守田です。(20141128 09:00)

ウクライナの悲劇を分析する中で、チェルノブイリ原発事故による人体への影響を告発するウクライナの医師たちの前に、常に幾つかの国際機関が立ち塞がってきたことを見てきました。
IAEA(国際原子力機関)、WHO(世界保健機関)、UNSCER(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)、ICRP(国際放射線防護委員会)などです。
これらの中で、最も古くから放射線の人体への影響の評価を行ってきたのはICRPです。そのためこの委員会の主張を分析し、放射線被曝の影響の過小評価論に対してしっかりとした批判を行っていく必要があります。

そのため今『ICRP2007年勧告』批判の作業に着手し、読み解きを行っていますが、その前にこの組織を概観しておくこと、設立から今日までの歴史過程をおさえ、多くの方に知っていただくことの重要性を痛感しました。
絶好の参考書としてあげられるのは『放射線被曝の歴史』(中川保雄著 明石書店)です。1991年に公刊されていますが、福島原発事故後の2011年10月に増補版が出されました。
今回はこの書の内容をみなさんに紹介したいと思います。

本書の問題意識は「1 放射線被害の歴史から未来への教訓を-序にかえて」によく表されています。
「放射能の恐さや放射線被曝の危険性に関する公的なあるいは国際的な評価は、核兵器を開発し、それを使用し、その技術を原発に拡張した人びとと、それらに協力してきた人びとによって築き上げられてきたのである」(『同書』p11)
「被害をどうみるかが問題とされる事柄を、加害した側が一方的に評価するようなことが、しかもそれが科学的とされるようなことがまかり通ってもよいのであろうか」(『同書』p11)
「一般には通用しないようなやり方で、放射線被曝の危険性とそれによる被害を隠し、あるいはそれらをきわめて過小に評価することによって、原子力開発は進められてきたのである」(『同書』p12)

まったく同感です。僕自身も、この点について、物理学者矢ヶ崎克馬さんとの共著『内部被曝』(岩波ブックレット)の中でも明らかにしてきましたが、チェルノブイリ原発事故の被害により深く触れる中でこの点をもっと掘り下げねばという思いを新たにしました。
なんとも悔しいことでもあります。私たちの国はアメリカに原爆を落とされましたが、そのアメリカが日本を占領したのちに、広島・長崎に赴いて被爆者調査を排他的に行ったのでした。原爆のデータを独占するとともに、できるだけ被害を小さくみせるためにでした。
情けないことに、私たちの同胞を原爆投下後に二重三重に踏みつけるこの調査に、我が日本政府は全面的に協力したのでした。自らのアジアでの戦争犯罪を訴追されないことが強い動機となっていました。

原爆投下は完全なる戦争犯罪です。非戦闘員の無差別な大量虐殺だからです。いやそれだけではない。人々を戦争が終わった後も長い時間をかけて殺し、新たな世代にまで酷い影響を与えました。
ところが私たちの国は戦後、一度もこのアメリカの戦争犯罪を告発できずにきました。そればかりか70年間もの間、米軍基地のために土地を奪われ続けています。「鬼畜米英を倒せ」と叫んで国民を戦争に駆り立てたかつての政府の末裔の人々がアメリカにすり寄ってこの状態を続けてきたのです。
そのもとに、つまり政治的軍事的に歪められた「一般には通用しないようなやり方で」放射線被害の評価ががなされ、それが今、世界の放射線学のベースにされています。被爆者の痛みの上に、さらに世界の人々に放射線被曝を強要する体系が作りだされてきたのです。

ICRPはどのようにして今の放射線評価にいたったのでしょうか。この組織は1928年にアメリカで成立した組織が国際化した「国際X線およびラジウム防護委員会」を前身とし、1950年に結成されました。
もともとは20世紀になって発見され、商業的に使われるようになった放射線から、労働者を保護することを目的とした組織でした。
当初は放射線はある線量以下であれば生物に影響を及ぼすことはないと考え、安全な値を「耐容線量」と捉えて、1931年に最初の値を決定しました。

委員会はその後1940年に「耐容線量」を大幅に引き下げました。遺伝学者たちからの強い批判があったからでした。本書はこの点を次のように説明しています。
「その批判は、マラーが1927年にショウジョウバエを用いた実験で放射線突然変異を発見したことに端を発し、1930年代を通じて遺伝学者の間に広がった。
放射線被曝により遺伝的影響が発生すること、しかも被曝線量に比例することを、他のどの分野の科学者よりも早くかつ深刻に受けとめたのは遺伝学者たちであった」(『同書』p26)

しかし委員会は第二次世界大戦が激化するなかで活動が停滞します。同時にアメリカで原爆開発が進められ、1945年広島・長崎に原爆が投下されたことにより「放射線防護」の持つ意味が大きく変化しました。一部の限られた職種の問題ではなくなったのです。
マラーは放射線被曝の拡大に強い危機感を持ち、各地で放射線の危険性を訴える講演を行いました。そのマラーが1946年にノーベル生理学・医学賞を受賞したことで、放射線の人類におよぼす危険性についての社会的関心が広がっていきました。
核武装を強力に推し進めていたアメリカ政府は、マンハッタン計画=原爆製造の代表を加えて「アメリカX線およびラジウム防護委員会」を「全米放射線防護委員会(NCRP)」に改組しました。

