守田です。(20120905 23:00)

今週末の講演の予定をお知らせします。

9月7日尾道市

9月7日に再び尾道市にうかがい、「食・給食の安全と放射能測定」のタイトルでお話します。午後6時30分から午後8時45分まで。今回は僕が30分ぐらい発話し、その後はできるだけ質疑応答に答える形をとります。これに向けて、食料品測定のデータの収集分析をあらためて行なっています。できるだけ最新の情報をお話したいと思います。

また栄養学についてのお話も準備しておきます。というのは放射能を避けるというだけでは「食・給食の安全」ということを十分にみたせないと思うからです。そこで僕が紹介したいのは、栄養学の新しい知見を切り開いた故丸元淑生さんの論考です。少し古い本になりますが、『何を食べるべきか 栄養学は警告する』などはぜひ読んで欲しい本です。例えば給食に関して、アメリカで行われた注目すべき実験が次のように紹介されています。

「ニューヨーク市学区が給食用に購入する食品は、米国のなかでは陸軍に次ぐ膨大な量である。年間1億ドルにも達するのだが、その内容を一挙に変えてしまうという決然たるもので、栄養学の歴史にエポックを画した研究である。

1年目の1979年には飽和脂肪と砂糖がカットされた。ハンバーガーに使う肉からは脂肪の部分がとり除かれ、パンは食物繊維が豊富な無精製の小麦全粒粉でつくり、食品にふくまれる砂糖の割合は11%を限度とした。それまで、ケチャップには29%、アイスクリームには20%、コーン・フレークなどにシリアル類には50%も砂糖をふくんだものがあったのだ。

この実験をはじめる前のニューヨーク市学区の標準学力テストの平均点は39点で、全国平均を11点も下回っていた。食事の内容が脳に影響を与え、行動や学習能力をも左右すると栄養学者たちは主張していたが、この年の学力テストの平均点は、いきなり8点もあがって47点になった。

こうした学力テストの学区平均というのは急には上がり下がりしないもので、何年かして2、3点上がれば上出来と関係者は思っていたから、その結果にびっくりした。

2年目の1980年には、着色料は合成甘味料の添加してある食品もシャットアウトされた。すると成績はさらに上がり51点になった。

3年目の1981年は1980年と同じ食事にしたので学力テストの平均は横ばいのままだった。

4年目の1982年には、BHAやBHTなどの保存料の入っている食品が除かれた。すると成績は一段と上がって55点になった。食事を変える前と比べて16点も上がったのだ。実に41%もの上昇である」(講談社+α文庫p37~39)

ここからつかんでいただきたいのは、食べるものが私たちにいかに強い影響を与えるかです。そのため身体に悪いものを除去し、いいものを取り入れていくだけで私たちのパフォーマンスは上がります。もちろんそれは免疫力のアップに確実に連動していきます。

その点で、放射能を避けるだけでなく、化学物質や、精製されて、ミネラルをはぎとってしまった糖分、でんぷん質などの大量摂取を避け、反対に身体にいいものを積極的に取り入れるようにすることで、私たちは総体として汚染と立ち向かうことができます。栄養学を知ると、できることは無数にあることが見えてきます。そうした点についてもみなさんと話し合いたいと思います。

以上の観点を踏まえて7日尾道の学習会にのぞみたいです。

9月8日大阪市

9月8日は日本カトリック部落差別人権委員会のお招きで、大阪梅田教会でのシンポジウムに参加します。シンポジストと演題はいかに紹介されています。

◎西山 祐子(避難者と支援者を結ぶ京都ネットワークみんなの手)
「いのちを守るために~福島から京都に自主避難して」
◎守田敏也(フリーライター)
「内部被曝と被爆者差別」
◎幸田和生(カトリック東京教区補佐司教)
「福島の思いに寄り添う」

それぞれがまず30分お話してから対話となりますが、僕はここで差別の問題といかに向かい合うのかについて発話したいと思っています。
というのは僕は内部被曝の恐ろしさをあちこちでお話しています。放射線はDNAを損傷させますが、α線やβ線が主体となる内部被曝の場合、外部被曝よりも密集した被曝がおこるため、危険性が圧倒的に高くなる。そしてそのことは細胞分裂が活発な人にほど強く作用するので、子どもの方が危険であることがわかります。

