかと
日本の子供たちは
靴磨きの道具をすて
ほんとうのことを書いた新聞を売る
君たちよ
もういい だまっているのはいい
戦争をおこそうとするおとなたちと
世界中でたたかうために
そのつぶらな瞳を輝かせ
その澄みとおる声で
ワッ!と叫んでとび出してこい
そして その
誰の胸へも抱きつかれる腕をひろげ
たれの心へも正しい涙を呼び返す頬をおしつけ
ぼくたちはひろしまの
ひろしまの子だ と
みんなのからだへ
とびついて来い!
★斉美小学校――軍人の子弟のみを集めていた学校
なお引用は以下のページより行いました
峠三吉『原爆詩集』「墓標」 (広島文学館web)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/TOGE/TogePoems.html#12
いかがでしょうか。
僕がもっとも心を奪われたのは、次のくだりでした。
いくら呼んでも
いくら泣いても
お父ちゃんもお母ちゃんも
来てはくれなかっただろう
とりすがる手をふりもぎって
よその小父ちゃんは逃げていっただろう
重いおもい下敷きの
くらいくらい 息のできぬところで
(ああいったいどんなわるいいたずらをしたというのだ)
やわらかい手が
ちいさな頚が
石や鉄や古い材木の下で血を噴き
どんなにたやすくつぶされたことか
・・・そう。きっと子どもたちは痛みの中でもがきつつ、泣きながら「お父ちゃん」「お母ちゃん」と助けを呼んだことでしょう。
でも誰も来てはくれなかった。誰も来ることはできなかった。そのときの子どもたちの淋しさと不安の中に作者は入っていきます。
そして作者はあえてここで「とりすがる手をふりもぎって」逃げていった「よろの小父ちゃん」を登場させています。
そして次の一言。
「ああいったいどんなわるいいたずらをしたというのだ」
そう。いったいどんな罪がこの子どもたちにあったのでしょう。何一つ罪などなかったのです。
しかし子どもたちは業火に焼かれ、「石や鉄や古い木材の下で血を噴き」そして潰されていきました。
大人たちは子どもたちを助けることができなかった。子どもたちを守ることができなかった。
多くの子どもたちを、痛みの中で親にもあえず、実に孤独なままに死なせてしまった。
そんな大人としての己への悔恨も含めて、峠三吉はここに「よその小父ちゃん」を登場させたのではなかったか。僕にはそう感じられました。
続く
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守田敏也 MORITA Toshiya
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[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4