守田です。(20141102 23:30)

一昨日(10月31日)夕方にポーランドから帰国しました。
クラクフのホテルを現地時間朝8時に出て、バスで3時間揺られてヴロツワフへ。空港からドイツ・フランクフルト、韓国・インチョンをトランジットして関空を経て自宅に戻るまで28時間かかりました。
昨日は大半の時間を寝て過ごしましたが、まだジェットラグの影響が残っているようです・・・。

それはともあれ今回の旅でもとても大きな収穫を得ることができました。前半23日から26日は国際会議に参加。今年の国際連帯行動の集大成としてありましたが、後半の26日午後から29日までのポーランド見学でもとても大きなものを学びました。
国際会議についてはすでに発言内容の紹介などをしていますので、今回はポーランド訪問から学んだことについて書いておきたいと思うのですが、その前になぜこうした点を問題にするのかを整理しておきたいと思います。

というのは僕がポーランドについて語ろうと思うのは、それ自身が今年の3回におよぶ渡航の中でつかんできたことに大きく絡んでいるからです。
3月に僕が訪れたのはドイツとベラルーシとトルコでした。8月にはトルコだけに行きました。このうちベラルーシとトルコは初めて訪れた国でした。
ともに大変、印象深い訪問でしたが、中でもベラルーシをドイツの人々(核戦争防止国際医師の会 IPPNWドイツ支部)と訪れたのは僕にとってとても大事な体験でした。
なぜか。ベラルーシはウクライナと共に、かつてナチスドイツが、旧ソ連への侵攻を目指したバルバロッサ作戦の主要戦場となった地域であり、ナチスによって壊滅的な被害を与えられた地域だったからです。そこにドイツ人としてナチスの侵攻を真剣に捉え返そうとしてきたドイツの人々一緒に訪れたのです。

とくにチェルノブイリのすぐ北で、大変な汚染を被ったゴメリに訪れたときのこと、ベラルーシ側の歓迎レセプションの席上で、この旅を通して大変親しくなったアンゲリカ・クラウセンさん(IPPNWドイツ支部長)が次のようにスピーチされたことが今も脳裏に焼き付いています。
「私はかつてアウシュビッツを訪れたとき、あまりのショックから俄かに英語が話せなくなり、その場で迎えて下さった方との交流ができなくなってしまいました。今回、ゴメリに来るにあたっても私は同じことが起こるのではないかと心配していましたが、今はこうして英語でみなさんにお話することができています」
チェルノブイリ事故があったとき、ゴメリは片田舎で舗装された道路など一つもない地域でした。そのため道路の砂埃を通じて、放射能汚染が拡大してしまっていました。これに対して旧ソ連政府は真っ先にゴメリの道々の舗装化を命令し、実行させたそうです。
すると工事の為に掘り返した道路の下から、ナチスに虐殺された白骨遺体やらナチスのヘルメットなどが大量に出てきたと言います。ゴメリはナチスによって灰燼に帰すようなダメージを受け、そこから40年かけて舗装道路はなくともつつましやかな生活を再建したときに、チェルノブイリ原発事故に襲われたのです。

それはあまりに悲しく酷い悲劇の連続ですが、しかし一方でそうした悲劇にドイツの多くの人々が強い痛みを感じ、チェルノブイリ被害の救済に乗り出したのでした。
今回の会議中に聞いたことですが、今、ドイツの中でベラルーシやウクライナの被災者支援を行っている団体は、1000以上に達していると見積もられているそうです。会議を主宰したドイツのIBBは、そうした無数の団体をつなげ合わせるための努力を続けているそうです。
こうしたことに通じる話をゴメリで聞いたとき、僕の胸は打ち震えました。そしてアンゲリカさんにこうお話しました
「あなたの話を聞いて僕は日本軍のアジアへの侵略のことを思い出しました。日本軍は何千万ともいわれる人々を殺害しました。一方、日本はドイツと同じようにアメリカ軍による壊滅的な空襲も受けました。これらを通じて、いかなる戦争にも大義などないことをあなたたちドイツ人と私たち日本人が一番学んできたと思うのです」と。

初めてトルコに行った時もやはり僕は歴史に注目しました。恥ずかしながら生まれて初めてトルコの歴史を真剣に学びました。正確には高校生のときなどに記号として覚えた知識にやっとのことで血を通わせることができた体験でした。
とくに唸り声を上げざるを得なかったのが、トルコがかつてオスマン・トルコ帝国として領有していた地域のその後が、そのまま今日のヨーロッパ・中東などの「紛争」地域に重なっていることでした。
今、国内を二分する戦いが行われているウクライナの南部もかつてはオスマン・トルコの領土であり、なかでもクリミア半島はロシアとの激しい攻防に晒され続けてきたところでした。
さらにこの夏に激しいガザ攻撃が繰り返されたパレスチナと攻撃の当事者たるイスラエル、今まさに大変な戦闘の中にあるイラクやシリアもオスマン・トルコの領土でした。第一次世界大戦による敗北の中でこの帝国が崩壊したときに行われた「西欧列強」による激しい領地のもぎ取り合戦が、今の争いの根本要因になっているのです。

