守田です。(20140112 23:30)

東京都知事選に細川元首相が出馬しようとしており、小泉元首相が後押ししようとしています。まだ最終的にどうなるか分かりませんが、元首相連合の登場に、安倍自民党が動揺しているようです。
小泉脱原発宣言を大きく持ち上げてきた「週刊フライデー」は、これを次のように報じています。
「細川・小泉連合で民意の都知事 脱原発!」・・・本当にそうでしょうか。僕はまったくそうは思いません。

しかし脱原発をのぞむ人々の間で、「原発廃止の一点で細川・小泉連合」を応援しようと言う声も出てくるでしょう。すでに市民派候補の宇都宮さんに立候補撤回を囁く声もあるようです。
今、私たちの眼前で起こっていることは何なのか。これを紐解くためには歴史の振り返りが非常に重要です。自民党政治が大きな分岐点に立っていることこそが見据えられねばなりません。
すでに年末にこの考察の一端を行いました。以下の3つの記事がそれです。まだ読まれていない方は、東京都知事選の分析のためにも、ぜひお読み下さい。

明日に向けて(773)小泉元首相(イラク戦争犯罪人)の原発ゼロ宣言をいかにとらえるのか?(上)
http://toshikyoto.com/press/1109

明日に向けて(774)小泉元首相(イラク戦争犯罪人)の原発ゼロ宣言をいかにとらえるのか?(下)
http://toshikyoto.com/press/1112

明日に向けて(775)小泉原発ゼロ宣言の背景としての自民党政治の変容―1
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/c9df522feadcec12af251e20d39bbf49

今回は「明日に向けて(775)小泉原発ゼロ宣言の背景としての自民党政治の変容-1」の続きを書いていきたいと思いますが、もう少し、ケインズ主義とその行き詰まりについて書き足しておきたいと思います。

前回の記事で僕が書いたのは、自民党がかつてはケインズ主義の立場にあったことです。ケインズ主義は1929年の世界恐慌を経て、第二次世界大戦にいたっていった20世紀資本主義の反省から生まれたものでした。
経済を市場の動向に任せるのではなく、政府が金融政策などから積極的に市場に介入し、恐慌を避けて、「健全な」経済成長を保障する政策です。
同時に、ロシア革命以降の社会主義の歴史的発展に対抗すべく、社会福祉政策をそれまでより重視し、累進課税性などによって貧富の差の拡大の一定の是正などを行うことも特徴としてきました。

自民党の場合は、1960年の安保闘争の大きな広がりを経て、岸政権のように軍国主義に舞い戻る政策を戒め、安保条約のもとで、「軍事はアメリカに任せて経済発展を重視する」ことをうたう路線が定着しました。
これ以降、自民党は主に経済的利益の分配によって集票構造を維持し、さまざまな批判や不満を、主に金銭的に吸収していくことを構造化しました。かくして自民党は長期政権を現出させました。

ここで私たちが踏まえておかなければならないのが、「軍事はアメリカに任せて経済成長を重視する」ということが何を意味していたかです。
端的に言えば、アメリカが戦争を行い、日本はそのものもとで発展するということです。事実、私たちの国は、戦後の混乱から「朝鮮戦争特需」によって経済的復興しました。アメリカが戦争のための資材を日本で調達したからです。
さらに「ベトナム戦争特需」によっても日本は大変な利益を上げました。その利益の国内への分配で、私たちの国の民はまるめこまれてきてしまった。経済的利益の分配で、世界への目、正義への目が曇らされてきたのです。

私たちはこの構造は、今もなお続いていることに十分な注意を傾ける必要があります。福島原発事故によって覚醒した多くの人々が全国でデモを行っているのに、なぜ原発再稼働を掲げる安倍政権が存在できているのか。
「アベノミクス」による「まるめこみ」の力の方がなお大きいからです。いやより正確には、これと現在の選挙制度の歪みが重なることによって、少数派による多数派の仮称が可能になっていることがからなっていますが、いずれにせよ、自民党の集票構造は今なお大きく経済的利害に偏っています。