さらにお腹の中の赤ちゃんの場合、細胞分裂とともに細胞分化が激しく起こっています。ある細胞が機能を別にする細胞に分かれていくことで、分かれる前の細胞を幹細胞(かんさいぼう)と言いますが、この幹細胞が放射線でダメージを受け、誤った修復が行われると、分化に支障をきたし、先天的な障がいの発生へとつながることがあります。

だから放射線を避けるべきことを訴えているわけですが、しかしこのことから放射線被曝を受けた人々を差別し、結婚を避けるなどの人間としての誤った対応がでてきうるし、現に広島・長崎の被爆者は差別によっても本当に苦しめられてきました。このこと正面から向き合う必要があると僕は強く思います。

被曝は日本中に広がっています。したがって放射線によって障がいを持って生まれてくる人々が増えるのも確実なことであり、そうであるならば、障がいを持った人々が、よりよく生きれる社会、障がい者の尊厳が強く守られる社会を作り出すムーブメントをより強めることを、私たちは今、みんなで強く腹に命じるべきなのです。このことから目を背けたまま、放射線の害と真の意味で社会的に立ち向かうことはできないのではとも思っています。

実はこうした点について、先日の山水人での中嶌哲演さんとの対談のときにも話題にあげたのですが、今回はこのテーマを主題としてお話したいと思います。僕なりに腹をくくって、このことに挑戦していこうと思います。

9月9日長野県高藤町

長野県高藤町の千代田湖キャンプ場で行われる「ちいさないのちの祭り」に参加してお話します。タイトルは「東日本大震災以降の日本で生きるには」ですが、放射線被曝と戦争の関連、関係についても話をして欲しいとのことなので、国家による加害と、国民・住民・市民の被害ということを念頭におきながら、福島原発事故と戦争とのつながり、そこで私たち市民に問われることについてお話したいと思います。

私たちは今、大変な被曝状態の中にあって生きることを余儀なくされています。日本の国土の大きな部分が被曝しており、そこにものすごい数の人々が大嘘のもとでの安全宣言のもとに住まわされている現状の中にあっては、私たちの多くが完全な意味での被爆ゼロの生活を行うことができない状態に陥っています。そのため今後、私たちをさまざまな健康被害が、またそれに起因する社会問題が襲う可能性が強くあります。

重要なのはそのとき私たちはその被害をどれだけ国家のものと断定し、国家、ないし責任企業に補償させることができるかですが、これまでの日本のあり方野放しにしていたらその多くが泣き寝入りを強いられることになるのは確実です。被害の多くが、放射線起因とはみなされず、被害者は何の手当も受けられず、むしろ社会的差別を被るだけという最悪の構図が私たちの国を襲う可能性もあります。

そうならないためにはどうするのか。歴史を見直すこと。とくに第二次世界大戦のときより未解決のままにきた多くの問題、とくに日本国家の指導者たちの戦争責任を問い、ほかならぬ私たち日本国民・住民の踏みにじられた尊厳を回復していく必要があります。

戦争責任を問うとは、アジア侵略の責任を問うとともに、無謀な戦争に、国民・住民を動員したことの責任を問うことです。この際、両者ともに、戦争に動員された国民・住民自身が自己を問うモメントも必要です。しかし戦後の日本社会はこのモメントが弱かった。そしてそのために、戦争犯罪人たちが生き伸びてしまい、アジアの人々に対しても、日本の国民・住民に対しても、責任をあいまいにしたまま逃れさせてきてしまったのです。そうしたことのつけが今、私たちにのしかかってきているのでもあります。

その際、ぜひ多くのみなさんに気づいて欲しいのは、私たち日本の国民・住民にとって一番の味方がアジアの被害者たちだということです。なぜか。この被害者たちこそが日本の戦争責任者の犯罪を一番鋭く、訴えてきてくれたからです。その被害者たちの声の中には、日本の国民・住民に対する、犯した罪の告発も入っており、私たちはそれを真剣に受け止める必要があります。しかしその先にあるのは、日本の民衆をも悲惨な戦争に狩りたてた戦争犯罪人たちを告発し、裁くことなのです。それをアジアの被害者とともにできたとき、はじめて私たち日本の民衆もまた、虐げられた尊厳を回復させることができます。

