守田です。(20150310 20:00)

今日、3月10日は東京大空襲から70年の日です。この日未明、アメリカは東京に住まう人々を空から襲い、10万人以上を焼き尽くしました。今こそ東京大空襲を問い直し、アメリカに戦争犯罪への謝罪を求めたいと思います。

この間、放射線防護活動ばかりでなく、中東の問題や集団的自衛権に関する講演を依頼されることが増えてきました。僕が強調しているのは、大量破壊兵器などなかったのに一方的に攻め込んだイラク戦争の犯罪性を捉え返すことです。
さらに私たちはイラク戦争だけでなく、これまでアメリカが繰り返してきたさまざま戦争犯罪に目を向ける必要があります。
なぜそう思うかと言えば、アメリカが横暴を繰り返す理由のひとつに、わたしたち日本人が、広島・長崎原爆や、沖縄戦、東京・名古屋・大阪をはじめとした都市空襲での民間人の大量殺戮へのまっとうな批判を怠ってきたことがあると思うからです。

中国や朝鮮をはじめとするアジアの人々と対話するとき、わたしたちはかつての侵略戦争のことを思わないわけにはいきません。それを無視しては友好も成り立たないし、むしろ捉え返しの中でこそ友情を深めることができます。
おなじことがアメリカ人との間にもあっていいし、もっとそんな機会を作らなくてはならないと思います。私たちはアメリカの人々に対して「あなたたちは過去の民間人大量殺戮をどう考えますか」と問わなければいけないのです。
過去の戦争を捉え返すことは何よりもその国の人々のためになります。アメリカ人もまた酷い殺人に何度も加担させられる苦しみを背負ってきているのだからです。ベトナム戦争でもイラク戦争でも戦死者を退役後の自殺者が上回っています。

この点を強調するのは、私の亡き母が東京・深川の出身で、大空襲の中を逃げ惑い、機銃掃射などにさらされながら辛くも生き延びた経験を持っているからでもあります。
母方の実家は生粋の江戸っ子の家で、親戚の皆が、映画『男はつらいよ』の登場人物のようなしゃべりかたをするのですが、その人懐っこい東京庶民の頭上に、アメリカは容赦なく大量の爆弾を降り注いだのでした。
陸軍中尉だった亡き父も、香川県善通寺に本体のいた陸軍船舶隊で原爆の報を聞きました。部隊は救援のために呉まで行き、偵察隊が広島市内に入って二次被曝で亡くなりました。父は入市はしませんでしたが放射能は呉まで届いていました。

若き娘だった母はいうまでもなく民間人でした。父は軍人でしたがすでに日本軍は抵抗力のほとんどを奪われていました。その無抵抗の人々を無差別かつ組織的に大量殺戮したのがアメリカの都市空襲であり、原爆投下だったのです。
アメリカは沖縄では地上戦をしかけました。軍人と民間人を区別なく攻撃し、島民の四分の一を死に至らしめました。にもかかわらずアメリカは民間人大量殺戮の繰り返しをただの一度も反省も謝罪もしていません。日本政府も一度も批判をしていません。
私の命は東京大空襲と広島原爆の狭間から生み出されたものです。だから私には平和を守り創造していく責務があると思っています。この観点から、70年目のこの日に、東京大空襲を問い直してみたいと思います。

310大空襲の実態

そもそも米軍による東京への空襲は合計で106回も行われたのですが、最大のものが3月10日未明に行なわれたいわゆる3・10大空襲でした。
空襲の実態は、自らも被災した早乙女勝元さんの『東京大空襲』(岩波新書)や『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)にその断片が記録されています。
日本政府は、戦後、東京空襲をはじめ都市被害の実態把握を推し進めようとはしませんでした。そのため公式記録があまりに少ないのですが、自ら空襲をうけた早乙女さんは執念をもって聞き取り調査を行い、これらの書物を執筆しました。

3・10空襲の概要は以下の如しです。10日未明零時過ぎに東京上空に約300機のB29が飛来しました。従来の高高度からの爆撃ではなくまず数機が超低空で侵入。深川区(現在の江東区)、本所区(現在の墨田区)を皮切りに爆弾を投下しはじめました。
使われたのは、M47ガソリン焼夷弾とM69高性能ナパーム性油脂焼夷弾。のちにベトナムなどで繰り返し使われた悪名高い爆弾でした。
米軍はまずM47ガソリン焼夷弾の投下によって、目標地点に予備火災を起こしました。当日は非常に激しい北西風が東京に吹き付けていましたが、米軍はこのことを事前に察知してこの日を選んで攻撃をしかけたのでした。

米軍は激しく燃える初弾の投下地点に集結した消防車を直接に攻撃し防火体制を一蹴しました。それから東京の下町一帯に焼夷弾で火の壁を作りはじめました。群集を逃がさないためにでした。下町一帯は、たちまち灼熱地獄と化しました。
その後、後続のB29が1機あたり6トンも積載されたM67ナパーム焼夷弾の爆撃を開始。編隊は、巨大な火の壁に閉じ込められて逃げ惑う群集の上に、繰り返し超低空で襲いかかっては、雨あられと焼夷弾をばら撒いたのでした。
このM69はアフガニスタン空襲で使われたクラスター爆弾(収束爆弾)と同じ構造のクラスター焼夷弾でもありました。「モロトフのパンかご」と命名され、空中で48ないし72個の小型焼夷筒にわかれ、それぞれが落下して猛火を発生させました。

早乙女さんは、自分の直前を避難していた男性が、爆発音に上空を仰ぎ見た間際に、のど元に焼夷筒が突き刺さるのを見たといいます。
米軍はそれだけでなく、ガソリンのような液体も直接に空から撒いたと多くの避難民が証言しています。銃座からの機銃掃射も行いました。総計で2000トンの焼夷弾を落とし、わずか二時間半あまりの攻撃で10万人以上を焼き尽くしたのでした。
猛火に耐え切れず、人々は水を求めて川に殺到しましたが、その川の上をも火炎が巨大な火の玉となって覆いつくし、隅田川や江戸川は累々たる死骸で埋まりました。

私のは母はこのとき、烈火が大きな火の玉をつくり、機関車のように町の中を横に駆け抜けたことを見ています。そんなものを目にした彼女が生き延びたのは奇跡としかいいようがありません。
避難中に家族と離れ離れになった祖父は、翌朝、川に浮かんだ死骸をひっくり返しながら、離散した家族を探したそうです。結局、家族は無事だったので見たのは他人の遺体ばかりでしたがホッとすると同時にハッとしてナンマンダブと唱え続けたそうです。
この日の火災は、人類史上、記録に残るもっとも甚大な都市火災でもありました。死者の数は、一晩では広島、長崎における原爆投下で亡くなった方の数をも上回っていました。

続く