守田です。(20121107 21:00)

昨日、11月11日に参加する京都市醍醐母親大会との関連で、ビキニ環礁核実験と第五福竜丸の被曝などを再度、捉え直すべきことを書きましたが、今回はそれをさらに一歩、進めるために、昨日も紹介した番組を取り上げようと思います。
番組名は『放射線を浴びたX年後』。愛知県松山市の南海放送が8年間にわたって作成したものです。これに映像を追加したものが各地で劇場公開されています。詳しくは以下をご覧ください。
http://x311.info/

映画の紹介のチラシには以下に書かれています。

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1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。当時、多くの日本の漁船が同じ海で操業していた。にもかかわらず、第五福龍丸以外の「被ばく」は、人々の記憶、そして歴史からもなぜか消し去られていった。闇に葬られようとしていたその重大事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たちだった。
その足跡を丹念にたどったあるローカル局のTVマンの8年にわたる長期取材のなかで、次々に明らかになっていく船員たちの衝撃的なその後…。そして、ついにたどり着いた、 “機密文書”…そこには、日本にも及んだ深刻な汚染の記録があった―

南海放送(愛媛県松山市)では約8年にわたり、これまであまり知られることのなかった「もうひとつのビキニ事件」の実態を描いてきた。地元の被災漁民に聞き取りをする高知県の調査団との出会いがきっかけだった。
制作した番組は「地方の時代映像祭 グランプリ」「民間放送連盟賞 優秀賞」「早稲田ジャーナリズム大賞 大賞」など、多数受賞。2012年1月に「NNNドキュメント」(日本テレビ系列)で全国放送され反響を呼んだ『放射線を浴びたX年後』に新たな映像を加えた映画化。

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この2012年1月に放送されたものを、僕は録画していて、最近見て、感銘を受けました。同時に、広島・長崎のことだけではなく、この核実験での被曝の問題をもっときちんと押さえなくてはいけないという思いを強めました。
ビキニ環礁の核実験は、1954年3月から5月に6回も行われました。その規模はどれも広島原爆を1000倍もするもの。従って、そこで放出された放射能も、広島・長崎原爆で振りまかれたものとは桁違いでした。
例えば僕の親友のある女性は1954年4月の生まれです。彼女が最近、同窓会であった7人の女性のうち、なんと6人がすでにガンを経験していたという。これにはこのときの実験の影響があるのではないか。つまりこの事件は、私たちの今に大きくつながっているのではないかと思えるのです。

したがってまた私たちは、広島・長崎、ビキニ、そしてスリーマイル、チェルノブイリ、福島、あるいはまた劣化ウラン弾の降り注がれたイラクやコソボなど、あらゆる「被曝」をひとつの系で見ていく必要があるし、その中から未来に向けた重大な何かをつかみだせるのではないかと思うのです。
そのために今回はこの番組の内容をノートテークしてみなさんにお伝えしようと思いたちました。映画については紹介が遅れたために、すでに上映が終わってしまったところも多いようで残念ですが、ぜひお近くの劇場での公開見つけたときには、駆けつけてご覧になってください。
以下、文字起こしをお送りします。

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ナレーション
2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばらまかれました。一般市民に向けられる線量計。繰り返される直ちに健康に影響はないという言葉。目に見えぬ放射能の恐怖に人々は不安を抱いたままです。
しかし今から58年前、同じこの日本で線量計が人々に向けられたことは知られていません。そして日本全土が、放射性物質ですっぽりと覆われたことも。
救済されることなく死んでいった多くの人々がいることも。

タイトル
放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
元高校教師の山下正寿さん(67)は、かつてアメリカが太平洋で行った水爆実験による被害を、27年にわたり調査してきました。

山下 フィルムをさしながら
「水爆を見た人・・・」

ナレーション
撮影されたフィルムには被曝した漁師たちの証言が記録されています。

映像に写っている漁民たちの言葉
「ピカーンときたがや。目をとられるば。ピカーンと。おおっとこれはどういうやろうと。しょったところ、真っ赤になって・・・」
「ピカッときのこ雲が出て、水平線から水平線までいったもん。ざーっと」

「亡くなった方は分かりますか」
「タケダトヨジ、タケダトヨキチ、この人らはほとんどもうガンですね」

1954年3月1日水爆ブラボーの映像

ナレーション
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験。広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆が、マグロ漁船、第五福竜丸を襲います。吹き上げられた珊瑚の粉に、放射性物質が付着したいわゆる死の灰によって、乗組員が被曝。
6ヵ月後、通信長の久保山愛吉さんが、急性放射能症のため死亡(9月23日)。いわゆる第五福竜丸事件です。