このことで委員会の性格は大きく変わりました。被曝から労働者を保護するものから、核武装を推進する軍産複合体がマラーをはじめとする遺伝学者たちの放射線への危険性への批判から核戦略を防護するための機関になっていったのです。
アメリカはマンハッタン計画に参加していたイギリスやカナダと三国協議を進めてあらたな方向性への合意を取り付け、NCRPの主導のもとさらにフランス、スウェーデン、西ドイツを加えて「国際X線およびラジウム防護委員会」を「国際放射線防護委員会(ICRP)」に改組しました。
「ICRPは、かつての科学者たちの組織から、それを隠れ蓑とする原子力開発推進者による国際的協調組織へと変質させられたのである」と同書は指摘しています。(『同書』p35)

全米放射線防護委員会(NCRP)はさらに「耐容線量」という考え方を大きく転換し「許容線量」という考え方を導入し、国際放射線防護委員会(ICRP)に追認させていきます。
放射線が遺伝的障害を生むというマラーら遺伝学者たちからの避けようのない批判を踏まえつつ、確かに放射線は危険なものでなにがしかのリスクを生むが、かといって放射線を用いる重要な業務を著しく困難にすることは不利益である。
このためリスクを十分に低くすること。とくに遺伝的影響については「突然変異の発生率が線量に比例してはいるが、遺伝的異常の自然発生率と比べてその発現が大きすぎないように被曝量を制御する」(『同書』p38)とされました。

この際の考え方で大きなポイントとなることは次のことです。同書から引用します。
「放射線障害に対する感受性は、人によって大きく異なるが、誰が放射線に最も大きな感受性を有するかを前もって決めるわけにはいかないので、平均的な人間をもって考えることにする」(『同書』p37)
つまりNCRPもICRPも放射線に極端に弱い人々も存在していることを十分に認識しつつ「平均的人間」を防護の対象とすることで、これらの人々をあらかじめ切り捨ててしまったのです。

ICRPの考え方は現在もなお世界の放射線防護の基準となっています。放射線防護ではなく核戦略防護の考えなの方ですが、多くの人々がこの考え方が形成された経緯を知らずに適用しているので、実はここからの逸脱も頻繁に起こっています。
その最も重要なポイントは、年間被曝を1ミリシーベルト以下に抑えるという現在の放射線防護基準もまた「平均的人間」を前提していることが忘れられている点です。1ミリシーベルトとて誰にとっても安全値ではありませんが、より放射線に弱い人にはより打撃の強い値になっているにもかかわらずです。
また個人が放射線被曝によって被る打撃に対しても「低線量ではそのような症状はでない」となどと繰り返し語られていますが、あくまでも「平均的人間」についてICRPがそのように判断しているのであって、ある特定の個人がどうなるのかはICRPにとっては埒外だということも忘却されています。

許容線量について本書では次のようにまとめられています。
「核兵器工場などの原子力・放射線施設の存在と運転の必要性を軍事的・政治的および経済的理由から認めたうえで、放射線をあびて働く原子力労働者をはじめとする放射線作業従事者、あるいは一般公衆に対して、
それらの被曝を受忍させるために、政府などが法令等の規則で定めた放射線被曝の基準であり、狭くはそれらの線量限度を意味する」(『同書』p39)
「放射線に最も弱く、したがって防護においては最も重要視しなければならない胎児や赤ん坊をはじめとする弱者を切り捨てる思想から誕生した。
被害が生じることがわかっていても、その被害者を”平均以下”の人間として切り捨て、社会の発展のためにはその蛮行も許容されるべきであると、多数の「平均的人間」に思い込ませる。(『同書』p40)

この考え方をリードしたのはアメリカのNCRPでした。設立当初のICRPは一定の抵抗を示し「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べています。
ICRPはもはや維持が不可能になった「耐容線量」という考えを「許容線量」という考えに変えることは受け入れたものの、NCRPの主張に込められた「リスクを受忍せよ」という考え方にしばし抵抗を続けたのでした。
「ICRPに『可能なレベルまで』と言わせた最大の要因は、放射線による遺伝的影響の問題であった。遺伝的影響については、それが被曝線量に比例することが否定できないがゆえに、被曝量を可能な限り低くすべきであるとICRPは勧告せざるをえなかった」(『同書』p44)

当時のICRPの立場に大きな影響を与えたのは、広島・長崎の惨劇を目にして心を痛めた世界中の人々の声でした。
とくに1950年に朝鮮戦争がはじまり、アメリカのトルーマン大統領が原爆投下の可能性を示唆したことに対し、世界中で核兵器の禁止を求める「ストックホルム=アピール署名運動」が高揚し、全世界で5億人もの署名が集まりました。
世界の人々の声がNCRPによる「リスク受忍論」へのICRPの抵抗を後押ししていたのでした。「被曝を最低レベルにせよ」という文言は、広島・長崎の痛みをシェアしようとする世界の人々の願いがこもった言葉だったのです。

続く