守田です(20210820 23:30)

8月1日から7日までの広島の旅の報告の続きです。

● 被爆二世討論会に参加しました!

8月3日、広島市で「被爆二世の課題を考える」討論会に参加しました。呼びかけはこのお2人です。
木原 省治(原発はごめんだヒロシマ市民の会代表・広島被爆二世)
西河内 靖泰(元広島女学院大学特任准教授・広島被爆二世)

広島の被爆者の方を含めて十数名が集って下さり、コアな話ができました。西河内さんの司会のもと、木原さんがあいさつし、森川聖詩さんが基調的な報告を行いました。
それぞれにとても素晴らしい内容でした。文字起こししてお伝えしたいのですが、今回は割愛します。先にどうしてもお伝えしたいことがあるからです。
また森川さんの基調的な報告については、より詳しい講演が9月12日午後3時から行われます。

ぜひ聞いていただきたい内容なので、すでに配信している告知記事をご紹介しておきます。
明日に向けて(2076)zoom公開講座「被爆二世問題・運動の歴史と今後の展望」にご参加を!(9月12日(日)15時~18時)
https://toshikyoto.com/press/6552.html

さて被爆二世討論会では、森川さんの基調を受けて、質疑応答に入ったのですが、期せずしてそれぞれの自己紹介が始まってしまいました。それぞれ語りたい内容満載で参加されていたのです。
そのすべてをご紹介したいのですが、今回はその中のAさんのご発言をお伝えしたいと思います。(全文ではなく部分録です)

● Aさんのお話からーABCCの思い出

私は1954年生まれです。今は仕事はほとんどやってません。
両親が被爆しました。おやじも死んで、おふくろも62歳でガンになり3年の闘病で亡くなりました。

小さい頃に先祖の墓参りに行った時に、おふくろに言われたことがショックでね。「実際にはこのお墓の中には骨が入っていない」というのです。
小さい時で意味もよく分からなかったのですが、爆心地に近いところだったのです。それが私が初めて原爆についてショックを受けたことでした。
その後に「はだしのゲン」を読んだりいろいろ勉強して、沖縄戦をはじめ戦争末期は、戦争ではなくて一方的虐殺さったことも知り、怒りを抱きました。

子どもの頃、もの心がつく前の思い出として、雨の日に学校にすごいかっこいいジープがやって来るんですね。「なんでA君、乗れるん?」「ちょっと言って来るわ」と意味も分からずにABCCに連れていかれたんですね。
(注ABCC=原爆傷害調査委員会。ー戦後にアメリカが被爆者調査のために広島と長崎に設営した組織。調査は強引でしかも治療をしなかったことで有名。被爆者の怒りを買い続けた。1975年から米日合同の「放射線影響研究所」に改編)

ABCCに行くと痛い注射を打たれるんです。でもその後に、食べたこともない豪華なサンドイッチが出るんですよ。からしがいっぱいついていて。
これにコーヒーがつく。ミルクと砂糖をいっぱい入れて飲んで、ものすごくうまかった。昭和30年代の中ごろのことですから、そんなサンドイッチなんて見たこともなかった。
その後にテレビ放送が始まったときに、ポパイがハンバーガーをかじっていたのですが、なんのことだか分からなかった。サンドイッチだって当時の日本の家庭にまだないんです。
あのサンドイッチを何回食べたのかな。結構、行っているんですよ。嫌じゃなかったんですよ。注射は嫌だったけれどサンドイッチとコーヒーが出るし。あと豪華な木馬にただで乗れるんです。

● 心臓に穴が開いていた・・・

5歳のときに、心臓の壁に直径1センチの穴が3つあることが分かりました。「この子は20歳まで生きられない」と言われ、両親がショックを受けたらしいです。
学校にも発作がありながらなんとかして行っていましたが、運動会も遠足も参加できず。もちろんプールも参加できませんでした。
冬になると足の指の間がイチジクのように割れていました。毛細血管までうまく血が巡らなかったのです。