そしてそのトルコに日本の安倍政権が乗り込んで、原発を建てようとしている。しかもとても美しい黒海沿いの町の環境を破壊してです。
「違う、違う。まったく逆だ。この地域に日本が貢献できることは戦争のむなしさと平和の尊さをこそ伝えることだ。第二次世界大戦を通じて日本が学んだこと、過ちを捉え返してつかみとった不戦の誓いをこそ伝えることだ。安倍首相まったく逆のことを行っている」と僕は強く思いました。
もちろん安倍政権がトルコに直接的に行おうとしていることは、原発輸出であり、直接的に戦争にからむ問題ではありません。
しかしまさに今、トルコ対岸のウクライナ南部に激しい軍事的な緊張が現出しており、さらにトルコの南部国境地帯のイラク・シリアで激しい戦闘が起こっているときに、核兵器製造技術に直結する原発を輸出することには特別な意味が伴ってしまいます。

さらに僕が胸を痛めたのはトルコの中にあるありがたい親日感情や、イスラム圏全体に広がるそれこそ申し訳ないほどの日本への親しみの感情に対してでした。
これらの国々では私たちの国は、西洋白人国家の代表であるアメリカに原爆を二発も投下されながらも、戦後に経済復興を遂げ、産業大国として再生してきた国。しかも西欧各国のように軍事的に偉ぶることもなく平和外交を続けてきた国として写っています。
ペシャワール会の中村哲さんはこれを「美しき誤解」と語られ、「誤解がさめぬうちに瓢箪から駒で本物にしなければならない」と述べらていますが、僕も本当にそう思います。
ところが安倍政権はまったく逆の道を走っています。集団的自衛権行使でよりアメリカの理不尽な暴力に与しようとしており、さらには石油の安定的確保のためもあって、日本政府が伝統的に貫いてきたイスラエルとパレスチナ・アラブへの等距離外交を閉ざし、イスラエル寄りへと大きく舵を切ろうとすらしています。

さらにこれらを考えたときに見えてくるのは、このうち続く国際紛争と核エネルギーの使用が大きく結びついていることです。
核分裂によって得られる核エネルギーは同時に膨大な死の灰を生成させ、その処理の必然性を作り出してしまいます。それが1万年、いやそれ以上続くことを考えるならば、経済コストに合うとか合わないとか、そもそもそんな話が成立すらしないことは誰の眼にも明らかなのです。
しかしなぜこの単純な真理がまかり通らないのかと言えば、未来のことはともあれ、たった今、手っ取り早く膨大なエネルギーを手に入れ、目前の競争相手に打ち勝ちたいと各国の首脳たちが考えているからだと思います。
未来世代のことなど二の次。いや未来世代どころか数年後はどうなろうとそんなことはお構いなしに、今、一時の勝利を目指して奔走していく。そんな競争エネルギー、ないしは競争ヒステリーとでも言うべきものが現代世界を覆っている。

この世界の流れに抗していくには、こうした現代世界の陥っている構造そのものの捉え返しがなされなければならない。
そのために必要なのは一にも二にも歴史を学び直し、私たちの世界が陥ってきたさまざまな悲劇を、誰かれのせいにするのではなく、私たち自身が作りだしてきた問題として捉え返すことだと思うのです。
そしてこの捉え返しをもってこそ、国境や民族、人種等々の「垣根」を越えた連帯を形作っていく。本当の意味での普遍的な、ともに守るべき価値をつかみだし、共に歩んでいくことが可能になるのだと思えます。
僕には暴力の象徴としての核の支配するこの世紀、人類史上、もっとも大量の殺戮が繰り返されてきたこの100年の歴史を越えて行く可能性がこの中にあると思うのです。核と戦争のない時代はまさに世界的にしか実現できない。だからこそそこに向かいたいと心から思います。

そのためにどん欲に各国の歴史を学んでいく必要がありますが、そうした観点から見たとき、ドイツとロシアの間に位置してきたポーランドに学ぶことには格別な位置があります。
ポーランドは本当に特殊は位置を持っています。例えば第二次世界大戦との関係でいえば、ナチスが作りだした絶滅収容所たるアウシュビッツもそこにある。
今回、僕はこの収容所跡地に建てらえたアウシュビッツ博物館も訪問してきましたが、本当に深いことを学んでくることができました。

未来に向けて、ぜひこれらの体験をみなさんと共有したいと思うのです。

続く