守田です。(20140324 08:00)

旅の報告の第一報の(下)をお送りします。

前回のように書いてくると、僕の旅は順風満帆だったように感じられると思いますが、今回は、とてもそうとはだけは言えなかったこと、むしろ途中でどんどん体調を崩し、それぞれの現地の方々に大変なお世話になってしまったことを書き添えておかねばなりません。
とくに体が悪くなりだしたのは、トルコに入ってからのこと、便秘による強度の腹痛が起こりました。そのためイスタンブールでは事前に鎮痛剤を打って頂いて講演。何とかやり遂げましたが、終了後に体がもたなくなり、病院に連れて行っていただいて緊急入院をすることになりました。
幸運にも講演の後に入ったレストランのオーナーが、病院も経営していて、ソファに横たわっている僕を見て自分の病院を手配して下さり、広くてきれいな病室に入れていただけました。そこで特大の浣腸をしてもらい、一夜を過ごし、翌日にエコー検査なども受けて旅の続行を許していただき、シノップに向かうことができました。
とてもありがたかったのですが、僕にとって初めて訪れたイスタンブールは、石畳の道が多く、腹痛を抱えたものにとってタクシーに揺られるのが凄く辛いところでした。苦痛に歪んだ僕の顔の前を、林立する素晴らしいモスクがどんどん流れていきました・・・。

病院で一夜を明かし、これで何とか回復できた・・・と思い、元気にシノップへ向かいましたが、これ以降、僕は断続的に起こってくる腹痛とたたかい続けることになり、食欲もどんどん下がるばかりでした。ホテルに入ってから悶絶した夜も多く、同行していた医師の方をはじめ、周りの方に本当にご迷惑をかけてしまいました。
特にお世話になったのは、今回のトルコでの講演等をプロモートしてくださったアルパーさんです。医師で、アクティヴィストで、同時にミュージシャンで、詩人でもある方です。アルパーさんは、常に僕の身体を医師の目から監視してくださり、適宜、薬を買ってきてくださり、痛みが激しいときにはマッサージ師としての腕も披露してくださいました。
また同じく同行して、素晴らしい通訳をしてくださったプナールさんと、もともとレスキュー隊の活動経験もあり、病者のケアにたけているジェンキーさんも繰り返し僕をサポートしてくださいました。その上、行く先々の人々の手厚いサポート。それがあって僕ははじめてトルコの全日程をなんとかやり遂げることができたのでした。
トルコの方たちに、本当に人方ならぬ恩ができてしまった。必ず返さねばと思います。同時に、今度はもっと元気な姿で、もう一度、イスタンブール、シノップ、イズミールを訪ねたいです。ほとんど食べれなかったトルコ料理もみなさんと楽しみたい・・・。(ただし海の町シノップでは、魚の揚げ物が食べれました。とても美味しかったです)

そんな感じで3月14日にイズミールから出国し、ドイツのデュッセルドルフへと戻ったのですが、症状は改善せず、腹痛は強まるばかりでした。このことはアルパーさんのお連れ合いで、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部のアンゲリカ・クラウセンさんに伝わっており、講演にデュッセルドルフから向かったヘルフォードでは僕の体調を十分考量した上での受け入れをしてくださいました。
このときも何とか講演を頑張りましたが、質疑応答の途中で退席させていただき、すぐに宿舎に送っていただきました。ヨーロッパ・アクション・ウィークに参加して福島からの証言を各地でされた萩原ゆきみさんと、通訳の鹿沼和子さんが宿舎で一緒でしたが、この夜は、激痛に我慢しきれずにお二人の前で「痛い、痛い」と呻き続けてしまいました。
おそらくは見ている側が辛かったであろうような姿をお見せしてしまい、本当に申し訳ないばかりだったのですが、萩原さんがその後、丁寧なマッサージをしてくださり、何とか痛みが和らいで寝ることができました。
その状態で翌日、本当に何とかベルリンまでたどり着きました。ヘルフォードからベルリンまで、特急列車の中、1人シートの上で膝を抱え、身体を丸めて電車に揺られていました。食欲は皆無に近く、この日、食べれたのはバナナ一本のみでした。

ベルリンでは先に到着していた連れ合いの浅井さんとホテルで合流できましたが、部屋に入るや倒れこむような状況で、以降はただ闘病の毎日でした。
すると今度は、ドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プルルークバイル博士がホテルに連絡してきてくださり、僕の状況を聞いて、医師であるお連れ合いのクリスティーナさんの病院で診察を受けることを提案してくださいました。
そんな状態の中で、17日にベルリンでの講演がありました。これは医師協議会のときに知り合った、IPPNWベルリン支部のバーバラさんが呼んでくださったものでしたが、プフルークバイル博士が送り迎えして下さり、それでやっと参加することができました。何せ自力ではやっと階段を上がり下がりできるぐらいで、1人では会場にいけない状態でした。
この日の夜も講演ですっかり力を使い果たし、夜になってからは激痛で体をくねらせ続けました。連れ合いの浅井さんに足裏のツボを長くマッサージしてもらい、本当に何とか痛みを軽減させて寝たり、起きたりを繰り返しました。