南太平洋でのマグロ漁(1950年代)の映像

ナレーション
しかし放射能で汚染された死の海にいたのは、この船だけではありませんでした。

第二幸成丸乗組員
「全部、ガイガー計数器いいますか、これ全部こうみんな、全員やられたもんね。針がプッと振り切れてますわね」
他の同船乗組員
「それで私がやられた頭で1500(カウント)と言われたの」
他の同船乗組員
「ガイガー測定器、メーターを振り切ったねえ。体いったい、どこもかしこもね」

ナレーション
キャッスル作戦と名づけられた水爆実験は、3ヶ月の間に6回行われました。

映像
①ブラボー 1954.3.1 
②ロメオ       3.27
③クーン       4.7
④ユニオン      4.26
⑤ヤンキー      5.5
⑥ネクター      5.14

ナレーション
セシウム、ヨウ素、ストロンチウム、プルトニウムなどが海を汚染。さらに上空に吹き上げられた多量の放射性物質が漁船を襲いました。やがて多くの乗組員たちが次々と死んでいきます。

新生丸乗組員の妻
「窓を開けて、血をポッタリと吐いてね、死んでおったがです」
新生丸乗組員
「その船にのっちょった人間がどんどん、50代、60代で亡いようになって」
新生丸乗組員の別の妻
「もう、みんな若くしてね、ほとんど亡くなってしまったから、みんなが。ほとんど亡くなりましたね」
新生丸乗組員のさらに別の妻
「バタバタバタバターって亡くなってったんだよね」
第八昇栄丸乗組員
「みなもう、はよう死んでもうたわ」

同じ船に乗っていた夫と兄、そして義理の兄を相次いで亡くした女性がいます。

映像
兄 三木善喜さん 頸部のガン 享年63歳
夫 尾野竹重さん すい臓ガン 享年63歳
義兄 山村政光さん 心臓発作 享年65歳

尾野スミエ
「私の兄と、姉婿と、乗っていたみんながつらつらーっとのうなってしもうた。私の兄と一週間違いでのうなってしもうた、うちのお父さんがね。それから2年ぐらい先に姉婿がのうなったからね。
病院の上、下に部屋をとってね、(夫は)背中が痛い、言い出してね。それから病院に検査にいったらもう手遅れでね。すい臓も肝臓もガンで侵されちょってね」

ナレーション
高知県、土佐清水市に放置されていたマグロ漁船、住吉丸。かつてあの第五福竜丸と同じ海で操業していました。見つけたのは高知県で教師を務める山下さんと生徒たちでした。住吉丸は本当に被曝したのか。残留放射線の測定を試みます。

「どういうこと?」「なぜ?」

事件から35年が過ぎているにもかかわらず、船体からセシウム137、ストロンチウム90などが検出されました。調べてみると、乗組員11名のうち8名がガンで亡くなっていたのです。(胃ガン5名、肺ガン3名)
山下さんは50代の人間が何人も亡くなっていることを知り、衝撃を受けます。

山下
「教師になって帰ってきて、この事件にぶつかりましたから、第五福竜丸だけのはずなのに、おかしい。しかも自分の身近なところにいる人も関係しているということは、すごく緊張感がありましたからね。人の問題ですから。しかも救済はどこもしないですから。誰かがやらなければいけないことですよね」

ナレーション
山下さんは仲間の教師や高校生とともに被災者の聞き取り調査をはじめました。救済されることもなく、口を閉ざしてきた漁師たち。高校生の懸命な姿が生存者や遺族の心を開いていきました。被曝した魚を水揚げした船は東北から九州まで全国にわたっていました。
そのうち高知県の船が三分の一。3年にわたる調査のうち、高知県内で消息の分かった乗組員は241名。被曝から34年。すでに三分の一が死亡していたのです。(死亡者77名 32% うちガンなどの病死者61名)

調査用紙に残された生々しい証言。

第八順光丸乗組員
「実験直後、めまい、やけどあり。歯茎から出血。」
第七大丸乗組員
「白血球少ない」
第一徳寿丸乗組員
「きのこ雲を目撃。二週間後、脱毛が起こり、顔が真っ黒くなる。
第八順光丸乗組員
「だるさ、脱毛」
第二幸成丸乗組員
「29歳で被災、脱毛が起こった」
第七長久丸乗組員
「水爆との関係は不明だが、機関長は2年くらい前に胃ガンで死亡。甲板長は30歳で胃ガンで死亡した」
新生丸乗組員
「大腸ガン死、肺病死、口頭ガン死」

漁師たちの無念をはらしたい。山下さんの活動は高校教師を辞めたあとも続いていました。

映像
長崎県南島原市口之津町の故林三義宅を山下さんが訪問

山下
「おはようございます。平さん、よろしいですかね。先に三義さんにお線香をあげたいんですが」「あら、そうですか」

ナレーション
当時、ビキニ海域にいたのは、まぐろ漁船だけではありませんでした。貨物船弥彦丸の乗組員、平三義さん(享年71歳)は、40歳のとき、岡山大学付属病院で放射性物質による白血球減少症の疑と診断を受け、被爆者健康手帳の交付を求めます。
しかし広島、長崎の被爆者ではないという理由だけで、申請は却下されたといいます。