僕の父は、戦争末期に、陸軍の船舶隊として四国の善通寺で訓練に明け暮れていました。広島に原爆が投下されたとき、父の部隊は救援のために呉軍港まで進軍しました。そこから偵察隊を市内に出しましたが、「何もすることがない」という報告があって、部隊はそれ以上、進まなかったそうです。その後、偵察隊に入った方は二次被曝で亡くなりました。

父は呉にとどまったので、被曝はなかったと思っていたのですが、最近になって内部被曝問題研の沢田昭二さんが、呉にもまた放射能が降下していた事実を教えてくださいました。またその後に、より詳しい話を父より聴いていた兄より、呉に残存していた部隊の隊員も次々倒れたことを聞かされました。父はかなり用心していたようで、「被曝はしてないと思うが」と語っていたそうですが、その父は59歳の若さで、脳溢血に倒れました。戦後35年目でした。

一方、母は東京大空襲の爆心地にいました。東京深川の材木問屋の娘だった母は、あの310大空襲の下を、本当に奇跡的に生き延びました。「火のたまが機関車のように転がっていった」ことを目の当たりにした母が生き残ったのは本当に偶然の賜物にほかなりません。そんな母は、「玉音放送」を、「ああ、これで空襲が終わる。嬉しい」と聞いたそうです。

そんな父にも、母にも、国は何の補償もしていません。「国民すべてが苦しんだのだから」という受忍論が強制されたのですが、残念なことに、長い間、こうした国家の仕打ちに対する民衆からの追訴の声はおきませんでした。その後、空襲に国民・住民をさらした政府の罪を問う運動が行われていますが、僕はこうした日本民衆の尊厳が虐げられてきたことと、アジアへの侵略責任が十分に明らかにされず、戦争犯罪人の処罰が不徹底に終わったことはセットになった問題だと思います。

人の足をふんづけてあまやることのできない人間は、自分の足を踏まれても、怒りの声すらあげられないのです。

その意味で、この福島の事故に対する政府と東電の責任にどう向かい合うのかということは私たちの未来を占うとても大事な問題です。同時にこの問題は放射線被曝の歴史の全てを明らかにしつつある問題であり、私たちは原爆投下にさかのぼって、政府とアメリカによる被曝の強制の歴史を今こそ正す必要があります。そしてそのとき、侵略を告発するアジアの声は、私たちの味方なのです。その意味でまさに福島は、広島、長崎と、さらにはアジアと大きくつながっています。そうしたことを僕は9日にお話したいと思います。

その意味でこの3回のお話は僕にとって、ずっと考えてきたものではあるけれども、まだそれほどまとまって話してきていない内容であり、チャレンジングなものになります。いずれもできるだけ事後にきちんとご報告をしたいと思いますが、お近くの方はどうかお越しくださり、ご意見をお聞かせください。みんなで一緒に考え、前に進んでいきたいと思います。

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9月7日 

広島県尾道市にて学習会を主催

「食・給食の安全と放射能測定」
午後6時30分より、尾道市人権文化センター・1階和室にて
参加費無料

主催は「フクシマから考える一歩の会」
お問い合わせ: 090-2002-8667(小林)

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9月8日

大阪市にてシンポジウム参加

●シンポジウム「福音と差別」
テーマ いのち・原発・差別
日時 2012年9月8日(土)14:00~17:00
会場 サクラファミリア(大阪教区・大阪梅田教会)電話 06-6225-8872
シンポジスト 
◎西山 祐子(避難者と支援者を結ぶ京都ネットワークみんなの手)
「いのちを守るために~福島から京都に自主避難して」
◎守田敏也(フリーライター)
「内部被曝と被爆者差別」
◎幸田和生(カトリック東京教区補佐司教)
「福島の思いに寄り添う」
 主 催 日本カトリック部落差別人権委員会
http://www5b.biglobe.ne.jp/~catburak/news.html

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9月9日

長野県高藤町の「小さな命の祭り」で講演
「東日本大震災以降の日本で生きるには」

小さな命の祭り

2012年9月8、9、10、11(土日月火)
入場料 1日500円(20歳以上)
千代田湖キャンプ場
長野県下伊那郡高藤町藤澤

問い合わせ:
0265-39-2350 田村須満子
0265-94-1132盛(もり)
http://lovely-m.jugem.jp/?eid=149