守田です。(20150907 21:00)

昨日9月6日午前中に、兵庫県篠山市に赴き、篠山市消防団350人に原子力災害対策についての講演を行ってきました。
神戸新聞に記事が掲載されたのでご紹介します。

災害に備えを 防災研修会に消防団員340人 篠山市
神戸新聞 2015/9/7 05:30
http://www.kobe-np.co.jp/news/tanba/201509/0008372701.shtml

篠山市消防団は団員約1200人。これまで350人規模、500人規模、350人規模と3回の大きな講演を行ってきました。初回は班長級以上でしたが2回目、3回目は一般の隊員の方も参加いただき、団員の大半の方が一度は講演を聞いてくださったことになります。
印象的なのは毎回、参加者がとても熱心なことです。毎回、午前中の開催なのですが、広い会場を見回しても寝ている隊員は一人もいない。さすがに命を守る場に何度も立たれてきた方たちだなと思いました。話のしやすい場でした。

篠山市での取り組みへの参加はこの秋でまる3年になります。第1回篠山市原子力災害対策検討委員会が開かれたのは2012年10月24日のこと。以降、13回の会議を重ねるとともに、二つに分かれた避難計画作成の作業部会を何度も開いてきました。
会議の様子が篠山市ホームページに記載されています。(作業部会は割愛されているので、途中、開催が途切れているように見えますが、もっと多数の取組が維持されてきました。)

篠山市原子力災害対策検討委員会
http://www.city.sasayama.hyogo.jp/pc/group/bousai/post-11.html

ここでこの3年間の取組を振り返ってみたいと思います。ぜひ多くの地域での参考にしていただきたいと思ってのことです。

僕自身が原子力災害対策に取り組み始めたのは、2011年の秋に同志社大学女子寮の松蔭寮の防災訓練に招かれたことがきっかでした。友人で寮母の蒔田直子さんから「原発事故が起きたらどうしたら良いか学生たちに教えて」と頼まれたのでした。
このとき僕は福島原発事故以降に学んできた知恵を総動員して原発事故が起こった時に一番必要な知恵とは何かを考え、伝えようとしました。

福島原発事故が起こった時、僕はすぐさま原発情報の発信を始めました。それはNHKディレクターの七沢潔さんが書かれた『原発事故を問う チェルノブイリからもんじゅへ』(岩波新書1996年)という本を読んで以来、決めてきたことでした。
七沢さんは同書の冒頭でこう書いています。「私にはもんじゅ事故の周辺に、チェルノブイリ事故が発していたものとよく似た『におい』が感じられてならないのである」(同書P5,6)
彼は旧ソ連が人々に事故の深刻さを伝えず、迅速な避難措置をとらなかったこと、それと似た体質を日本が持っていることを本書の中で詳述していました。「だとしたら日本でも原発事故の際、同様のことが起きる」と強く思いました。
そのため「大地震などがあったときは近くの原発の状態を確認する」「自分に近いならすぐに避難に移り、遠いなら避難の呼びかけをはじめる」ことを心に決めていたのでした。

このため福島原発事故後にすぐに情報発信を始めました。当初は「東北地方太平洋沖地震について」という題で11本、続いて「地震続報」の題で35本の記事を書き、3月26日からタイトルを「明日に向けて」に変更して発信を続けてきました。
政府や電力会社が的確な情報を出してくれないだろうことはまさに「想定内」でしたが、ところが僕にとって以外だったのは、マスコミをはじめ社会の多くの人々が「事態はそれほど深刻にならずに収まっていく」というトーンを打ちだしたことでした。
この中にはそれまで反原発を唱えて頑張ってきた方もいました。「事故はこれ以上拡大しない」「チェルノブイリと比較にならないほど軽い」というものから「事態が深刻化するという恫喝に屈するな!」などという激しいものまでありました。
新聞もわずか2週間ぐらいで深刻なトーンが薄まりだし、どんどん危機感がトーンダウンしていく。正直なところ驚きました。僕はこの事態を先々歴史家が「何とも奇妙な数週間」と呼ぶのではと考え、以下の記事を書きました。

明日に向けて(10)「何とも奇妙な数週間」の中を生きる
2011年3月30日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/cf1a7be79e64b001de6f0659f0ceed89

実際、このころはまだ福島原発4号機の燃料プールの状態が安定しておらず、大変な危機が起こる可能性が濃厚にあった時期でした。
内閣では3月25日に原子力安全委員会の近藤委員長から、「最悪の場合、福島原発から半径170キロ圏を強制避難にせざるをえず、希望者を含む避難ゾーンが東京を含む半径250キロ圏になる」(近藤シナリオ)という報告が出されたました。
にもかかわらず、マスコミのほとんどが危機を語ろうとせず、そればかりか「放射能が来る」というタイトルを載せた「アエラ」が猛烈なバッシングを受け、編集長が謝罪せざるをえないような事態すら発生していました。
「大変な危機なのに危機をみようとしない。むしろ危機を口にするものをバッシングする。この事態はなんなんだ」と憤りと嘆きの混在した感情に包まれたことをよく覚えています。

このため僕が発した「何とも奇妙な数週間を生きる」という発信に、友人が応えて送ってくれた情報の中に、今の状態は災害心理学に言う「正常性バイアス」に覆われた状態なのではないかという指摘がありました。
友人は2010年5月に中日新聞に載ったスマトラ地震に関する記事を紹介してくれました。迫りくる津波を前にある人々がそれを目撃しながら避難行動をとらずに飲み込まれてしまったことを解説したものでした。
記事には以下のように書かれていました。「現代人は今、危険の少ない社会で生活している。安全だから、危険を感じすぎると、日常生活に支障が出てしまう。だから、危険を感知する能力を下げようとする適応機能が働く。
これまでの経験から「大丈夫だ」と思ってしまいがちだ。これが「正常性バイアス」と呼ばれるものだ。」早速僕はそれを「明日に向けて」に載せました。

明日に向けて(12)避難を遅らす「正常性バイアス」
2011年3月31日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/47e99b860ac0c9fc53a78165a2aa6a2e

この点に気が付いたのはとても大きなことでした。目の前の霧が晴れた思いがしました。「何とも奇妙な」雰囲気の正体が「正常性バイアス」であることが分かったからです。
同時に自分自身が正常性バイアスを知らぬ間に越えて出ていたことも自覚しました。一つには事前に「原発で重大事故があったときに、政府は旧ソ連のように人々を逃がしてくれないだろう。その時は逃げろと叫ぼう」とシミュレーションしていたことでした。
もう一つは事故後に事態がチェルノブイリ事故をも上回るような破局にも発展しうることに対して腹がくくれたからでした。

続く