講演の翌朝、18日にクリスティーナさんの勤める病院にプフルークバイル博士に連れて行っていただきました。すると身体が疲弊して排尿がうまくできなくなっており、腎臓が腫れて悲鳴をあげているシリアスな状態にあることが判明しました。すぐに泌尿器の専門外来がある病院に移ってカテーテルを挿入し、強制排尿をしてもらいました。
結果的にはこのことで体は快方に向かい始めました。どの段階からかは分かりませんが、腹痛は便秘を原因としたそれから、腎臓の強度の疲弊へと移行しており、カテーテル導入で原因が取り除かれることとなったからです。幸いにも腎臓のダメージも深くはなく、入院の必要はありませんでした。
しかしこのころ僕は、激しい嘔吐感もあって5日間ぐらいまったく何も食べることができない状態で、まったく動けず、何をするのもものすごく億劫で、話に応えるのさえ、かなり時間がかかる状態でした。病院の中でも車椅子をおしてもらわなければとても移動ができなかった。
そうしたら、今度は博士はクリスティーナさん手製の美味しいスープをポットに入れて、ホテルまで持ってきてくださいました。何も食べれなかったのに、このスープだけはのどを通っていった。とても美味しかった。ありがたさがのどから胃に静かに流れていきました。

今回が初めてのヨーロッパ訪問だった連れ合いの浅井さんも、一日、ベルリンを歩いただけで、あとはただ日がな、ホテルの部屋で苦しむ僕をマッサージしたりして支えてくれたのですが、しかしそれにお礼もほとんど言えない。体中の力を失せてしまって、声すら出ないのです。初めての経験でした。
それでもクリスティーナさんのスープを飲めたごろから少しずつ、力が戻ってきたような気がしてきたので、20日の予定通りの帰国を決意しました。今回の旅ではそれまで飛行機を8回も乗っていて、とくに最後の数回は、爆発的に腹部が痛かったので、飛行機に乗るのが怖かったのですが、とにかく帰ることにしました。
最後の日も、プフルークバイル博士がホテルまで来てくださいました。大きく重いトランクを車に入れて下さり、ベルリン空港のチェックインカウンタ―まで僕ら夫婦を送ってくださいました。そのおかげでまずはベルリンから国際ハブ空港のフランクフルトまで飛ぶことができました。
フランクフルト空港では、ものすごく広くて、地獄のロードのように思えた乗り換え通路を、少しずつ、本当に少しずつ二人で移動し、3時間もかけて関空行の便のゲートに辿り着き、何とか機内に乗り込むことができました。そのころから食欲が上向きだし、日本への11時間もあるフライトは思ったほど苦しむこともなく、帰ってくることができました。

それやこれやで今、僕は京都の自宅にいます。まだ体の中にカテーテルを残置したままですが、何より食欲がどんどん回復してきました。すぐに通院して腎臓の感染症もほどんとないことが確認でき、回復を進めている段階です。
まだあまり外には出れませんが、週の後半ぐらいから、外出できるようになると思います。3月30日に奈良の市民測定所で報告会の場を設定していただいているので、必ずそれまでに身体を治し、みなさんの前に元気な姿で登場するつもりです。
それにしても何とか帰国できたのは、セバスチャン・プフルークバイル博士、クリスティーナさん、いやそれだけでなく、同行中、支えくださり、看護してくださり、助けてくださった多くの方たちのお蔭です。本当に僕は、たくさんの人の手で支えられて、今回の旅を終えることができました。深く感謝しています。
いやそもそも今回の旅には本当にたくさんの方のさまざまなお力添えをいただきました。そのすべてに感謝するとともに、僕は今、「これではいけない」と強く反省もしています。僕は僕のあり方を変えなくてはいけない。

やはりこんなにお世話になっていてはいけないのです。さまざまな意味での「自力」を強めないといけない。そう強く思います。そのため排尿困難の原因となった、もともとの業病である前立腺肥大の手術による根治なども含めて、身体の大改造に再度、取り組もうと思います。
今一度、肥田先生の言葉を自分の中に通し直さなくてはいけない。自分の身体を、命を、大切にできなくて、すべての命を守ることを呼び掛けることはできない。いやできたとしても弱い力しか持てない。放射線防護を呼び掛ける僕は、誰よりも健康であらねばらないし、また健康でありたいと強く思います。
同時に収入構造の改革などにも取り組み、さまざまな事業の自己展開力もつけなくてはいけないと思っています。それやこれや、今後、反省点もより深め、実行に移していこうと思います。
そのことで多大なる恩義に一つ一つお応えしていきます。むろん、それらのすべてを放射線防護活動の豊かな展開に必ずつなげます。

・・・それにしても、こうした反省をも踏まえて、今、振り返ってみていると、本当に帰ってきたら僕が乗って戻った船には、ものすごいお宝がたくさん乗っていました。帰る途中は船が難破しやしないかとそればかりが心配でしたが、あまりに豊かなものを僕は得ることができました。
これからゆっくりと時間をかけながら、それらを一つ一つ丁寧に紐解き、文字に移し、文章化して、成果として固めていきたいと思います。その作業に全力を注ぎ込みます。
いつものことながら長い報告になってしまいましたが、ともあれ、この上下を持って、今回の旅の報告の第一報としたいと思います。
みなさま。ご支援、本当にどうもありがとうございました!

終わり