守田です。(20150821 09:00)

後藤さんとの対談の文字起こしの4回目をお送りします。最終回です。
今回は前回のベントの問題に続いて、ベントが行われた場合のアメリカと日本の抜本的違いについての後藤さんの解説を起こしてあります。
さらに技術論において安全とはどのように考えられるものなのかを原発に即して論じていただきました。
最後に後藤さんとのお話に対する僕の感想を述べました。

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福島原発事故からつかむべきこと
2015年8月14日 後藤政志&守田敏也 対談 東京品川にて
https://www.youtube.com/watch?v=TKJNkgNOgaI&feature=youtu.be

4、安全についての考え方を身につけることが問われている
(24分40秒から)

後藤
それともう一つは、ずっと考えていたのはアメリカは何であれでいいのかです。日本はそれを真似ているのですけれども、そこに非常に問題があると思います。
その意味は、アメリカは国土がむちゃくちゃ広いのです。例えばカリフォルニア州一州と日本が面積が近い形で、そうすると原発の密度がけた違いなのです。
そうすると万一事故が起こった時に、最悪の場合、極論しますと、カリフォルニア州を捨ててもアメリカは成立するわけです。日本はどうかというと成立しないのです。
リスク論と安全屋さんがよく言います。僕はリスク論は好きではないのだけれども、仮にリスク論で語るとなると、彼らはリスク論が分かっていないと僕は思うのです。
僕なりに理解しているところだと同じ確率だったら100倍も危ない。100倍も1000倍も危ない。だって片方は州が無くなるレベルでしょう。片方は国が無くなるレベルじゃないですか。「どうですか」ってね。
それを同じ数字で10のマイマス6乗だとか7乗とかいう数字を出して喜んでいるわけですよ。日本の方が優れているとか言って。地震のリスクも津波のリスクも高いのに。
そのリスクの高さ、被害の時の影響度、そういうことをまったく配慮しないままに考えてきたのが日本のリスク論者なのですよ。

守田
このベントの問題一つとってみても、原発の根本的な矛盾をずっとお話されてきたと思うのですね。
今日はこういうお話の最初ということで、今日の最後にお聞きしたいのは、この根本矛盾がなかなか伝わりませんよね。
マスコミのみなさんもそれなりに一生懸命に報道されているとは思うのですけれども、やはりこのポイント、例えば今でも「ベントをちゃんとつけていないのがおかしい」みたいなことを言っていて、そこをどう覆そうとするのか。
後藤さん自身、そこでもがいて苦労されてきたと思うのですけれども、そこでの考え方をうかがいたいと思います。

後藤
もともと最終的に放射能を閉じ込められるかどうかに尽きるわけですよね。それが確実にできるならばどんなものでもいいのです。
ですけど、フィルターもそうですけれども、そういう装置を付け足して放射能を閉じ込めるということには必ず限界があって、最後は格納容器本体が意味をなさなくなるのですね。
それは原子力の設計の根幹が失われるわけです。ですから私は最初から格納容器そのものを見直せという表現をしているのですね。

いいか悪いか分からないのですが、もともと格納容器というのはパッシブセーフ、受動的安全、つまり何も機械を動かさなくても、格納容器を隔離弁を閉じて鎮めると何もしなくてもそれで持つというのが格納容器の概念なのです。
それを「ある時には持たなくなる」と言ったとたんに破綻しているわけです。ですから「自殺」と言う表現もとりましたが破綻しているわけなのです、設計思想が。
そうすると破綻したものを取り繕うこと自身が、私も教えている設計工学で言っても設計のあり方として間違っているのです。根本のところを変えずに付けたし付けたしでやれば必ず破綻するというのが設計学の常識で、いつも「やめろ」と教えているのです。
それなのに自分がやったことがそうなっているでしょう。どうみても納得できないですよ。それが正直なところです。

そうするとどこに行きつくのかというと、どうみても今よりももっと格納容器をやることで少しは改善されるのですけれども、それすらもやらない。
今のままやるということはそのままリスクを背負っているわけで、とてもではないけれども福島を反省したことにはならない。
究極的には確実に全部閉じ込めるということが人間の技術では無理ということになるので、そこまでして原子力をやる必要があるのかということに尽きると思います。

守田
私は、直接的には後藤さんとは原発の問題でお話しているわけですけれども、これはやはり技術論全体に関わることだと思うのですよね。
その点で単に原発のことだけではなくて、多くの市民の方が安全工学の観点と言いますが、そういうものを見につけることが私たちの社会全体の安全性を高めることになると思うのです。

後藤
そうですね。いわゆる安全工学と言ったときに、APASTでも議論してきているのですけれども、安全学というのもあって捉え方がいろいろあって、それによっては180度も違うものにもなってしまいます。
それで本当の安全とは何かということを意識して議論していきたいと思います。
守田さんが私の発言を拾ってくださる時に、結構、そういう観点が入っているので、凄く私としても嬉しいところです。これからもよろしくお願いします。

守田
こちらこそこれからもよろしくお願いします。

後藤
今日はどうもありがとうございました。

守田
ありがとうございました。

対談文字起こし 終わり

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今回、30分と短い対談の中で、基本的にはこれまでお聞きしてきた内容を再度うかがう形になりましたが、あらためてこのようにお話し、かつ文字起こしをすることで、新規制基準の下での再稼働の根本的限界を再認識することができました。
後藤さんが最後におっしゃられたように、福島原発の教訓を生かして原子力を続けると言うのであれば、技術的にはこれまでの格納容器を見直し、再設計を行わなければならないはずなのです。
なぜかと言えば、格納容器は放射能漏れに対する最後の砦であり、受動的安全を確保する装置として、弁を閉じてしまえばそれで事故を収束させることができるものとして設計されているからです。

実際にはそうではなかった。いやそれは福島原発事故で分かったのではなく、事前にそうならずに格納容器が壊れてしまうことがあることも分かっていたから「ベント」がつけられたのです。
しかし設計工学では、そのように設計の根本を変えずに後付けを重ねて安全対策を行っても必ず破綻すると言われているのです。その点で新規制基準は設計工学、安全工学に完全に背いたものでしかありません。
そもそもある意味ではそれを認め、開き直っているがゆえに「安全だとは言わない」と規制庁が公言しているのでもあって、技術論的にはこの点の矛盾だけで、再稼働は絶対に認められないことを何度でも強調していく必要があります。

その意味では原発が必要か否かという論争のよって立つパラダイムそのものも、すでにひっくり返っていることを認識しておく必要があります。
なぜなら必要か否かという論争の前提には、原発が安全に運用できる、ないしは事故のリスクがものすごく「低い」ことがおかれているからです。
実際にはまったくそんなことはない。福島原発事故の教訓すら何ら生かされていない。本質的につけたしでしかない新規制基準のもとでの対応で、事故の根本的なリスクは何ら軽減されていないのです。

この点を繰り返し、発信していくことで、川内原発をもう一度停めるとともに、他の一切の原発の再稼働も許さない世論、民衆の力を高めていきたいと思います。
そのために今後も後藤政志さんに学び続け、今回の対談のようなコラボを行わせていただきたいと思います。
私たちの命を守り続けるために、なお一層、奮闘します!