しかしその世界的な枠組みは、1970年代に大きく崩れ出しました。

戦後のケインズ主義政策は、第二次世界大戦を通じて、政治的経済的な圧倒的な覇者となったアメリカの、潤沢な資金の存在によって可能となったものでした。第三世界=旧植民地諸国から生み出される安い工業資源もこれを支えました。
ところがアメリカは1960年代からベトナム戦争にのめり込み、多大な軍事支出によって、次第に世界経済の中心国としての重みに耐えなれなくなり、1971年、ドルショックを宣言して、ドルと金の兌換を一方的に廃止してしまいました。
さらに1973年、中東の産油国の連合であるOPECが、エネルギ―戦略を発動、原油価格を一気に高騰させました。このためにケインズ主義的政策は、各国で音を立てて崩れ始めます。

このときケインズ主義の、「大きな政府」路線、政府による経済への介入や、福祉政策の充実こそが、経済停滞の要因だと主張して登場してきたのが、今、世界を席巻してる「新自由主義」です。新自由主義はケインズ主義を「社会主義」として攻撃しました。
当時、新自由主義政策を唱えたのはアメリカ・レーガン政権と、イギリス・サッチャー政権、日本・中曽根政権でしたが、実はもう一つ、大きな国が、新自由主義政策の道を走り出しました。赤い資本主義の国、中国です。
なぜ中国は新自由主義路線を走り出したのか。この時期、中国は文化大革命が終焉し、「開放・改革経済」に向かい始めたところでした。「開放・改革」経済は、それまで戒めてきた資本主義的発想を取り込むことを目指すものでしたが、取り込む相手がこの時、新自由主義に転換しつつあったのでした。
文化大革命は、極端な平等化や金儲け主義の徹底した否定という側面を持っており、そのもとで生まれた政治的混乱が長く続いたため、新自由主義による社会主義批判が、文化大革命批判と結合してしまった側面が大きくありました。

かくして世界は1980年代より、弱肉強食の資本主義に舞い戻り始めたのですが、これに対抗する位置があったはずの社会主義各国もまた、経済発展において完全に行き詰まり、資本主義への対抗軸の位置を大きく後退させてしまいました。
あたかもそれは新自由主義の正当性を証明するような錯誤を生みましたが、むしろ露呈したのは、それまで唱えられてきた社会主義の主張の多くが「資本主義より社会主義の方が経済発展する」という点に偏ってしまい、資本主義的な、金儲けの追及を中心とする人生観や幸福感を、十分に批判できていない点であったと僕は思います。
特にソ連邦は、アメリカとの軍拡競争の中で疲弊を深めるとともに、1979年から開始したアフガニスタン侵攻によっても、かつてアメリカがべトナム戦争によって疲弊したのと同じ構造に落ち込みました。
さらに1986年、チェルノブイリ原発が巨大な事故を起こし、政府や社会主義からの人心の離反を促進させてしまいました。社会主義の下では幸せになれないという思いが、東欧、旧ソ連邦に広がっていったのです。

しかしケインズ主義から新自由主義への転換を図ったはずのアメリカでも矛盾が続いていました。強烈な反ソ連政策を掲げたレーガン政権が、大軍拡路線を取りつづけたからです。軍拡は政府による大きな財政出動のもとでしか実現できないもので、むしろケインズ主義そのものと言ってもいいものでした。
アメリカは軍拡競争にうちてこれなくなったソ連に対してこそ優位性を示したものの、財政出動によって巨額の赤字を作り出してしまいました。
それでは日本はどうだったのでしょうか。世界的にケインズ主義が行き詰った1980年代になお順調な成長を続けたのは日本でした。日本もまた高度経済成長が1970年代にいたって頭打ちになり、政府の財政が赤字に転落しましたが、なお積極的な経済介入の政策が続きました。
そのもとで自動車や家電などの「ハイテク産業」を中心に、欧米への輸出を伸ばし続けたのです。アメリカの産業が他国に転出する「空洞化」を迎えたことに対し、発展を続ける日本経済は、アメリカの反感を買い「日米経済摩擦」が生じます。
アメリカはこのころ、ベトナム戦争で自国が疲弊する過程で、輸出貿易を軸に大きな経済発展を実現した日本を、次第に経済的な「敵」と認識し始めていました。かくして対日赤字を削減するための圧力が強まり、1985年の「プラザ合意」によって、「円高」が現出し、日本経済もまた大きな転換の渦に巻き込まれていくこととなりました。

続く