守田です。(20121129 10:00)

ロクローさんのインタビューの(中)をお送りします。「なぜ食堂をやろうと思ったのか」「放射線を測って、安全を確認して、みんなで食べたら泣けた・・・」の二つです。

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NONベクレル食堂のめざすもの(中)

なぜ食堂をやろうと思ったのか

―ところでロクローさんは最初は放射線測定室をと考えていたのに、食堂に転換したのはなぜだったのですか。

(ロ)元から食堂をやりたいとは思っていたけれど、現実的ではないなと思っていました。測定器があれば、食べ物は測れるわけだし、それでとりあえず測定所をと思いました。安全なものを見つけて、食べられることを知らせたいと思ったのです。
食堂をやると言い出したのは4月か5月のころです。守田さんや矢ヶ崎さんと一緒に測定所廻りをした少し前です。(注 ともに宮城県南部にある「みんなの放射線測定室・てとてと」と「小さき花・市民の放射能測定室」を訪問)根拠は「食材は集められるなあ」という思いがしてきたことです。たくさんの農家さんを知っているので。今、知っている範囲でもやれば十分、集められると思いました。

オープン当初はヤマギシ会の知人からの調達がメインでした。僕の中学の同級生がいて、精力的に農作物を作っているのです。他にも農家さんがたくさん身の回りにいる。有機や自然農法をやっている農家さんで、それをつないでくれる業者の方もいます。「フランク菜っ葉」さんがその一つです。京大の西部講堂の裏側の鞠小路(まりこうじ)に出ている小さいお店です。小農家さんの野菜をおいています。東一条の信号より少し上(かみ)です。
福井、滋賀の小農家さんを知っていて、ものすごく小回りがきく。この人が「全面的に協力するよ」と言ってくれたことが凄く大きかったですね。小農家さんは、キャベツでも何トンとかない。たまねぎは、ここは50キロで終わりやとか、次はこれ100キロやとか、そういうレベルなんですが、先に何がどれぐらいあるかを言ってくれるので、先に1キロもらって、測定して、安全を確認して使用を考えるということが、うまくいとまわしていける。仕入れに関してはこれが現実的なところです。

そのほかに、福島や東京やいろいろなところから避難してきている人と、かなり知り合ったことも大きかったですね。僕も原発事故以来、子どもの給食のこととか、いろいろなことをやってきたつもりです。でもやはりあの人たちとは危機感が違う。僕もネットでどこでどれぐらいの土壌のデータが出ているかを調べて、三重県は大丈夫、それで三重県ならヤマギシ会のところにいって、土壌がどうなっているか、食肉やったら、飼料がどうなっているか、全部見て、安全を確認してきました。それで取り寄せてきた。
反対に、この京都の近辺で有機農業をやっていても、堆肥は全部東北から持ってきているという人もいるのです。それを知らずに食べてしまうことが怖かったので、京都で自分で堆肥を作っているかどうかとか、食肉の飼料に抗生物質が入っているかどうかとか、そういうことを調べました。それで土壌が大丈夫だったら、そこで作られたものは大丈夫でしょうということで、そういう調査をしながら選んだものを子どもに食べさせていました。
けれども、それでも安全だというのはまだまだ僕の推論で、確実とは言えないわけです。牛乳も僕はヤマギシのものは安全だと思って飲ませてきたのですけれども、たまに夜ふと考えて、何かの間違えで子どもが毎日、数ベクレルとってしまっていたらどうなんやろうと考えるとゾッとしました。

でもそうやって毎日、自分の家で食べるのは難しくて、たまに外食することもあるわけですけれども、そんなときは左京区の「キッチンハリーナ」さんなど、食材を選んで、安全な料理を出すことを心がけてくださっているところがそこそこあるので、そういうところに行ってました。
そうしたらたくさん知り合った避難者の方と、そういうお店でよう会うんですよ。そのときみんな、ことこどく、子どもさんに魚を残させている。中には肉を残させている人もいる。わざわざこういうお店に食べにきているのに、これを残すのかとショックを受けました。それがもう凄くたまらない気持ちになりました。この人たちが魚や肉を安心して食べられないことがとても悲しかった。
僕も東日本大震災以降、スーパーで買い物をしなくなったのですが、そうすると生活がむちゃくちゃ厳しいんですよ。宅配でとったりするのですけれど、それができなかったらみなさん、スーパーで産地をみて買うしかない。でもそれにはすごい不安があるでしょう。

―産地はたびたび偽装されてますしね。よくわかる。最近も、神戸のJAが、岩手のお米を神戸米と偽って売っていたことが報道されました。

(ロ)聞いたところによると、福島の中央市場のものが、完全に、100%売り切れるらしいのですよね。ようは最後の最後には、卸売りの仲買人がきて、全部安く買い叩いていくわけですよ。でもそれらはスーパーではほとんど見ないから、結局、加工業や外食産業にまわっていると思うのですね。
だから何かやり方を変えていかないと、いつまでも不安を抱えながら、「大丈夫だろう」というところで生きていかなくてはならない。それで放射能を測った食材による食堂をやることで、「これは大丈夫ですよ」とみんなに紹介しようと思ったわけです。

今、ネットで販売されている食材を見ると、こういう苦しい気持ちの人たちの足元を見て、凄い値段をつけているなという気がするのですよね。お米などでも、正直言って、測定結果をつけて「酷いなあ。この値段で売るのか」と感じることが多々あります。ほんまにすごく高い。
また減農薬と言うても、いろいろあります。無農薬でも化学肥料を使っている人もいます。省農薬といって売っても、その内容まで言っている人はなかなかおらへんのですよ。だから美山町とか京北町(注:京都府の農村地帯)にいって、農家さんが自分のところの米を食べるつもりで最初に農薬を撒いて、間に2回ぐらい殺虫剤を撒いて、そんな感じで収穫していますが、あれでも減農薬なんですよね。