ある日、9歳の時に、赤いスポーツカーに乗ったかっこいいドクターが家に訪ねてきました。T先生という方でした。
「自分が編み出した超低体温手術を受けてみないか」というのです。
家が建つぐらいの手術費でしたが、10歳の時に受けました。

朝10時に手術が始まり、意識が戻ったのが夜の10時半という大手術でした。周りの方たちは「もうこの子はダメだろう・・・」と言っていたそうです。
当時は医学的な設備が少なかったそうで、血液がすぐに集まらなくて、お母さんが親戚中に頭を下げて血液を集めてくれたそうです。
なかなか集まらなかったそうですが、なんとか両親が必死で血を集めてくれて今の私があります。だから「親より先に死ねないな」と子ども心に肝に銘じて生きてきました。それで今もこうやって生きているのですが。

あとで知ったことですが、僕はT先生の7人目の手術患者でした。身体を凍らして、仮死状態にして、心臓の動きをとめて手術をするのです。
それまで行われてきたのは、人工心肺手術でしたが、「超低体温手術」に比べて、数倍の血液が必要でした。
実はこの手術は4人目までは死んでいたのです。だから今ここにいるのは奇跡のようなものです。

それで心臓は良くなりました。でもそれで元気になれば良かったのだけれど、その後も7年周期ぐらいで入退院を繰り返しました。
やってない病気がないぐらいいろいろな病気をしています。
胃潰瘍、十二指腸潰瘍、鼠径部、ヘルニア、腸閉塞、腰痛などなど。とにかく健康な時の方が短いのです。

● 差別があるけどそれがどうした

自分はそんな風に病と闘ってきましたが、世の中にはそんな被爆二世であることを隠そうとする人もいます。
これに対して自分は被爆二世として堂々と生きています。「差別はあるけれどそれがどうした!」と思って来ました。

確かに差別があるのは事実。差別はいけんのだと言いながら、オリンピックの時だって、小池知事によってホームレスがみな住まいを追われた。
差別はこの地球上で繰り返されています。いつも怒っています。

それで私に何ができるか。中学からずっと創作活動をしてきました。仕事をしながらもマンガを書いてきました。
いろいろな雑誌や新聞にも連載を持ったり、イラストの仕事もしてきました。だから残りの人生、テーマのあることに関わりたいと思っています。
たまたま絵が作れる。作品が作れるということで、何かを残したいと思っています。


「差別は無くならない。負けるな!」と語られた肥田舜太郎医師 2013年 守田撮影

● 被爆二世の生を見つめる

以上、短い時間の中でAさんが語られたことを紹介しました。
多くの被爆二世が背負ってきたことの中の1つのリアリティを、知っていただきたかったからです。
もちろんこれはAさんの個人的体験です。でも多くの二世が、そして三世が、似たような体験を経ています。

私たちはこれをできるだけリアルに、たくさんつかんで、世に出したいと思っています。そのために京都「被爆二世三世の会」で、健康調査アンケートを実施中です。
これが被爆の実相なのです。被爆とはこういうことなのです。なおかつ知ってほしい。その上で堂々と生きている二世がいる。「差別はあるけれどそれがどうした」と誇り高く生き抜いている二世がいる。
何よりも今は孤立している二世、三世に気が付いていただきたい。あなたは天涯孤独なままに苦しんでいるのではない!同じ労苦を抱えている仲間がたくさんいるのです。

同時にみなさん。ここにこそ被爆問題があることを知ってください。被爆を過去の問題としてはいけない。今、まさに継続中の問題なのです。
しかも広島・長崎の被爆二世、三世、四世だけが問題なのではない。核実験で、核廃棄物のせいで、原発事故のせいで、新たなヒバクシャが次々生まれています。その二世、三世、四世も生まれています。
だからこそ、被爆は今のことであり、あなたのことなのです。私たちのことなのです。

Aさんの個人的体験から普遍性をつかみ取ってください。堂々と生きているAさんの心意気に応えながら。

続く

#被爆二世 #被爆二世運動に問われていること #ABCC #原爆傷害調査委員会 #放射線影響研究所 #木原省治 #西河内靖泰