守田です。(20150717 00:30)

今回は今後の僕自身の講演スケジュールを簡単にご紹介し、そこで何を話したいのかを記しておきたいと思います。
7月下中から8月中旬までをご紹介しますが、ちょうど戦後70年、被爆70年の8月を迎えるので、どこでも「戦争と原爆と原発と放射線被曝のつながり」について話したいと思っています。
といってもそれぞれの場のシチュエーションや主催者の意向によって多少のバリエーションをもって臨むことになりますが、ともあれ僕としては以下のようなお話を軸にするつもりです。

私たちはいま、戦争法案を廃案にすべく奮闘しています。原発の再稼働を食い止めるためにも奮闘しています。
僕が強調したいのは、この二つが本当に分かちがたく結びついている点です。そこに私たちが今も苦しんでいる大きな根拠もあります。
戦後70年、被爆70年の今、私たちはこのことへの認識をもっと大きく広げ、共有していく必要があります。

原発再稼働にあたって、原子力規制庁は「これまでは重大事故を想定していなかったからいけなかった。これからは重大事故にも備えて原発を動かす。そのために新規制基準を作った」と言っています。
だから「新規制基準に合格したからといって安全とは言わない」と繰り返し表明してもいます。
そのことと対になってさまざまな形で流布されているのが「たとえ被曝しても放射能の被害はたいしたことはないのだ」という言質です。このことと福島の被曝地への帰還の強制がセットで行われています。

どうして「被曝国」と自他ともに認めてきた日本でこんなことがまかり通ってしまうのでしょうか。
実はこの国が、まさに被爆国であるからこそ、アメリカによってもっとも徹底的に放射線被曝の過小評価を植え込まれてきたからです。
原爆を落とした加害者のアメリカが被害者の被爆者を調査し、徹底した被害隠しを行い、歴然と身体にあらわれた症状を「被曝の影響を怖がり過ぎるが故の気の病」だと断じてきたからです。

この加害者アメリカの行いに、戦争終結の瞬間から全面的に協力してきたのが旧軍部であり日本政府でした。
とくに日本軍幹部は、中国大陸での人体実験や軍が関与した性奴隷制度など、さまざまな戦争犯罪を訴追されることを恐れ、進んで原爆の威力の調査と被害隠しに協力したのでした。
このもとで被爆者は本当に塗炭の苦しみの中におかれ続けました。

アメリカが行った放射線被曝の過小評価は、被曝の影響が半径2キロ以内にしかおよばなかったのだと断言することで行われました。
実際には放射能の塊であるキノコ雲が広がった地域にはどこでも放射性物質が降り、人々を内部被曝させました。しかしアメリカは内部被曝の影響を一切認めずに調査からも除外したのでした。
こうして放射線の影響は、外部被曝のみにされてしまいました。

しかもその被害調査も、原爆投下から何年も経ってから始められました。より放射線に敏感だった人々の多くが、悶絶の苦しみの末に亡くなったあとに始められたものだったのでした。
つまりアメリカが作ったデータは、より深刻な被曝を受けた人々が除外されたものでしかなかったのでした。
こうして二重三重に過小評価された内容が、被爆者調査のデータとされ、そのもとに「放射線防護学」という名の、外部被曝の影響しか評価しない、放射線被曝の過小評価体系ができあがったのでした。

こうした内部被曝隠しのことを、物理学者の矢ヶ崎克馬さんは「隠された核戦争」と呼んでいます。
なぜなら広島・長崎への原爆投下直後から、欧米の科学者などから核兵器は遺伝的影響をもたらす非人道的兵器であり、全面的に禁止すべきだと言う大きな声があがっていたのでした。
アメリカの軍部や兵器産業を中心とする核戦略を維持し、推進したかった人々は、こうした科学者の声に対し、放射線の影響を徹底して小さく見せることで、核兵器を生き延びさせてきたのです。