山下
「体がだるいゆうて、よく言われていたようですね」
林チミ(三義妻)
「そうですね。もうきついきついっていうてからですね、寝たり起きたり、寝たり起きたり」
山下
「もうちょっと早ければ良かったのですけれど、今からでも調べたいと思っていますので」

「もうこっち(口之津)には(生存者)おられないですものね。口之津には、3人、4人いられたのですよね」
山下
「でも大変でしたね、ずっとそうやって、看病したり病院にいったりせないかんのはね」

「運命って思わにゃ、仕方ないですね。苦労しました。そっちこっちにね、病院通いばっかりじゃったですよ。」

山下
「漁民の体を通して、ガンとか心臓発作とかそういう病気を通して、『なぜ俺はこんな目にあって死ななきゃいけないのか』という思いをずっと積み重ねているわけですからね。そのときに初めて明らかになるという。そういう意味で怖いですよね。
何十年も経たないと明らかにならないという。何十年経ってやっと、漁船員の死を通して立証されようとしているということですから。」

ナレーション
調査中、山下さんは被曝の実態解明にいたる、重要な手がかりに出会います。

映像
第二幸成丸船長の妻 崎山順子さんと漁業日記を調査

山下
「(日記を読みながら)「引き続き続行中」。非常に風が吹いたんですね」

ナレーション
それは第二幸成丸船長の崎山秀雄さんの残した漁業日記でした。通常、航海が終わると廃棄される漁業日記。偶然発見されたこのノートから、船の位置や操業の様子。被害の実態をたどることができたのです」
(日記)「2月24日晴れ。14時30分、浦賀出港。一路、マーシャルへ。」

紙テープで彩られた浦賀港。航海の無事と豊漁を願ってかけつけた家族に見送られ、第二幸成丸は二週間をかけ、南太平洋を目指します。
(日記)「3月1日、連日、向かい風強く、引き続き、続行中。東経154度57分5秒、北緯28度24分」

出港して六日目。3月1日アメリカは一回目の実験となる水爆ブラボーを爆発させます。第二幸成丸の通信長、山下昇一さんは無線を傍受。第五福竜丸が死の灰を浴びた・・・

第二幸成丸山下通信長の妻 山下尚子さん
「自分が無線でツーツーやっているでしょう。トンツートンツーいいますか、あれで。そのときに分かったらしいのですの。第五福竜丸が(死の灰を)被ったいうことが。
あれらがやられたということを自分が無線で聞いたらしいです。灰を被ったということを。自分が一番近くにいるということがわかるでしょ。それで船員には伝えたらしいです」
第二幸成丸乗組員 有藤照雄さん
通信長は、「静岡の船が空から灰のようなものが降ってきて、珍しい、皆、拾ったらしい」と聞いたのですよ。

ナレーション
第五福竜丸が死の灰を浴びて帰路を急いでいたころ、第二幸成丸は船を進めていました。アメリカが定めた危険区域を避け、3月11日からマグロ漁をはじめます。操業中の3月27日、アメリカは2回目に水爆ロメオを爆発させます。33キロメートルの上空に吹き上げられた放射性物質が、第二幸成丸にも降り注ぎました。

山下尚子さん
「雲といいますか、あれはね、遠くから見たそうです。それでやっぱり離れちょったけれど、かぶっちょったらしいんですねえ。」

第二幸成丸乗組員 桑野浩
「日中に食堂に行き時に一番気がつきます」

ナレーション
第二幸成丸の生存者の一人、桑野浩さんは最年少の19歳。当時、被っていた帽子が自分の身を守ってくれたと考えています。

桑野
「鮮明に覚えているのは、飯の鐘がなるでしょう。若い衆から、タッタッターと、トモ言うんですけどねえ。船尾の方に走っていきますわねえ。そのときにパラパラと降っていることが何回もあったんですわ。生存されている方は、私の同僚では、やっぱり私と同じようにね、ピシッと帽子を被ってね、合羽を着て、防護をある程度、してましたね。まともに灰を体に入れた人は、早死にしていますね。」

ナレーション
松野繁樹さんは、知らず知らずのうちに、除染をしていました。

第二幸成丸乗組員松野繁樹
「ブリッジの上とか、マストとか、煙突ね、それから漁具をおいてあるところね。そこなんか水をかけたけれどね。やっぱり、水に流されてね、水のはけ口にたまっておったんですわね。それが覚えてますわ」

ナレーション
乗組員たちは、放射能で汚染されたマグロを食べ、海水を浴び、死の灰の積もった船で、30日間を過ごしました。4月25日9時30分、浦賀にひとまず入港。15時、東京魚河岸に係留。ただちに原子カウント検査。
第二幸成丸を待っていたのは、カメラのフラッシュと、ガイガーカウンターのけたたましい音。港は騒然としていました。

続く