結局、減農薬、省農薬といってもいろいろあって、ちゃんと認定をとっていてもかなり幅があって、実態はあいまいだと思うのです。例えば、間に使う殺虫剤は、カメムシよけだったりするわけですよ。それより、大地から植物が吸ってしまう農薬や化学肥料の方がよっぽど危ない。そうしたコメ作りの仕組みを買う側が分かってないので、省農薬というとすごく聞こえが良くなってしまう。でも実際にはやり方に、つまり安全性に天と地ほどの差があります。にもかかわらず、それをきちんと説明してやっているところは少ない。
正直なお米農家さんやったら、5つぐらい品種があって、一番安いのは、「これ化学肥料を使ってまんねん」と正直に言っていて、2番目から化学肥料が無くなっていって、最終的にはオーガニックで作っていると、そういうところももちろんちゃんとあるのですけれども、結局、日本って、どこをとっても金太郎アメやという気がして、商売だけでみたら、みんな、けっこうあくどいんですわ。非常に残念です。

また給食の安全性を守ろうということで、京都市教育委員会、京都市、市会議員、府会議員に、たくさんのFAXを送りましたけれども、ちゃんと回答があったところ、人はほとんどいませんでした。とくに教育委員会や市は、「国の基準に従います」というワンパターンな声しか返してこない。
その中でPTAの会長と話してみても、子どもの心配ではなくて、「ヒロミさん、お宅、何の団体に入っているんですか」とそんなことばっかり聞いてくるし。それでよく聞いてみると、市会議員に出るにはまずPTA会長をやってとかいうことでなっていたりするそうなのです。ほんまにしょうもない世の中やなという感じがしてしまいました。

そんなときに、福島から避難してきたお母さんに、「私たちは被曝をしてしまったから、もうこれ以上、子どもにセシウムをとらせたくないけれども、でもその最初のときの被曝をなしにして考えたら、西日本の人も食べるものを考えなかったら、内部被曝としては私たちと一緒じゃないですか」と、凄く悲痛な感じで言われて、それはそうだなと思ったのですね。
京都の中央市場にいったら、思い切り、被災地のものを見ますしね。あれがどうしてスーパーに並んでないのか。どこかにまわって、私たちの口元まできているというのが実際やと思うし。

放射線を測って、安全を確認して、みんなで食べたら泣けた・・・

(ロ)それでお店を開くことにしたわけですけれど、僕は最初は土壌を測ればそれで食材の安全を確保できると思ったわけですけれども、それがだめになったから、3週間ぐらいかけて食材を全部測ることにしました。でも凄く大変で、ちょっと地獄のようでした。これだと店を開けるまでにお金がなくて破綻してしまうのではというような感じもありました。測るための時間もかかれば、それ用の食材のお金もかかる。
すでにメニューに使っているものだけで100種類以上、全体では140種類ぐらい測りましたが、その一つ一つが1リットル、あるいは1キロぐらい必要になります。もちろん重量の軽いものもあって、ローリエなんかはなんぼつめても100グラムにしかならないのですが、そういうものは2日間ぐらい測らないとだめなんですよ。それで時間が取られてしまい、先に進まないからイライラする。

でも立ち上げを前にして、70品目ぐらい測ったときに、「これで一応、思っているメニューはできるよね」となりました。それで最初のメニューを全部作って、みんなで試食会をしたのです。そうしたら、ほんまにもう、めちゃくちゃにうまくて。
食べているときに、「あれ、なんか違うなあ」と思いました。「何が違うんやろう。この食材はもともと食べていたし、子どもにも食べさせてきた。あ、そうか測っているからや」と思いました。子どもにも、「これも食べろよ、これも食べろよ」と言える。そこに不安感がないのです。そうなってくると、「そうや、そうや、食事って、もともとこんなに楽しいもんやったよね」と思えて、その時にすごく泣けてきました。感動というよりは、腹立ちでもありました。

―よく分かります。当たり前の幸せを奪われてきたということですよね。

(ロ)東日本大震災でこんなことになってしまって、取り返しはつかへんし、大震災が起こったときに、自分の子どもも含めて、次の世代に本当に申し訳ないなと思いました。僕らがええ加減なことをしてきたから、結局、彼らにこれを引き継がせるわけでしょう。
僕らの若いころは、親の世代が本当にムチャクチャしてきたから、「あんたら本当に無責任やわ」と言ったこともあったけれども、だけど、結局自分も同じことを子どもたちに引き継がせていくわけで、やはり生き方を変えないといけないなと思ったのですね。中古車屋をやって生計をたててきたけれども、もうちょっと直接的なことをしないといけないと思ったのです。

がれきのことで行政交渉のために京都市にいったときも、僕は住所と名前を明かしてきました。あえて名前を出さない人もいましたが、自分は名前をはっきりだして、この食堂の名前も出して、こういう姿勢で生きるとはっきりさせないとダメだなと思ったのです。少なくとも僕の家族は今、大震災前の感じで、安心して食べることができているから、そのように、努力しだいでは取り戻せるものはあるし、こうしたことが、みんなの中で当たり前のものになればと思います。
大変な汚染をされたけれども、その中で僕らは生きていかなければならないわけです。だからまだまだ不安なことはたくさんあるのだけれど、頑張ってやっていくしかないかなと思っています。

続く