しかもこのもとでアメリカは、広島・長崎の被爆者に対してだけでなく、全世界の人々に被曝を強制していくことになりました。相次ぐ核実験の強行を通じてです。
これに社会主義を目指していた旧ソ連が呼応し、最悪の大気中核実験競争が始まってしまいました。広島・長崎で放出された量をけた違いに上回る放射能が世界中に何百回にもわたってばらまかれました。
もっとも手酷い仕打ちを受けたのは核実験場にされた南太平洋の島々の人々でしたが、核爆弾の相次ぐ炸裂によって全地球的規模での被曝が強制されました。同時代人である私たちも確実にその被害者の一人であることを自覚すべきです。

この米ソの核実験の応酬に対し、当然にも世界中から批判の声が高まり始めました。
とくにアメリカが1954年に行った「キャッスル作戦」、中でも3月1日に行われた初の実戦使用可能な水爆実験(ブラボー実験)で、日本のまぐろ漁船、第五福竜丸が被曝したことに対し日本の中で核兵器反対の猛烈な運動が起こり、世界に波及していきました。
実はこのとき被曝したのは第五福竜丸だけでなく、1000隻近い日本の漁船をはじめ、被害はけた違いに多かったのですが、ともあれこのときに発した世界的な運動は、1963年の大気中核実験を禁じた部分的核実験禁止条約の締結に結びついていきました。

アメリカをはじめとする核保有国は、この核兵器反対運動にも対抗する必要がありました。その中で編み出された来たのが「核の平和利用」キャンペーン=原子力発電の開始でした。
もともと原子炉はウランからプルトニウムを生み出すために作りだされた装置であり、プルトニウム型原爆の製造装置の一部です。
その時に出る膨大な熱を処理する過程で、冷却材に水が使われるようになり、そのとき発生した蒸気にタービンを連動させて生み出されてきたのが原子力発電でした。

アメリカは日本でこそ、原発を普及させようと画策しました。なぜか。被爆国日本で原発が根付いてこそ、悪魔の兵器=核爆弾のイメージが薄らぎ、原子力の平和利用を定着させることができると考えたからでした。
そのことで全世界的な盛り上がりを見せていた核兵器反対運動を鎮静化させ、核戦略を生き延びさせることがめざされたのでした。また同時に核兵器製造だけでは賄いきれない濃縮ウランの使用先=需要を作り出すことも目的でした。
このためアメリカは自民党政権への執拗なアプローチを繰り返し、後の中曽根首相を読売新聞とともに抱き込んで、地震大国日本への原発の相次ぐ導入を図ったのでした。

私たちが押さえておかなけばならないのは、この一連の流れがすべて「隠された核戦争」であったということです。
その中軸をなしていたのは内部被曝隠しによる放射線被曝の徹底した過小評価でした。このもとで不安を抱く周辺住民を抑え込みつつ、極めて深刻な被曝労働の存在を大前提とする原発が、アメリカ、日本を始め世界各地に建てられていったのでした。
これと連動しつつ、被爆者に対しては引き続き、被曝の過小評価のもとでの抑圧政策、切り捨て政策が続けられ、被爆者の多くの方が深刻な放射線障害を被りながら一切認められず、救済されず、差別に晒される状態が続きました。

この際、気を付けていただきたいのは、被爆者というと原爆の影響を受けたすべての人々が数え上げられているかのような誤解をしている方もいると思うのですが、実際には法的に認められ「被爆者手帳」を手にした「被爆者」はわずかだったということです。
2キロ以内で熱戦や放射線を受けながら、証明できる人がいないという名目で認められなかった人々もいれば、爆心地からの距離で切り捨てられた人々もたくさんいました。
いやそれだけでなく、ものすごく膨大な人々が、爆心地から離れたところで内部被曝をし、病に苦しみ抜きながらも、被曝の事実に気が付かずに亡くなっていったに違いないことです。法的に認められた「被爆者」は被ばくした人々の一部でしかないのです。

いや核実験のことを考えるならば、私たちのすべてがヒバクシャであり、なおかつこれから生まれてくる子どもたちも被曝を続けるということです。
なぜなら半減期2万4千年のプルトニウム239や、300年経たないと環境中から消えていかないセシウム137やストロンチウム90の影響がまだまだ続いていて、生きている限り私たちはそれを摂り込まざるをえないからです。
大事なことはだからこそ、核戦略推進派、あるいは世界の原子力村は、被曝の影響を徹底して小さく見積もり続けているのだということです。

