守田です。(20151209 19:00)

もう一月前になってしまいましたが、台湾での旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちの訪問記の続きを書きます。
今回、ピントンの小桃アマの次に訪ねたのは台北在住の陳蓮花(チンレンファ)アマでした。

レンファアマと私たち京都グループは深い縁で結ばれています。それはアマが初めて人まで被害体験を証言したのが私たちが呼んだ京都での証言集会の時だったからです。
アマは来日するまではまだ初めての証言をする決意ができていなかった。しかし京都に来て、私たちと心を通わせる中で「私も話す」と起ちあがってくれたのでした。
この時のことを2006年に僕があるところに投稿した文章からご紹介したいと思います。アマが仏教大学で講演した時のもとです。ちなみにこのときアマはまだ陳蓮(チンホア)という仮名を使っていました。

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アマはフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。

陳樺(チンホア)アマは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していきました。
渦中にいたアマはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。

そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。
その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」。
「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。
そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。
私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。
陳樺アマの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。

残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。
こにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

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2006年・・・もう9年前です。私たち京都グループが初めて台湾のおばあさんたちを呼んだ時のことでした。一緒に呼んだのは呉秀妹(ウーシューメイ)アマと、タロコ族のイアン・アパイアマ。お二人とももう亡くなられてしまいました。
蓮花(レンファ)アマ自身は、この後、どんどん逞しくなっていかれた。どこででも背筋をピンと伸ばして、堂々と体験を語り、日本政府を批判するようになりました。お会いするたびに逞しくなっていくアマの姿は眩しいほどでした。
そうして気づけばアマは今生きておられる4人のアマのうちの一人となり、一番お元気な姿を見せて下さっています。昨年5月には映画『蘆葦之歌』の東京上映会のために最後の訪日もしてくださいました。

そのアマの家に訪れると、なんとアマはとてもきれいに着飾って待っていてくれました。オーダーメードのピンクのシックなチャイナドレスを着て、とても素敵な金のネックレスをかけ、バッチリメイクしてくれていました。
もともとおしゃれなアマですが、今まで見た中で一番きれいに決めてくれていたかもしれない。
みんなが「アマ、きれい」と歓声を上げると、素知らぬ顔をしながら日本語で「年とったよ。耳、聞こえないよ」とだけ返してくる。でも顔には嬉しそうな笑みがはじけています。

その後、買ってきた朝ご飯をみんなで食べました。これも台湾流です。台湾は屋台文化がとても発達しており、朝から開いているお店もとても多い。街中に行けばいつでもご飯が買える。
このため多くの人々が朝、家を出てから近くでご飯を買い、目的地に向かっていくのです。
もちろん、こうして買ったものはどこでもいつでも美味しい!この時も万頭やら豆乳やらが入った袋を幾つも下げてアマの家に入り、そのままわらわらと包みを開けてみんなでほうばりながらの会話が続きました。

アマは今年92歳。初めて京都に来た時は、一緒に金閣寺の境内を元気に歩いてくれましたが、もう足が悪いのだそうです。外出時は車イスを使っています。
それでも本当にとてもきれいにしてくれて、僕らを待ち、相変わらず背筋をピンと伸ばして応対してくれました。
アマにとって私たちの訪問が、こんな素敵な晴れ舞台になるのなら、何度でも訪ねて差し上げたいなと思いました。

その後、記念撮影。まずは起ちあがって手を振るアマを何台ものカメラが取り囲みます。アマはカメラ目線を順番に返してくれて完全にセレブ状態。
続いて僕がツーショットを撮らせてもらったら、みんなが「私も私も」となりホエリンなんかはアマに抱き付いてポーズ。
たくさんの写真を撮ってからお別れの時間となりました。

「またいらっしゃい!」と大きな声で私たちを見送るアマ。
「来るよ。必ず」とみんなで何度も応えながら、手を振って家を出ました。そう。必ずまた来ようと思いながら。

こうして今回のおばあさんたちの訪問を終えました。
あと何回、こういう出会いを重ねられるか分かりません。でもまだまだアマたちは命の炎を燃やしてくれています。そんなアマたちの横顔、「被害者」という言葉に収れんされない一人一人のアマの顔を伝え続けたいです。

続く