守田です(20201104 21:30)

● 核兵器禁止条約を前に進めるために

10月24日に核兵器禁止条約の批准国が50を越え、3か月後の2021年1月22日に発効することが決まりました。人類にとって大きな進歩です。
ところがこれまで原爆の恐ろしさを訴えてきたはずの日本は批准を行っていません。
なぜなのでしょうか。その理由を紐解く重要な内容が2010年8月6日にNHKスペシャルで放映されたのでご紹介します。「封印された原爆報告書」というタイトルです。

これまでも「明日に向けて」や講演で触れてきましたが、日本政府に核兵器禁止条約の批准を迫るためにも重要な情報と考えてこの時期にお伝えし、時間の無い方のために文字起こしも加えることにしました。
なお文字起こしは、知人で「パレスチナに平和を京都の会」の諸留能興(もろとめよしおき)さんが行ったものをベースにさせていただいています。諸留さんに深く感謝を申し上げます。
なお諸留さんは番組ナレーションの問題点に触れられ、さらにより深い情報も書き込んでくださったのですが、ここでは内容の紹介を優先し、番組の忠実な文字起こしにとどめています。

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封印された原爆報告書(NHKスペシャル2010年8月6日放送)
https://onl.tw/KCJ8VXD

ナレーション
アメリカ国立公文書館の映像資料室。ここに終戦直後に日本で撮影されたフィルムが残されていました。映し出されたのは原子爆弾が投下され、焼け野原となった広島。
被害の実態調査にあたる日本の医師と科学者たちです。広島・長崎に送りこまれた調査団はあわせて1300人。被爆地でしか得ることのできない原爆の詳細なデータを集めていたのです。

アメリカ国立公文書館
日本の調査団がまとめた膨大な記録が、GHQの内部文書を集めた書庫の中に眠っていました。

書庫の職員(英語)
「これが日本の科学者が作成した181冊の原爆報告書です。」

報告書は全部で181冊。あわせて1万ページにおよびます。今回私たちは初めてそのすべてを入手しました。そこに記されていたのは被爆国日本が自ら調べ上げた生々しい被害の実態です。
学校にいた子どもたちがどこでどのようになくなったのか。教室の見取り図に丸印で書き込まれています。
放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか。200人を超す被爆者の遺体を解剖した記録もありました。
調査の対象となった被爆者は2万人にのぼりました。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのです。

調査された被爆者
「『立て』と言われたら『はい』 『向こう向け』と言われたら『はい』
「『お前、モルモットじゃ』と言われたような気になりました。」

報告書はすべて日本人の手で英語に翻訳されていました。被害の実態を調べた貴重な記録はすべて原爆を落とした国、アメリカへと渡されていたのです。
私たちは原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材しました。ていった。そこから浮かび上がってきたのは、被爆者の治療よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿です。

元アメリカ調査団医師
「日本の報告書の内容はまさにアメリカが望んでいたものでした」

元日本陸軍軍医少佐
「早く持っていった方が心証がいいだろうと。原爆のことはかなり有力なカードであったのでしょうね」

唯一の被爆国として原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。その一方で被爆者のために活かされることのなかった181冊の報告書。
被爆から65年。封印されていた原爆報告書は何を語るのか。今、明らかになる原爆調査の実態です。

タイトル
封印された原爆報告書

65年前世界で初めて原爆が投下された広島。あの日、街は一瞬にして焼け野原となりました。
爆心地から4キロ離れた海沿いに、戦火を逃れ、当時のままに建っている建物があります。
旧陸軍病院宇品分院。のちに181冊にまとめられる最初の調査が、ここで行われました。

収容された被爆者は2ヶ月間で、延べ6000人にのぼりました。
みな、むしろのような布団の上に寝かされていたといいます。

大本営のもと、宇品での調査を指揮したのは陸軍省医務局です。原爆投下からわずか2日後の8月8日。広島に調査団を派遣し、敵国アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していました。
調査の結果は、1冊の報告書に纏められました。タイトルは『原子爆弾に依る廣島戦災医学的調査報告』。
被爆した人が、どのように亡くなっていくのか?放射線が体を蝕んでいく様子が、詳細なデータと共に記録されています。

調査を受けた被爆者の一人が、生きていました。
沖田博さん。89歳です。宇品の病院で生死の境をさまよいました。
当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地から、およそ1キロの兵舎にいて被爆。
突然、体に異変が現れ、宇品に運ばれて来ました。病院に入っても治療はほとんど受けられず、毎日、検査ばかりが続いたといいます。

沖田博さん
「いつまで命があるかなぁ?・・・と、確めるためだったと思います。次々と死んでいくからね・・・。『こいつはいつまで生きんかな?』って、確認するためだと思いますね」