これらのことを考えるとき、私たちは被爆70年の今こそ、原爆被害の実相に迫る調査を行い、被害を世界に問う必要があります。
中でももっとも大事なのは放射線被曝の過小評価への批判です。内部被曝の人体への影響が一切認められてこなかったことを明らかにすることで、放射線防護体系を一から見直すことこそがなされなければなりません。
放射線に対する規制値=我慢の値を、空間線量で年間1ミリシーベルトとしている体系、放射線の危険性を外部被曝しか評価することのできない空間線量で決めている体系そのものも、抜本的な見直しに進む必要があります。

そのためにも、今一度、私たちは核兵器が許されざる非人道的兵器であり、即刻、全面的に使用を禁止すべきであることを訴える必要があります。
なおかつ唯一、実戦での使用を、非戦闘員に対して行ったアメリカ合衆国に対して、戦争犯罪に対する真摯な謝罪を行うべきことを求めていく必要があります。
これほどの戦争犯罪を行いながら謝罪をしてこなかったことこそが、この70年間、アメリカをより暴力的で残虐な国へと変えてきたのです。この長い殺りくの道のりからアメリカが転換するための手助けとしても、私たちは謝罪を求めていく必要があります。

もちろんアメリカに戦争犯罪の謝罪を求める私たちは、日本が行った数々の侵略行為や性奴隷制問題などの戦争犯罪を自ら率先して謝罪していく必要があります。
そのことと相即的にアメリカの戦争犯罪を告発し、謝罪を求めてこそ、この国は世界の中で本当に名誉ある地位を占めることができます。
アフガン・イラク戦争など、あまりに理不尽な戦争をしかけられてきたイスラム圏の人々の煮えたぎる怒りを大きく抑えることができるのも、日本が自らの戦争犯罪を謝罪しつつ、アメリカの戦争犯罪を告発することだと僕は思います。

そのことを進める中で、私たちは「隠されてきた核戦争」としてある、放射線被曝の過小評価の歴史を表に出し切り、その中で、核からの真の意味での離脱・解放の道を切り開いていこうではありませんか。
戦後70年、被爆70年を迎えるこの夏、すべての方たちとこうした論議を一緒に深めて行きたいと思います。
ぜひお近くの方は講演会にお越し下さい。また講演に来られない方は、動画や文字起こしでこうした内容を配信しますので一緒に討論を重ねて下さればと思います。

戦争法案と対決するだけでなく、核の時代の総体と向かい合い、暴力にまみれた人類前史を越え出て、友愛を中心とする人類後史に移る可能性を切り拓いていきましょう!

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以下、講演スケジュールを簡単に記しておきます。(詳報は今後の号で行います)

7月21日19時より  京都府八幡市文化センターにて
7月24日10時より  広島県尾道市向島シェアハウスにて
7月24日18時より  広島県尾道市中央図書館にて
7月25日午後より  岡山県瀬戸内市前島 保養キャンプにて
7月26日14時半より 広島県福山市福山駅近く元そごう7階セミナールーム
7月27日午後    岡山県和気町(場所未定)

8月4日午前・午後 滋賀県・信楽ショートステイ 保養キャンプにて2回講演
8月5日午前・午後 滋賀県・びわこ123キャンプにて2回講演 フィンランド学校にて
8月5日夜間    滋賀県・近江舞子保養キャンプにて講演

8月8日午後    長野県伊那谷のお祭りにて講演

8月11日12時半より 群馬県玉村町 玉村ベースにて
8月11日18時半より 群馬県高崎市 SLOW TIMEにて
8月12日14時より  群馬県榛東村 はるな山麓 農cafeにて
8月12日18時半より 群馬県渋川市 Yes ToRino cafeにて
8月13日10時半より 群馬県桐生市 レンタルホール れんが蔵にて
8月13日13時半より 同所にて

8月14日18時より  東京都高円寺 緑の党事務所にて