守田です(20200609 23:30)
● 中世ポーランド特殊な位置性
前回、「明日に向けて」連載1800回越えに際し、内容のバージョンアップをお約束しました。とくに歴史・哲学・倫理学・経済学などでの論稿を積極的に出していこうとも書きました。
コロナ禍の中で、あるいはアフターコロナの中で、もっと人文科学が前に出なくてはいけないとも思ってのことです。
そんな時に、かつて書いた原稿がよく読まれていることに気が付きました。2014年10月にポーランドを訪問したのちに書いた以下の原稿です。
明日に向けて(963)中世ポーランドの寛容の精神に学ぶ(ポーランドを訪れて-2)
20141103 23:30
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/0d46734d031dd9ff7ee2419e1cb364fa
恐らくは、新型コロナウイルス感染症と向かい合う中で、多くの人々がカミュの小説『ペスト』を読むなどして、中世ヨーロッパに甚大な被害を与えたペストについて感心を持ち、この論稿を見いだしてくれたからだと思います。
そう中世ポーランドは、ヨーロッパの中で、ペストの被害を免れたほとんど唯一の国なのでした。
そしてそのために、ペスト禍の中で各地で迫害を受けたユダヤ人が多数集まることになりました。それがポーランドを大国に押し上げていくことに結果しましたが、現代にいたるまでにそこに繰り返し大きな惨劇が生まれました。
一つにヒトラーが率いてユダヤ人の迫害を続けたナチスが、このポーランド、そして旧ポーランド領のベラルーシやウクライナで大量のユダヤ人虐殺を行ったことでした。
もう一つは第二次世界大戦が終わり、この地域が農業を中心に穏やかに発展し、豊かさを取り戻した時にチェルノブイリ原発事故が起こったことでした。(1986年)
こうした現代に通じる悲劇を知るためにも、私たちはポーランドの歴史を知る必要があります。
写真1 ポーランド・ヴロツワフの聖ヨハネ大聖堂 守田撮影
● 国とは何か。国境とは何か。
まず国名のことをおさえておきます。私たちは日本語でこの国を、ポーランドないしポーランド共和国と呼んでいますが、この国のポーランド語での正式名称は”Rzeczpospolita Polska”です。
カタカナ表記するとジェチュポスポリタ・ポルスカ。略してPolska=ポルスカがよく使われています。
お土産などを見てもPolskaの刻印のあるものが多い。なのでポーランドの方とお会いした時には「ポルスカ」と呼称した方が喜んでいただけるように思います。
この国が位置している地域はざっくりと言ってドイツとロシアの間。ヨーロッパの東側、ヨーロッパの辺境とも言われることもあったようです。ただし現在の国境は第二次世界大戦の末に定められたもので、それまで大きな変動を繰り返しています。
ここで歴史を見る上で「国」という概念、ないしは「国境」というものに、大きな注意を払わなければいけないことを踏まえておきたいと思います。
というのは私たちが住まう国は、歴史が記されるようになって以降、一つの連続したつながりの中で描けます。もちろんアイヌ民族など、西から侵略を受けた側から考えたときに「日本史」には、大きく書き換えなければならない側面があります。
それでも世界の中で、こうして一つの時系列に沿ったつながりの中で「国」のことを説きやすいのはまれであり、歴史上、大きな存在を示しながら、その後に衰退し消えていった「国」も「民族」も、たくさんあったことを知る必要があります。
とくに陸続きにたくさんの国や民族が存在している地域では、その境も激しく変動しています。そのため「国の歴史」としては描けない地域がたくさんあります。
さらに「イスラエル」が「建国」される前のユダヤ人など、「国」という枠組みで捉えようとすると、外れてしまう人々もいます。
そもそも「国家」とは何かということ自身も大きな問題です。私たちが考えている「国家」や「民族」は、実は近代になって成立してきた概念だからです。その点で私たちは今の「国家観」を相対化させ歴史と向かい合う必要があります。
写真2 ポーランド・ヴロツワフの街並み ここは第二次世界大戦終結まではドイツ領だった・・・ 守田撮影
● ペスト禍で宗教的に寛容だったポーランドにユダヤ人が集まった
この点を踏まえた上でですが、歴史を遡ると、この国が「ポーランド」として成立したのは紀元966年であるとされています。この国の支配者が西洋のキリスト教を受け入れ、ローマ教会に認知されたのがこの年でもあります。
その頃はほぼ現在の領土と同じ地域を支配していましたが、その後、大きくなっていきます。14世紀末には北方のリトアニアと合併してポーランド=リトアニア連合を形成。1596年にはポーランド=リトアニア共和国となり、黄金時代を迎えます。
どう黄金だったのかと言うと、当時のヨーロッパで最強最大の勢力を保っていたというのです。支配地域も現在のベラルーシやウクライナ、リトアニアやバルト三国、さらにはロシアの一部にまで踏み込むほどの力を示していました。
この頃のポーランドのことを調べていて、非常に感銘を受けたのは、この頃のポーランドが他のヨーロッパ諸国に比して宗教的に寛容な国だったことです。
とくにキリスト教圏で支配的であり続けてきたユダヤ人への差別的なあり方をとらず、1264年9月8日に「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」(カリシュ法)が制定されており、ユダヤ人の人権の保護が強くうたわれています。
さらに14世紀に起こったペストのヨーロッパへの蔓延の中で、各地で「この病を広げたのはユダヤ人だ」というデマゴギーが流布され、迫害が強まりましたが、この時にもポーランドではデマは沸き起こらず、多くのユダヤ人がポーランドに移住しました。
この時期、ポーランドではウォッカを飲用としてだけではなく、消毒に使う風習が一般化しており、トイレなどもウォッカで拭いていたため、劇的にペストの蔓延を免れたため、ユダヤ人の陰謀説というデマが起こりえなかったという説もあります。
ともあれこの時期、ポーランドにはヨーロッパ全体のユダヤ人の4分の3もが集まったとも言われており、そのユダヤ人の中に金融業に携わっているものが多数いたため、次第にポーランドがヨーロッパの金融の中心的位置を占めるようになりました。
図1 ヨーロッパにおけるペスト伝搬地図 ポーランドは「感染例小」となっている
Pestilence spreading Japane.pngより
続く
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