報告書には沖田さんの記録もありました。当時の危険な様子が克明に記されています。沖田さんの体温は、40度近くまで上がった状態が続いていました。白血球の数は1300。通常の4分の1程度にまで下がっていました。
家族の必死の看病で一命をとりとめた沖田さん。その後は恢復の過程が調査の対象となりました。
その時、撮影された沖田さんの写真です。放射線の影響で抜けていた髪の毛は、少しずつ生え始めていました。嫌がる沖田さんにかまわず、様々な検査が2ヶ月間、続けられたといいます。


沖田博さん
 「『お前、モルモットじゃ!』って、言われたような気になりました。
『こん畜生!』言いたいんだけれども、言えない・・・。僕自身の中で、『ええい、くそっ・・・!』思いながら、あんまり、態度なんかには出せませんでしたけんね・・・」

広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾
その年だけで、合わせて20万人を越す人たちが亡くなりました。
原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共にその規模を一気に拡大します。国の大号令で、全国の大学等から1300人を超す、医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。

2年以上かけた調査の結果は181冊。1万ページに及ぶ報告書に纏められました。
大半が放射線によって被爆者の体にどのような症状が出るのか調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。

ワシントン アメリカ国立公文書館
何故、自ら調べた原爆被害の記録を、アメリカへと渡したのか。その手がかりをアメリカ公文書館に保管されている報告書の中に探しました。
日本が提出した調査記録の片隅に、ある共通するアメリカ人の名前がありました。
「to Cal Oughyerson」 オーターソン大佐へと書かれた、その人物とは?

アシュレー・オーターソン大佐。(アメリカ陸軍)
マッカーサーの主治医で、終戦直後に来日した、アメリカ原爆調査団の代表です。

オーターソン大佐と共に日本で調査にあたった人物が、カリフォルニアにいました。
フィリップ・ロジ氏92歳。アメリカ調査団のメンバーに抜擢された最も若い医師でした。
ロジ氏はアメリカ調査団が(日本に)到着するとすぐに、日本側から報告書を提出したいという申し出があったと言います。

ロジ氏
「オーターソン大佐は、大変喜んでいらっしゃいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。
日本は、私たちが入手できない重要なデータを、原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした」

オーターソン大佐に報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部でした。
小出策郎軍医中佐。30歳代の若さで医務局に入ったエリートです。陸軍が最初に行った調査の報告書も、すべて英語に翻訳されてオーターソン大佐に渡されていました。

何故、小出中佐は終戦前から軍が独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか?
当時の内情を知る人物が生きていました。陸軍の軍医少佐だった三木輝雄さん。94歳です。陸軍軍医のトップ、医務局長を勤めた父を持つ三木さん。終戦時は軍全体を指揮する大本営に所属していました。
報告書を提出した背景には、占領軍との関係を配慮する、日本側の意志があったと言います。

「いずれ要求があるだろうと・・・。その時は、どうせ、持っていかなけりゃいけんくなる・・・と。それなら、早く持って行ったほうが、いわゆる心証が良いだろう・・・という事で。それで要求が無いうちに持っていった・・・」

NHKスタッフ
「その『心証を良くする』っていうことは、何のために心証を良くしようとしたのでしょうか?」

・・・長い沈思の黙考・・・

「731(石井細菌部隊)のこともあるでしょうね・・・」

化学兵器の訓練をする日本軍の白黒写真

三木さんが言う731部隊は、生物・化学兵器等の効果を確認するために、満州で(中国人や満州人・朝鮮人などの)捕虜を使った人体実験を行ったとされる特殊部隊です。
終戦を前にしたポツダム会談で、アメリカを初めとする連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪に対し、厳しい姿勢で臨む事を確認していました。

小出中佐は陸軍の戦後処理を任された一人
終戦を迎えた8月15日。小出少佐に極秘命令です。
「敵に証拠を得られる事を不利とする特殊研究は、すべて証拠を隠滅せよ」

大本営にいた三木さんは、動揺する幹部たちの姿を間近で見ていました。
戦争犯罪の疑惑から逃れるためにも、戦後のアメリカとの関係を築くためにも、原爆報告書を渡すことは「当時の国益に叶うものだった」と言います。

三木輝雄さん
「新しい兵器を持てばその威力っていうものは、誰でも知りたいものですよ。
カードで言えば有効なカードがあまり無いので、原爆のことはかなり有力なカードだったでんでしょうね」

自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。そして、戦争に負けた日本。原爆を落とした国と、落とされた国。二つの国の利害が一致したのです。

続く

#封印された原爆報告書 #広島原爆 #核兵器禁止条約